気仙茶は生きていた

 岩手県陸前高田大船渡には、「北限の茶」(機械製茶の北限)と呼ばれる気仙茶の茶畑があります。
 日本茶検定の教科書『日本茶のすべてがわかる本』(農文協)にも「近代的な機械製茶の北限」として紹介されています。
 「古くから農家の副業として、また自家用としてお茶を生産している地域のことで、伝統的な手揉み製茶の北限は秋田県能代市(檜山茶)、近代的な機械製茶の北限は岩手県陸前高田市(気仙茶)です」(72頁)。
 どれくらい「古くから」なのでしょうか。茶業関係者に最もよく読まれている茶業史、大石貞男『日本茶業発達史』(農文協)によれば、
 「太平洋岸の陸前高田市照葉樹林の北限に当たるので、米崎町一帯や寺院には茶が多い。陸前高田市米崎町の茶栽培の歴史は少なくとも明和9年(1772年)以前にさかのぼるようである」(310頁)とあります。
 陸前高田市観光協会などのホームページには、「1700年代、(現在の陸前高田市米崎町神田)の村上林之助氏が、伊勢参宮の時、山城国から苗木を持ち帰り、植えたのがはじまりと言われている」と記されています。
 陸前高田の製茶工場(北限の製茶工場)は、1954年に県が米崎町に設置したのが始まりで、その後、農協によって58年(小友町)、59年(大船渡市赤崎町)、93年(米崎町)に設置されています。


 宇治茶とも何らかのつながりをもつと思われる気仙茶。
 気仙茶と、それを大切に栽培し続けてきた人々やコミュニティを何らかの形で支援して、自家用茶の伝統を後世に引き継いでいくことができないだろうか。
 それが、「茶業による地域再生」「フェアトレードによる茶産地支援」を学んでいる私たちの元々の思いでした。
 私たちは、「まず、気仙茶にたずわってきた現地の方々の今の気持ちを聞くことから始めよう」と考えました。


 いろいろ手がかりを探しているうちに、長年、気仙茶の魅力を伝えようとご尽力されてきた、岩手県雫石市の焙茶工房「しゃおしゃん」の前田千香子さんの存在を知りました。
 4月17日、前田さんにメールを書き、私たちの思いを伝えました。
 突然のメールにもかかわらず、前田さんは、翌18日、気仙茶の由来や震災後の状況、関係者の安否、ご自身の今の気持ちを丁寧に書きつづってくださいました。
 「気仙茶は、観光資源でもなく産業でもないものですが、それでもなお大切にされ続けてきたものです。そのことの重みが、一層感じられるこの頃です」。
 前田さんのおかげで、自家用として大切にされてきた気仙茶の意味、経済現象の根っこにある風土や絆の大切さに気づくことができました。
 気仙茶に関わってきた方々の震災後の状況も把握することができました。
 製茶工場を動かしてきたJA大船渡の担当者と電話連絡をとる道も開けました。


 京都在住の日本中世史研究者・橋本素子先生は、数年前、気仙茶を調査された時の口述資料・写真・書簡、それらをまとめた論文抜き刷りなどを送ってくださいました。
 また、橋本先生から、宇治田原町の、NPO法人「21お茶のふるさと塾」が気仙茶を支援する募金活動を宇治田原で企画されていることを伺い、とても勇気づけられました。

 そして「21お茶のふるさと塾」の谷口郁男さんは、長年、陸前高田で気仙茶を栽培してこられた生産者Kさんのご家族と携帯電話で連絡をとり、私たちのことを伝えてくださいました。

 震災と格闘中の岩手日報の記者(3月30日付「北限の茶 残したい 陸前高田・今泉地区」の記事を書かれた方)からも、貴重な情報提供をいただきました。


 このような方々のご協力のおかげで、今回の陸前高田訪問が実現しました。皆様、本当にありがとうございました。


 4日(水)、早朝、眠い目をこすりながら、仙台別院を出発し、仙台駅から6時28分の新幹線「こまち」に乗り、8時に盛岡駅に到着。盛岡から車で2時間強かけて、陸前高田方面に向かいました。


 陸前高田は、まだ水道が復旧していません。途中、何度も、給水車をみかけました。


 自衛隊の基地です。陸前高田では、まだまだ自衛隊に頼らなければならない部分が大きいと思いました。市内も装甲車がたくさん走っていました。


 ボランティアの方々が懸命に道路側溝を修復しています。


 陸前高田でのボランティア活動については下記のサイトをご覧の上、現地に連絡してください。
 ●陸前高田市社会福祉協議会(災害ボランティアセンター)
 社協の方々も津波の犠牲になったのですが、全国からの支援もあり立ち上げられました。
 ●陸前高田市災害ボランティア住田町基地
 住田町・世田米の旧大股小学校にある災害ボランティア宿泊拠点です。
 ●Save Takata
 復興を支援する都内在住の陸前高田出身者を中心とした有志の団体です。
 ●全国社会福祉協議会・全国ボランティア・市民活動振興センター
 陸前高田でのボランティアの写真も掲載されています。


 大阪の守口市高槻市から応援に駆けつけた警察官が交通整理をしていました。

 陸前高田ドライビングスクールで、地元商店主やボランティアの方々が「けせん朝市」を開催していました。





 陸前高田の沿岸地域に近づくにつれ、目を覆いたくなるような惨状ばかりでした(写真はやめておきます)。
 言葉がでてきません。
 頭の中が真っ白になり、思考が止まってしまう感じがしました。
 この瓦礫の山を撤去するだけでどれくらいの時間がかかるのだろう。
 自分は今ここで何をしているんだろう。
 被災者にいったい何を話せばいいのだろう。
 どんな励ましの言葉をかければいいのだろう。
 茶摘みをしている場合なのだろうか。
 だんだん、わからなくなっていきます。
 「復興」、「復旧」、「支援」、「寄り添う」、「がんばろう」、「謹んでお見舞い申し上げます」という、自分が今まで使ってきた言葉がとても空疎に思えてきます。

 
 最初に、境内に茶の樹がある曹洞宗のお寺・普門寺(米崎町)に行きました。
 ここも、宗派の関係者や、福井県から駆け付けた県民ボランティア「チームふくい」の活動拠点となっていました。ご住職は、以前、永平寺で修行されたそうです。
 固定電話が不通だったので事前連絡が取れず、突然の訪問になってしまいましたが、ご住職にお会いすることができました。
 法事の最中で大勢の遺族の方が奥にいらしていたにも関わらず、私たちの話を熱心に聞いてくださいました。
 境内の気仙茶にまつわる話、亡くなられた方や行方不明者、遺族の今の気持ちや向き合い方、四十九日法要のあり方を私たちに丁寧に教えてくれました。
 また、普門寺を拠点にして行われているボランティア活動への参加は「ボランティアが足りないので大歓迎!」だそうです。ご住職の携帯電話も教えてくださいました。




 午後は、まず住田町(世田米)のJAで、製茶工場の担当者にお話を伺います。
 今回の大津波で、JAおおふなとの職員も亡くなられています。
 高田町にある支店の建物も大津波で外壁だけになってしまい、住田町(世田米)に事務所を移しています。
 津波被害の比較的少ない内陸側の地域では田植えも始まっていて、苗を配るJAは大忙しです。
 お会いした担当者の方は、忙しそうなそぶりを少しもみせないで、私たちの話に耳を傾けてくださいました。
 申し訳ない気持ちでいっぱいでした。
 「製茶工場は無事だった」
 「5月末〜6月初旬の一番茶の茶摘みをどうするかを地域の皆さんと話をしているが、蒸機に使う水道が復旧していないことが最大のネック」。
 「蒸機のメーカーにも問い合わせたが、『難しい』と言われた」。
 「水道の完全復旧は7月ころになるかもしれない」、
とのこと。

 何かいい給水法はないものか。。。。
 製茶機械メーカーに「北限の製茶工場支援」をお願いする手紙を書いてみたらどうだろうか。。。。
 伝統製法(在来技術)を復活させるのはどうだろうか。。。。
 でも、それを教えられる人はかなり高齢で、避難されている方もいる。。。、
 自問自答をしながら、JAを後にしました。 




 気仙川沿いの道を下流に向かって進み、午後2時、陸前高田市役所の仮庁舎(給食センター)の門のところで、長年、気仙町でお茶を栽培されてきた方のご家族と待ち合わせ。
 「本当にお会いできるのだろうか」。
 事前に何度も携帯電話ではお話させていただいたものの、とても不安でした。が、しばらくすると、避難先から徒歩でいらっしゃいました。
 「茶畑、見てみたいですか?」とおっしゃってくださった。
 「はい!」
 泣きそうになるくらいうれしかった。

 助手席でナビをしていただき、一緒に車で気仙町の茶畑に向かいました。
 気仙大橋は橋脚だけになってしまったので、対岸に渡るのにもかなり迂回をしなければなりませんでした。
 そして、壊滅的な被害を受けた気仙川沿いを通って、気仙小学校のあたりに向かいます。
 「通学も買い物も便利で、住みやすい町だったのにね。。。。」
 「何もなくなっちゃったんだよね。。。。」
 返す言葉もありません。

 津波に流されて本当に跡形もなくなってしまったご自宅の前で車を降り、茶畑のある高台に一緒に登っていきます。

 

 気仙茶の茶畑です。
 チャの品種はほとんどが「やぶきた」ですが、一部に実生在来もあるそうです。
 きちんと仕立てられています。
 
 
 気仙茶 生きていました。
 新芽がすくすく伸びていました。
 茶の樹も人間も同じ生き物。困難に耐えながら懸命に生きています。

 「震災後、みんなと連絡とりあって、『今年も摘もう』って、準備はしているんだけどね。製茶工場で使う水道がね。。。」
 そうおっしゃっていました。


 きちんと剪定された茶の樹を見つめながら、
 「三代続いてきた畑」。
 「毎日、畑に行って、茶の樹の面倒をみることがおじいちゃんの生き甲斐だからね」。


 「(県外に避難している)おじいちゃん、『早く戻って茶摘みしたい』って言ってるんだけどね」。


 帰りの車の中で、いろいろなお話をしてくださいました。
 3月11日のこと、
 倒壊したお寺のご住職のこと、
 花見のこと、
 一本だけ残った高田松原の松並木のこと、
 仮設住宅に当たらなかった方のこと、
 軽自動車も流され生活が不便なこと
 家族の安否を気づかった・住民同士のぎこちない会話のこと。。。。


 とても優しい口調で。



 本当にありがとうございました。


【後日談】
 震災から1年半が経ちました。
 当時は、目を覆いたくなるような陸前高田の惨状に絶句してしまいました。
 最近、まるで震災などなかったかのような口ぶりで語る学生・教員をみかける機会が増えました。
 震災を風化させないためにも、当時の写真をアップしたほうがよいと考えるようになりました。
 2011年5月4日の撮影順に掲載いたします。





























































 最期に、昨年、陸前高田被災され京都に働きに来られていた元・漁師の方から教えていただいたブログにリンクを貼っておきます。
 震災直後から、陸前高田で医療スタッフとしてご尽力されていた方のブログです。
 こちらです。