気仙茶の茶畑で剪定作業をしました

 ゼミ合宿のレポートの続きです。

 9月8日、気仙茶班は、陸前高田市の茶畑で、来年の摘採に向けた剪定と草とりの作業をしました。

 午前11時30分、お茶っこサロン会場の高田第一中学校から茶畑へバスで移動します。


 気仙小学校です。
 ここは、市の指定避難所でした。
 この一帯で、たくさんの方が亡くなられました。
 気仙小の子供たちは、教師たちの機転で高台に避難したので、無事だったそうです。現在、長部小学校で勉強しています。


 バスの中から合掌します。
 
 9月10日付の朝日新聞によると、この付近(気仙町・今泉地区)には約1500人の方々がお住まいでした。
 「津波は高さ15メートルの(気仙小の)校舎3階の天井付近まで及んだ。約530戸あった今泉地区の住宅のうちまったく被害がなかったのは3戸だけ。死亡・行方不明者は計約210人で、気仙小周辺でも20人〜30人の遺体が見つかった」(朝日新聞)。


 気仙小学校の近くには、「ヤマセン醤油」の八木澤商店さんがあります。創業は、1807年(文化4年)です。
 上の写真は、醤油原料処理工場の建物です。

 震災前は、このような趣ある町並みだったのですが....( Google『未来へのキオク』)


 気仙町の今泉地区には1598年(慶長3年)以来明治に至るまで、代官所が設置され大肝入屋敷も所在するなど、この地区は、藩政期を通じて仙台藩伊達領気仙郡の郡政の中心地でした。
 また、今泉地区は、三陸海岸を結ぶ「浜街道」の宿駅の一つであるとともに、ここを拠点とする「今泉海道(今泉と一関を結ぶ街道)」と「浜街道」の合流点にあたり、交通の要衝でした。
 震災前のことですが、今泉地区には、藩政時代からの遺構として、大肝入の吉田家居宅と代官所の門が残されて、諏訪神社、天神社、金剛寺などの寺社も、1822年(文政5年)の絵図に記載された位置に現存していました。
 歴史的町並が相次いで消滅していく中で、この今泉地区は、その歴史を17世紀まで遡ることのできる貴重な集落でした。
 さらに、「気仙町けんか七夕」などの伝統行事が脈々と受け継がれていて、住民の絆がとても強い地域でした。


 上の写真は、5月4日に訪れた時に撮影したものです。

 ガレキが撤去されて雑草が生えた以外は何も変わっていないように見えますが、現在は、一関市に営業拠点をかまえ、岩手、秋田、宮城、新潟の醸造蔵での製造委託品を販売し、工場再開に向けて奮闘されています。
 がんばれ、八木澤商店!





 昼の12時に、畑の所有者で、長年、気仙茶を栽培してこられたKさんと合流。
 仮設住宅から車でいらっしゃいました。
 一緒に茶畑にあがっていきます。
 来年の茶摘みのための剪定と草取りの作業を開始します。
 大学の研究室から持ち込んだ剪定ばさみで刈り込んでいきます。


 剪定と同時に、草取りもしていきます。

 鈴が何個もつってありますが、カモシカよけだそうです。


 奥の畑のほうは、だいたい目途がついてきました。

 後ろに見えているのは、杉林です。気仙町や住田町のスギは「気仙杉」と呼ばれていて、林業も盛んな地域です。


 小屋のところに座っておられるのは、畑の所有者で、長年、気仙茶を栽培してこられたKさんです。
 この日は、私たちのために、わざわざデイ・ケアの予定をキャンセルして、会いに来てくれました!
 「みんな剪定うまいなあ。おかげで、来年はいいお茶がとれる」と言ってくださいました。
 感激の瞬間でした。



 3月末、岩手日報の記事ではじめて、気仙茶やKさんのことを知りました。
 それから5か月余、ずっと、会いたい、会いたいと思っていました。
 多くの方々の協力を得て、今日こうして、やっとKさん本人とお会いし、気仙茶のお話を伺うことができました。
 ようやくスタート地点に立つことができました。
 来年や再来年の気仙茶がどうなるか、
 私たちが何ができるのか、
 まだまだわからないところがありますが、今後、研究室として、行けるところまで、気仙茶に寄り添っていきたいと思います。




 方言対策のボイスレコーダーをもって、聞き取り調査をしています。
 津波のこと
 流された商店街のこと
 気仙茶の栽培のこと
 ご家族のこと
 茶摘みコミュニティの皆さんのこと
 製茶道具のこと...
 ゆっくり、そして、しっかり、私たちに話してくださいました。

 本当にありがとうございました。


 「来年こそ、気仙茶を出荷させるぞ !」
 最後に、そうみんなで祈念して写真をとりました。



 「皆さんでどうぞ」と、Kさんは私たちのために、お土産を人数分、用意してくれていました。
 一つ一つ、大事に大事に、みんなでいただきます!
 ありがとうございました。


 以下は、気仙茶班メンバーの感想です。
  今回の岩手合宿は、私にとって2回目の被災地訪問となりましたが、前回はテレビや新聞で見る悲惨な被災地の現状や、いつ起こるかわからない余震、果たして自分たちに何ができるのか、また、どうやって被災地の方と接すればいいのか、何もわからない状態で、不安なままバスに乗ったのを覚えています。
 しかし、今回の合宿は前回とはちがい、ゼミのみんながいるのはもちろん、二度目ということで、気持ち的にもとてもラクにのぞめ、観光もとても楽しめました。
 陸前高田市に到着して一番に感じたことは、5月の時よりも、多くの方々が仮設住宅に住めるようになったこと。
 とてもうれしく思いました。
 同時に、がれきの量も格段に減ってはいるものの、あちらこちらに、車やタイヤなどが種類別に山のように積み上げられ、処理の順番を待っているという状況に、あらめて被害の甚大さと、復興への道のりの長さを感じました。
 仮設住宅では、お茶っ子サロンのポスターを貼らせていただけるお宅を探しましたが、その時も、時おり、家の中から女性の笑い声や子供たちの賑やかな声が聞こえてきました。
 掲示許可をいただくためにあるお宅を訪問すると、こころよく「どうぞ好きなところに張ってください」とおっしゃってもらい、「お茶のイベント楽しみにしていました」と言ってもらえた時は、「来て良かった!」と思いました。
 その後、私たち気仙茶班は、Kさんの茶畑へ向かい、剪定作業をしました。作業後、Kさんとそのご家族とお話することができました
 津波から命からがら神社のある高台に逃げあがったこと、
 たくさんの方が避難してきた小学校にも津波が襲いかかり、その人たちをのみ込んでいったこと、
 仮設住宅の中はすごい暑さで、クーラーは一応使えるものの、部屋全体がなかなか冷えず、電気代も自己負担であること、
 あの薄い壁の仮設住宅で冬の寒さに耐えられるのかが心配なこと。
 高台から見渡せる湾を見ながら、「毎年今の時期はさんま漁の最盛期だったのに、漁船も漁師さんもいなくなって寂しい」とポツリとこぼされました。
 「東北の復興プランとしてカジノや企業誘致の案が出ていますが、これから陸前高田市がどんな街になっていってほしいですか?」と質問すると、ご家族の方は、「陸前高田市は漁業が盛んなのはもちろん、内陸部にはたくさん農業をしてる人もいるので、その人達が一日も早く以前のように働けるようになってほしい」とおっしゃっていました。
 5月にお会いしたときは、突然不自由な生活を強いられ、これからの生活に不安を感じ精神的にもまいっておられたように見えましたが、今回は、時おり笑顔もみせてくれたことが印象深く頭に残っています。
 作業が終わり茶畑から降りていく時、「この街が復興したら、ぜひまた遊びに来てくださいね」と、わざわざ人数分のお土産も頂いてしまいました。
 Kさんにも「キレイにしてくれてありがとう」と言っていただいた。
 地域の中・高生をはじめ、地元のみなさんがそろって、あの茶畑で、笑顔で茶摘みができる日が来ることを願っています。
 その時には、ぜひまた参加させてもらいたいです。
 震災に負けずに残った茶畑があり、そこでがんばっている人達がいるということを、ひき続き広めていきたいと思います。(Nくん)



 剪定作業は腕の力を使うので、終わった後は腕がプルプルしていました。
 Kさんたちは本当に優しい方たちでした。
 デイ・サービスをキャンセルして来ていただき、お茶・コーヒーやサンドイッチなどもたくさんご馳走していただきました。また、全員分のお土産までいただき、なんだか逆に申し訳なく思いました。
 休憩中は、震災のことも話して下さいました。
 津波は山にある茶畑にも到達していたこと、
 このあたりは、以前はパチンコ店が並んでいたこと、
 これからの課題である仮設住宅のこと。仮設住宅が当たらない人もいれば、当たっても2年で出なければならない、という難しい問題でした。
 剪定作業の班だったので、多くの方と触れ合ったわけではないのですが、本当に優しい方々でした。
 茶畑のご近所に、一人で家の修復作業をしている年配の方がいました。私たちにも気軽に話しかけてくれました。でも、何もお手伝いができず、歯がゆさも感じました。(Tくん)


 

 茶畑に上がり、眼下に陸前高田の街を見ながら、Kさんに被災前後の街の状況を教えていただきました。
 被災前、商店街があった場所は建物の土台のみが残り、雑草が生え、どこにどんな建物があったのかわからない状態であること、
 気仙大橋は崩れ、一か月前に仮設の橋が架けられたこと、
など具体的に教えていただきました。
 Kさんのお気持ちを考えると深く質問することを遠慮してしまうような内容もおっしゃっていました(特に行方不明者のことなど)。
 また、作業の合間の休憩中には、笑顔で接していただき、自分の持っていた被災者のイメージとは違いました。
 剪定作業は、6人という人数の少なさと、時間的な縛りの中で、すべて刈り終えることができるか不安に感じていたこともあり、集中することができました。
 そして作業しているうちに、気仙茶を残したいという気持ちが強く芽生え、より一層力を入れることができました。
 結果として、茶畑の一部分は剪定することができませんでしたが、Kさんが『これでいいお茶ができる』とおっしゃってくださったときは、達成感を感じることができました。
 茶畑から見た陸前高田の景色は忘れることができません。
 今後の取り組みとして、被災地の方に何ができるかは明確ではありませんが、少なくとも、Kさんの茶畑の作業を手伝うことはできると思うので、なんらかの形で続けていくべきだと思います。(Kくん)


 東北なのに、意外と気温が高く、半袖でも汗を書きました。
 花巻インターからすぐ陸前高田に向かい、仮設住宅へ行く前に、被災した街をバスの中から見ました。
 建物がほとんど残っておらず、家が土台から流されていて、ガレキと壊れた車の山を見て、震災の凄まじさを感じました。
 何より、震災から半年経ち、あたり一帯に雑草が生い茂っていているのを見て、ここに震災前は商店街があったことが信じられず、ショックを受けました。
 高田第一中学校の校庭に設けられた仮設住宅に着いて、お茶っこサロンの準備を手伝った後、Kさんの茶畑の剪定作業に向かいました。
 少し前に架け直された橋を渡り、Kさんを待ちました。
 茶畑に向かう少し手前の民家は、津波で完全に人が住めなくなっていましたが、山の麓にある民家は、まだ無事だったようで、お年寄りの方が一人で家を修理していました。
 Kさんと合流して、茶畑まで移動するとき、道幅は狭くかなり急で、自分でも登るのが大変なのに、Kさんがやすやすと登っていることにビックリしました。
 剪定は深めに行うということに決まり、作業を始めました。
 Kさんが、作業している私たちの姿をすごく澄んだ目で見られていたので、頑張らないわけにはいきませんでした。
 結果的には、剪定をすべて終えることができなかったのがとても残念でした。
 休憩中には、Kさん達からいろいろなお話を聞けました。
 小学校の周りでも10人くらい亡くなって遺体が見つかった、と聞いた時は、何も言えませんでした。
 飲み物や食べ物を差し入れてくださり、お土産まで持たせてくれたのには、嬉しいような、気を使わせて申し訳ないような気持ちになりました。
 来年は、美味しいお茶がとれてほしいです。
 今回、被災地を実際に見れたのは、非常によい経験となりました。
 ショックを受けるような光景でしたが、人も街も少しずつ復興していることを感じました。
 元通りにはならないとしても、被災された方々が少しでも安らかな暮らしが早くできるように、日本全体が頑張らないといけないと思いました。(Sくん)




 Kさんは優しい顔で私たちの剪定作業を見つめていてくれて、作業後に言われた『ありがとう』の言葉は、普段の日常生活で使われる言葉とは異なった深い意味をもったものに感じられました。
 来年の新茶の時期もKさんが元気でいてくれて、私たちの作業が地域復興の架け橋となるといいな、と思います。
 また、被災地を実際に見て、被災地の方との交流など、様々な貴重な経験をした中でも、最も印象深かった光景がありました。
 それはKさんの茶畑の近くの自宅を、1人で一生懸命に修理していた年配の方の姿でした。
 陸前高田市今泉地区にあった700件の住宅は全てが被害にあったそうです。
 その中でも、山側に建つ住宅は、その前方の小学校が盾となって、壊滅は免れたそうです。
 家だけでも以前の姿を取り戻そうと奮闘している姿が印象深かったです。
 窓のサッシを直しておられ、剪定作業行く前は何もなかった窓枠に、作業終了後にはサッシがついていました。
 震災から半年。政府から大きな支援があるわけでもなく、生きるだけでも必死だと思っていた被災地の生活の中で、以前の姿を取り戻そうと自力で頑張る人達の姿を見て、非常に心を打たれました。
 私たちができることが本当に少ないと感じたのと同時に、同じ日本で起きたこの危機的状況を他人事だと思ってはいけない、と改めて感じました。
 震災から半年経ち、前向きに生きていこうと立ち上がって行動している人がまだまだ大勢いると思います。
 今回の震災は、日本が一つになる機会だと感じます。
 東北復興のために日本が一つになり、そして荒んでしまった日本の再興へ向けた一歩となり、私自身も、少しでも力になりたいと強く感じました。(Yくん)



 お茶っこサロン・剪定と聞き取り調査は私たちの力や考えだけではできませんでした。
 伊藤さん、橋本先生、しゃおしゃんの前田さん、気仙市民復興連絡会の栗村さんをはじめ、たくさんの方々に助言・協力していただき、やり遂げられました。
 本当に感謝のきもちでいっぱいです。
 お茶っこサロンについて:
 企画の段階から、本当に受け入れられるのだろうか、もっと他に求められていることがあるとしたら・・など不安がすごく大きくありました。
 しかし、集会場にいくと、お茶会は今、必要とされていることだとわかりました。
 実際、集会場には、他の団体さんによって定期的に開催されているお茶会のチラシなども何枚か貼り出されていました。
 私は、お茶会には参加は出来ませんでしたが、写真で現地の方々の笑顔が映されているのをみて、すごく安心しました。
 震災から半年以上経ちましたが、まだまだ何もよくなっていません。
 将来に不安を抱えながら、大変な状況の中で生活をされています。
 その反面、関西では震災のニュースや報道がどんどん減ってきています。
 今回の震災を経験していない人たちの記憶が薄れてしまうことが、一番怖いことだと思います。
 お茶会は、一回きりではなくて、長く続けていくこと。
 今回のような活動を多くの方々に知ってもらうということが大切なことだ、と私は思います。

 茶畑について: Kさんと私たち気仙茶班とのつながりは、Kさんのご家族がくれた手紙の返事からはじまりました。
 毎回の電話のやりとりは、かける度に、「迷惑ではないだろうか」という不安な気持ちでいっぱいでした。
 でも、当日、お会いしたとき、来られないはずだったKさんも茶畑に、笑顔で来て下さったことが、私は何よりもうれしかったです。
 みんなが剪定作業をしている間、私はKさんに気仙茶のことを聞かせてもらいました。
 私が質問を投げかける前に、自らいろいろと話してくれました。
 この気仙地域は比較的暖かく、気候がお茶作りに適しているということ、
 毎年、近所の人12人程度でお茶摘みをしていたということ、
 他にお茶の世話をしてくれる人がいないということ、
 生年月日、
 製茶工場ができる前のお話、
 も聞かせていただきました。
 kさん自身、茶畑に来たのは1ヶ月ぶりだったそうで、とてもうれしそうに畑を見ている姿が印象に残っています。
 休憩中、Kさんのご家族も、たくさんお話をしてくれました。
 以前はパチンコ屋などが多く並び、商店街もあり、とてもにぎやかな街だったそうです。
 川から水があふれてきたことなど、震災の時のことも話をしてくれました。
 茶畑から街の風景を眺めながら。。。。
 どんな風に聞いたらよいかわかりませんでした。うなずくことしかできませんでした。
 今後自分たちにできることは何か、何度も足を運ぶことは難しいことだと思いますが、現地のニーズに応えることを第一に考えて、取り組んでいくことが必要だと思いました(Oさん)。