陸前高田合宿レポート (4)

森家 麻悠子

 大雪と大寒波を覚悟してセーターや色々なタイプのカイロを持ち、「北極にでも行くの?」と家族に冷やかされるくらいの寒さ対策万全で行きましたが、予想外に、大阪とは変わりない気温でした(風は冷たく強く痛かったですが)

 「岩手県でも、内陸部の盛岡は雪は多いけど、沿岸部の陸前高田は、盛岡と比べると少ないほうだ。でも、冬の雪は夏の恵み、雪解け水のおかげで水不足にはならない。」
 その話をして下さったのは、出会って数分の私にいろいろな話をしてくださった村上食品のお父さんでした。
 「京都から来たのか〜! 遠いところから、わざわざありがとね〜」
 優しく話しかけてくださり、初めて会ったとは思えないようでした。



 仮設住宅の集会所の交流では、私は、被災された方の思い、生の声を聞きたいと思っていました。
 「お姉ちゃんも食べ〜よそってあげるから、どうぞ」
と言ってくださり、一緒にご飯を食べ、横に座ってお話しできたことがとても印象に残っています。
 お孫さんのお話や、お正月のお話、ベランダで育てているお花の写真も見せてもらいました。



 「ずっとあなたとお話ししたかったの」
と声をかけてくださったAさん。
 今回、私は、仮設住宅にお住まいの多くの方々に、「イベントに行きたいな」と興味を持っていただけるようなポスターを作りたいと思いました。
 描き始めの頃、「楽しそう」「かわいい」と思ってもらえるようなポスターを描こうと思っていましたが、先生に、「この部分はイメージが違う。ここはこう変えた方がわかりやすい」と、何度も何度も、イラストや文字についてアドバイスをいただき、やり直しを重ねて、やっと完成しました。

 現地の方がこんな細かいところまで見ているのかなと思うこともありましたが、Aさんと出会ったことで、実は私は、大事な役割を任されていたのだと気付かされました。

 「他の学生さんに聞いてね、やっとあなたを見つけられたわ」
と言ってくれた時は、私がやっとの思いで作ったポスターを楽しみにしてくれる人がいたのだとわかり、とても嬉しかったです。
 Aさんは、毎年毎年、伊達ゼミのポスターを仮設住宅のお部屋に飾ってくれるほど楽しみにしてくださっています。
 「部屋にポスターを飾っているから、見に来てくれる」
と私を自宅に招いてくれました。
 「仮設住宅」とはいっても、4年以上住んでいる部屋の中は、生活感に溢れていました。
 隣の家との壁は1枚で、台所にはもちろんエアコンはなく、持っているたった1つの電気ストーブを使わなければ底冷えする寒さでした。
 「なんもねぇべ〜なんもねぇべ〜」
と言いながら、Aさんは、リンゴやパイナップル、クッキーまで出してくださり、
 「鈴木旅館に帰ってから、みんなで食べな〜」
と、お土産まで持たせてくれました。
 おばあちゃんの家に来たような、懐かしい感覚でした。
 お部屋の中には、集会所での教室で作った編み物や、押し花、書道などの作品がたくさん飾られていました。
 被災されて、生きていくだけでも精いっぱいだったAさんが、今では人に自慢できるくらいの趣味をもち、イキイキと話をしてくださった姿は、今でも鮮明に覚えています。
 「あなたが書いたポスターも、ここに飾りたいの」
 もちろんプレゼントしました。
 こんなふうに、私たちのことを忘れないで心待ちにしてくれている人がいる。
 忘れてはならない。
 今のこの関係があるのも、先輩たちが築きあげてくれたつながりなのだと感じ、今後、後輩にも伝えていきたいです。



 震災当時のお話しをしてくださったBさん。
 「とにかく逃げること。津波から逃れるには、何も持たず、命だけもって高いところへ避難しなさい」
と話してくださいました。
 「でも、命が助かっても、病院での避難生活は二度と戻りたくない。プライバシーはほとんどないし、衛生面も悪い。1週間は何も考えられず、生きていくことだけで精いっぱい。ストレスから、ケンカも発生してしまう。」
 テレビや新聞では、「東北人らしい助け合い精神」を報道していて、どこか違和感を持っていましたが、現地に行って震災を経験した人の話を聞いて、やっと私は現実味を感じました。



 「津波が引いてから、自宅があったところを見に行ってみると、更地で何も残っていない。辺りには、1本の花だけ、数多く供えられていた。その花があったところは、自衛隊の方が遺体を発見した場所だ。」
 Cさんから聞きました。
 私は、ただ、目を見て頷くことしかできませんでした。
 「大変でしたね」の一言で済ますことなんてできないし、済ませられるわけがありません。



 東日本大震災が発生した当時、被害がまったくなかった大阪にいた私は、他人事のように感じていました。
 身近な人が被災したわけでもなく、日本で起きていることでありながら、遠いことのように思っていました。



 合宿が終わり、家に帰ってから、東日本大震災について、陸前高田について、もう一度調べてみました。
 震災前の陸前高田の姿と現在の姿とを写真で比較してみると、復興が進んでいても、海岸には大きな防潮提が建てられてしまいます。
 安全面が確保されても、以前のような美しい高田松原の景観は戻るのでしょうか。



 集会所でのイベントを通して、授業ではわからなかった被災地の様子や、現地の方々の生活を垣間見ることができました。
 事前授業では想像すらできなかった東日本大震災について、私に考え直させてくれるきっかけになりました。

 今、置かれているこの環境に感謝し、これから出会うであろう様々な災害にも、私も力になりたいと思いました。
 今回得た出会いを絶やすことなく、これからの合宿にも活かしていきたいです。

 本当にありがとうございました。

陸前高田合宿レポート (3)

立花慶太
 私たち伊達ゼミナールは、2月5日から2月8日まで岩手県陸前高田市で初めての合宿を行いました。
 これまで、テレビや写真でしか見たことのない震災後の陸前高田に行くことに緊張と不安を持ちながら、京都を出発しました。

 仙台からのバスが陸前高田に入ったとき、自分の目を疑いました。
 「震災から5年の月日が経とうとしているのだから、ある程度の建物が建っているだろう」と私は思っていたからです。
 あたり一面、土があるだけで、建物はほとんどありませんでした。
 自分の住んでいる京都の風景との違いに、ものすごい衝撃を受けました。
 京都には余っている土地はほとんどなく、マンションやお店などがいっぱい建っています。
 陸前高田の風景は、震災復興の困難さを物語っているように感じました。



 仮設住宅では、たくさんのお宅を訪問させてもらいました。
 一軒、とても記憶に残っているお宅があります。
 集会所でWiiをして遊んでいる最中、順番待ちをしていたA君という子供に、
 「もっと面白いWiiのソフトがあるから、今から家に来て!」
と言われ、訪問させてもらいました。
 A君のお宅に着き、ソフトを探している最中に、私が、
 「もっと面白いソフトって、どんなゲーム?」
と聞くと、A君が、
 「おれが今、はまっているゲームだよ!最近、いつも、そのゲームをやって、すごい強くなったから、今から見せてあげる!」
 私はA君の実力に手も足も出ず、ボコボコにやられながら、
 「うわ!またやられた!」
などと言っていると、A君が、
 「やっぱりコンピューターを倒すよりも、人を倒した方が反応あって、面白いなぁ。」
と言いました。
 「いつもは一人でゲームしているの?」
 「そうだよ。ほかの人とも一緒にゲームをしたいけど、する人があまりいないし。最近までは、もう少し同級生が多かったんだけれど、どんどん新しい家に引っ越してっちゃった。」
と言われました。
 現在、仮設住宅に暮らす子供は少なくなっているようです。
 友達が次々と引っ越しし、ゲームをする機会が減ったので、誰かに自分の実力を見せたくてうずうずしていたのだと思います。



 1日目の鍋パーティでは、おばあちゃんたちに鍋の具材を取り分ける「ホスト役」をしようと心がけていましたが、おばあちゃんたちの方から、「もっと食べなさい」、「好きなもの取ってあげる」など言っていただき、逆にもてなされてしまいました。
 私がいっぱい食べているところを、とても喜んでくださり、自分の祖母を思い出し、嬉しかったです。



 食後に皆さんと交流をしていると、退屈そうにしている子供たちが目に留まりました。
 その子たちは、あまり楽しそうにはしておらず、ただ無言で鍋を食べているだけでした。
 そんな子供たちに話しかけにましたが、最初は全然相手にしてくれず、途方に暮れていました。
 「松岡修造カルタをしよう !」
と提案すると、意外と食いついてきてくれて、一緒に遊ぶことができました。
 カルタの食いつきの良さには、子供たちの「遊びに対する餓え」のようなものを感じました。
 カルタをしているとき、最初、自分は、接待プレイをしようとしていましたが、途中から大人げないほど本気になってしまい、
 「いまのは俺がとった!」、
 「いや、あたしのほうが早かった!」
と、だんだん会話が増えていき、次第に、子供たちから「なめられる存在」になりました。
 「おい、立花!」
と、呼び捨てで呼んでもらえるができました。
 子供たちから「なめられるような存在」になることは、今回の合宿での私の目標でありました。
 「なめられるような存在」とは、子供と対等な立場で渡り合え、気を遣わずに済むからです。
 実際、私は今回の合宿で、「遠慮が全くない」と断言できるほどの雪玉を子供たちからあびせられました。
 そのような関係を作れたのも、「なめられるような存在」になれたからです。



 カルタをやり終えた後、
 「サッカーや野球をして外で遊ぼう」
と提案すると、子供たちからは、
 「ボール持っていない」、
 「サッカーできる場所なんてないよ」
とネガティブな返事で、戸惑いました。

 確かに外に出てみると、仮設住宅があるグランドには遊び場がほとんどなく、野球やサッカーなどの広く場所をとるスポーツをすることができない状況でした。
 仮設住宅は、住人の車が頻繁に出入りするので、ボール遊びをすることは危険な状況でした。
 子供たちに、

仮設住宅以外でサッカーする場所はないの?」
と質問してみると、
 「サッカーを習ってはいるけど、練習場に行くには車で15分かけて送ってもらっているから、親と一緒じゃないと行けないんだ」
と言われました。
 サッカーをめぐる深刻な事情を子供から聞きました。



 集会場で子供たちとゲームをしているとき、
 「久々にここでゲームをする」
と言っていました。
 普段はあまり集会場を利用していないことがわかりました。
 集会場にはいろいろな遊び道具があるのに、普段は高齢者が使用していることが多く、子供だけでは入りにくい場所になっているようです。


 鬼ごっこや雪遊びをしましたが、子供たちは、集会場にいた時よりもはるかにはしゃいで体を動かしていました。
 子供を追いかけたり、追いかけられたり。
 後半になると、私の方が先に、足を動かすことがしんどくなり、座り込んでしまうほどでした。
 子供は、自分が思っていた以上に元気でした。
 その元気を爆発させるためには、外で遊ぶことが一番重要だと気づかされました。


 仮設住宅の敷地では、球技を使った遊びをすることが難しいです。
 子供の元気をくすぶらせないためには、外でのびのびと元気よく遊べる場所を増やしていくことが大事なのではないか。
 今回の合宿で学びました。



 短い間でしたが、高田一中仮設のみなさんには本当にお世話になりました。


 夏の合宿では、ちがう遊びを考えて、もっと楽しませてあげたいです。

宮古市に伝わる”川内鹿踊”のドキュメンタリー 「鹿踊りだぢゃい」

京都在住・岩手県宮古市出身の坂下 清監督の作品

鹿踊りだぢゃい(2016年/日本/76分)


公式サイトはこちらです。以下、転載します。

【2/20(土)〜2/26(金)】
(大阪市淀川区十三本町1-7-27 サンポードシティ5階「淀川文化創造館 Theater Seven(シアターセブン)」TEL/FAX:06-4862-7733)

2/20(土)・21(日) 上映後トーク予定

岩手県宮古市川内に伝わる"川内鹿踊(かわうちししおどり)"のお盆を追ったドキュメンタリー。

 鹿踊りとは、主に東北地方に伝わる郷土芸能です。
 鹿の頭部を模した鹿頭(ししがしら)をかぶった踊り手が、鹿の動 きを表すように上体を大きく前後に揺らし、太鼓と笛の音に合わせて歌い踊るものです。表情は動物の鹿というよりも鬼に近いと感じます。
 鹿踊りには"死者を供養する"意味があると伝承されていますが、その起源には様々な説があり、未だ解明されていません。
 川内鹿踊には代々守り続けてきた"巻物"があります。
 "巻物"とは芸能団体が所有するもので、その芸能の起源や由来などを記したものです。
 川内鹿踊の巻物は年に1度、お盆期間最終日の8月16日に、"巻物開き"という儀式でのみ出されます。その儀式の際も、中身を開くということはありません。そのため、何が書いてあるのか川内鹿踊保存会も知りませんでした。
 私は川内鹿踊の巻物の中に、鹿踊りの起源を知ることができる鍵があると考えました。
 今回、ドキュメンタリー制作に伴い、様々な機関の協力のもと、特別に巻物の公開を許可され、巻物の解読を行うことができました。
巻物には一体何が書かれているのか?そして、巻物はなぜ書かれたのか?
 神職、仏教者、踊り手、鹿猟師へのインタビューも混じえ、多角的に鹿踊りについて探ります。

陸前高田合宿レポート (2)

森下 愛弓

 今回、初めて陸前高田を訪れるにあたって、個人的な目標があった。
 それは、ただ単に鍋やがんづきを食べながら仮設住宅の方々との会話を楽しむのではなく、被災された人としての経験や思い、教訓をしっかりと聞くことであった。
 私は京都にいるため、あの、中学の卒業式の日に起こった「東日本大震災」についての生の声を聞ける機会は、この機会以外ないのではないかと思っている。
 同じ日本人として、私は何が出来るのであろうか。


 合宿へ行く前、私は私用で忙しくしており、正直、合宿については、頭の端にあるくらいで、真剣に考えることができなかった。
 「こんな姿勢で被災地を訪れて大丈夫なのだろうか。」
 そう思っていた。
 その思いが邪魔をしたのか、また、もともとの性格である(だいぶ治ったと思っているが)人見知りが出てしまったのか、ラジオ体操の時、おばあちゃんが話しかけてくれたのに、ニコニコすることしかできず、
 「あかん。どうしよう。言葉が出てこん。」
が、それでもおばあちゃんは温かく、私の目をみてしっかりと話を続けてくれた。
 それからは肩の力が抜け、自然に会話できるようになった。
 同世代の人に話しかけられると、特に人見知りが出て、かつ、なかなか人と仲良くなりたいと思わない人間だが、やはり、おばあちゃんの力というのはすごくて、そんな私の短所を、いとも簡単にかき消してしまうのだと感じた。



 鍋を食べながら会話をする際も、できるだけたくさんの人と話をしようと心に決め、積極的に話かけた。
 たくさん面白い話が聞けたり、方言が理解できなさすぎて困った顔をしている私を見て笑ったり…と楽しい時間が過ぎていった。
 すっかり話をすることに夢中になってしまい、本来の私の目標を忘れてしまっていた。


 その日の夜、星が綺麗なことに感動しながら、鈴木旅館までの岐路、考え事をしていた。
 「こんな感じでいいのか。」
 「もっと他に、私がやらなくてはいけないことがあるのではないか。」
 「そもそも何ができるのだろうか。」
 考えれば考えるほどわからなくなってしまっていた。



 仮設住宅の方々にチラシ配りを行う機会があった。
 一人のおばあちゃんが、
 「中でお茶でも」
と家へあげてくれた。
 仮設住宅とはどういう造りなのか観察した。
 特に驚いたのが、プライバシーの保護が十分ではないこと。
 玄関は、外に人がいるのがわかるような半透明の窓で、リビングも、外から簡単に部屋の中が見えるような状態。

 集会所に貼ってある住民の意見(千葉大学の調査)の中にも、不満の一つとして、プライバシーがないことについて挙げられていた。
 このような場所に慣れるのも結構な時間が必要ではないか。
 安らげない人がいるのは当然だ。


 家の中には近所の方もいて、たまにここに話に来るのだという。
 私たちに“お茶っこ”と“あめっこ”を出してくれた。
 方言が難しく、理解に苦しんだときもあったが、おばあちゃん達はとても温かった。


 仮設住宅に入るためには名札を着けないといけない。
 以前、お金を盗まれる被害を受け、それ以降、名札がないと入れないようになったらしい。
 “ボランティア”という名目で家の中へあがり込み、お金を盗むという考えをもった人間がいることに驚き、その人間に対して怒りを覚えた。
 人はどこまで欲にまみれた生き物であるのか、思い知らされた。



 集会所では、私の喋り方、歩き方、恰好を見て、
 「ほんとうに昔の私を見ているようだ。」
と言ってくれていたAさんと話をした。
 Aさんとお話出来たことが個人的にすごく心に残っており、今振り返っても、涙が出る。
 Aさんは、私の男っぽい態度に、
 「親近感がわくの」
とおっしゃって、とても気さくに話してくださった。
 私と同じ年の子供がいらっしゃって、その子は就職して東京に出ている。
 しかし、震災で多くの親友を失い、腹を割って話せる友だちがいない状況で、精神状態が良くないそうだ。
 私はただ、涙をこらえて相槌を打つことしかできなかった。
 「昨日家に来ていた友だちが亡くなった。」
 簡単に想像ができるだろうか。
 私自身、親友という存在には助けられ、特に地元の親友というのは大きな存在であり、ライバルのようでもあり、お互いに切磋琢磨している。
 そんな存在を失う。
 そんな中で、私は強く生きていけるのであろうか。
 助かった命は、失われた命によってまた深く傷ついてしまう。
 そのことが今も心に残っている。
 「『過去の話』って言っても、あの日より前に戻れない。どんなに辛かったことも、あの日以上のことなんか無い。」
 そうおっしゃった。
 ここまで話をしてくれたAさんにとても感謝している。

 被災された方の言葉一つ一つにはとても重みがあり、「当たり前の生活」をもう一度考えさせられる。
 近くにいる「当たり前の存在」を有難く思い、その存在を大切にしなくてはならないのだと思う。
 私は徳島県出身南海大地震が迫っている。
 「とにかく命だけを考えて高い所へ逃げろ」
 これが一番大事なこと。
 合宿中、何度も言われるということは、どれだけ重要であるかが伝わってくる。
 一番大切なのは命。
 体験した人の言葉を無駄にしてはいけない。
 たくさんの方々とお話ししたが、お一人お一人に辛い物語がある。
 辛い話であるはずなのに、話してくださった。
 「命の尊さとは」を考えさせられた。



 集会所に子供たちも来てくれたことがとてもうれしかった。
 一緒にゲームをして遊んだ。
 全員、年齢に関係なく、楽しんでいたと思う。
 Wiiの「大乱闘」。
 小学校以来やっていなくて、つい懐かしくて、一生懸命、遊んでしまった。
 子供の笑顔は人を癒す力がある。
 そう感じた。



 「みんな、毎回、伊達ゼミの子たちが来るのを楽しみにしてるの」
 「集会所に集まる機会が増えること自体が良いこと」
と言ってくださった。
 私たちは、仮設住宅の方々同士の交流の大切さについても、もっと考えていくべきなのではないかと思う。



 2日目に訪れた居酒屋・参吉も、3日目の鶴亀鮨もとても美味しくて、「海鮮系は苦手」という子も「おいしい!」と感じるほど。
 親や親友に「なにが美味しかった?」と質問される。
 毎回、必ず、
 「鶴亀鮨で食べたちらし寿司とヒレ酒が美味しかった!」
と答えている。
 この時の味は一生忘れない味であると思う。



 初めて訪れた陸前高田
 学ぶことがたくさんあった。
 たくさんの人に「ありがとう」と言われた。
 が、本当に感謝すべきは我々ゼミ生だ。

 また9月に訪問する予定だが、「住民同士の交流の大切さ」を考えながら企画を練る必要があると感じた。



 陸前高田のみなさん、お世話になりました。

 またお会いしましょう。

陸前高田合宿レポート (1)

亀村 萌

 「陸前高田に行って一人、ひとりと接する。」
 これがわたしの陸前高田合宿で知らなければならないことでした。
 浄土真宗本願寺派総合研究所・研究員の金沢豊さんのお話を聞いた時も、今までのゼミ活動においても、私は「被災地」「被災者」という言葉でしか向き合えていませんでした。
 あれだけ膨大な地域、人びとが、たった数時間で被害に遭い、今もなお苦しんでいる。それは皆、同じだと勝手に思い込んでいたからです。
 今回実際に陸前高田の方達と触れ合ってみて、人それぞれが心にうけた傷の大きさ、震災に対する思いは全くちがうことを目の当たりにし、「正解」はこれから先もわかることはないけれど、自分なりに「一人、ひとり」がわかったようにも思えます。



 陸前高田に着いたときから、地元の方たちはとても優しく私に話しかけてくださいました。
 観光案内所のおじさん、鈴木旅館のお風呂で会話したおばあちゃん、仮設住宅でお会いしたみなさんが、
 「どこから来たの?寒いでしょう?」
 「よく来たねー」
と素敵な笑顔で迎え入れてくれ、自分が想像していた堅苦しいイメージとは全く違い、とても温かく穏やかでした。 
 復興工事がおこなわれ、更地や盛土が広がる風景とは全く一致しない。本当に被害をうけた方たちなのだろうか。そう感じてしまうほどでした。



 しかし、仮設住宅でチラシ周りをしている時、私の手を握りながら、
 「私のお兄ちゃんが2人、津波で流されてしまってね…」
と話してくれたおばあちゃんがいました。
 私は、そこで初めて津波によって大切な人を亡くされた一人と向き合うことになりました。正直、私は動揺してしまって、おばあちゃんの手を擦りながら、
「そうだったんですね…」
と言い、口をつむぐことしかできませんでした。
 そんな私を見越してか、おばあちゃんは明るい話題に話を変えてくれましたが、おばあちゃんの懐かしむような、悲しんでいるような目がとても忘れられません。
 もうすぐ仮設住宅を出ていくというこのおばあちゃんは、高田一中の体育館で避難所生活していたときの話、仮設住宅ができた時の話をしてくださいました。
 「3月11日、たくさんの方が亡くなってしまったけれど…元気!元気!」
といい、私をぎゅっと抱きしめてくれました。
なんだか私が皆さんに元気付けられているような、励まされているような、そんな気がしました。
 私よりも誰よりも心に深い傷を負ったのは、陸前高田の方々皆さんなのに、逆に気を遣わせてしまったのではないか。
 そんな気がしてなりません。



 鈴木旅館で夜寝る前、落ち着いてよく考えていたのは、仮設住宅のおばあちゃんおじいちゃんも、道端で挨拶を交わした方も、晩御飯を頂いた鶴亀鮨の阿部さんも、参吉のみなさんも、マイヤでお買い物をしているお母さんも、全員が3月11日、あの日に大切な人・大切な場所を失ったということ。
 それでもなお、前を向いて生活をしているんだということ。
 今回、合宿を通して、陸前高田の方一人ひとりの傷に触れることになりました。が、私には傷を癒すことはできないというのが正直な感想です。神や仏ではないし、金沢さんのように傾聴をできたのか定かではありません。
 そんな私ができることは、その傷を受け止めることだなと思いました。
 たとえ3月11日の話を聞けなくても、気のきいた返事ができなかったとしても、一緒に笑いあう、他愛もない話をする、本当のおばあちゃん、おじいちゃんのように接する、「一人、ひとり」を丸ごと受け止めるということが、その人の受けた傷を受け止めることにつながっているのではないか。
 合宿を終えて私が感じたことです。



 もうひとつ合宿を通して感じたことは「絶対忘れてはいけない」ということです。
 それは、東日本大震災での被害の大きさは当然のことですが、今回お会いした「陸前高田の方、一人、ひとり」をです。
 それを実感したのは、仲良くなったおばあちゃんに言われたある一言でした。
 涙を浮かべながら、
 「私のこと忘れちゃったのかと思った。ずっとお礼を言いたかったのよ。」
という言葉です。
 一緒にお鍋を食べていて、「あとで戻ってくるね」と席を外し、しばらくして、おばあちゃんが帰り際に話し掛けてくれた時の言葉です。
 この言葉を聞いて、私はものすごく後悔しました。
 今でも後悔しています。
 おばあちゃんに悲しい思いをさせてしまった、そんなつもりはなかったのに…と。



 「合宿で2日間、仮設の方と交流を持てたから満足」「また9月に会えるから」という考えは間違っている。
 会えない時間も、「私たちはみなさんを忘れていないよ、ずっと覚えているんだよ」と伝えることが大切なんだと実感しました。
 住所や連絡先を教えてくださった方たちにこまめに連絡を取ろうと思いました。
 「これから先も新しい関係を作っていく方々」として、大切に接していきたいです。



 子供たちと遊んでいて、ある女の子が、ふとした瞬間にこんなことを言いました。
 「人は簡単に死んじゃうんだから」。
 その子は笑って言いましたが、その小さい体にどれほどの痛みを抱えているのかと思うと、涙が出てきてしまいます。
 その子の言うとおり、人は簡単に死んでしまいます。
 震災の数時間で奪われたたくさんの命、連日ニュースで流される人の死。
 私にもいつ訪れるのか解りません。
 だからこそ、一日一日を精一杯生きようと思いました。
 陸前高田でお会いした方たちを自分なりに精一杯愛そうと思いました。



 今回、陸前高田に合宿に行って、みなさんの優しさ、温かさに触れ、私の思っていた「被災地」「被災者」は、一気に崩れ去りました。
 一人、ひとりの苦しみのちがい、身をもって知りました。
 これから先のゼミ活動においても、9月にまたみなさんと会う時も、「一人、ひとり」と触れ合うこと、考えることを大切にしていきたいです。