明治10年の東北地方における茶の生産量

 国立国会図書館「近代デジタルライブラリー」で、明治10年(1877年)の『全国農産表』(勧農局、明治12年)を見ることができます。
 これによると、明治初期の1877年、陸前国(宮城県岩手県気仙郡)の「製茶」生産量は、「959,165斤」、全国第5位、生産シェア6.4%であり、陸前国は全国屈指の茶産地だということになります。
 もしこれが本当ならば、驚くべきことですし、そもそも、もっと注目されてしかるべきです。これまでなぜ詳細に研究されてこなかったのか、むしろ不思議なくらいです。

 茶業界の関係者によく読まれている大石貞男『日本茶業発達史』(農文協、2004年)は、以下のように指摘しています。
 「この2つの統計[明治10年の全国農産表と明治11年の全国農産表−引用者]をみて気づくことは、・・・現在の地域産地とはかなりの変動がみられることである。近畿、東海各県が上位を占めることは現在とあまり変わらないが、各県別にみると、明治初年には東北の宮城県が全国第4位を占め、北陸の新潟県が12位、石川県が24位など概して日本東部の寒冷地の生産量が意外に高かった。これは、近世に入ってから、生産国から茶を生産しない国への流通が行われたとしても、強い需要があるために東北、北陸などにおいても生産が奨励されたとみるべきであろう。ことに、地方城下町などの発達、たとえば、仙台、新潟、金沢、会津などへの人口集中は茶の消費をうながし、その近くに茶産地を発達させたものだろう。」(316頁)
 大石氏は、東北地方の製茶生産量が多い原因を、城下町等への人口集中による需要拡大に求めていますが、陸前国の「959,165斤」(575トン)もの生産量の説明にはなっていないように思います。


 今後の気仙茶研究のために、明治10年「全国農産表」の値をエクセルに入力してみました。


 ※8位の土佐国は「青製茶9,190斤」「黒製茶177,295斤」「製茶529,995斤」を合計しました。
 ※はしがきに、薩摩・大隈・日向は「兵乱」のため調査困難、と書いてあります。
 ※「近江国滋賀郡78ヶ村」の欄には「紅茶 80,600斤」という数字が載っております。全国の「紅茶」生産量も「80,600斤」となっています。
黄色は、今日の「東北」エリア(青森・秋田・山形・岩手・宮城・福島)です。


 明治10年の「陸前国」14郡の製茶生産量の内訳は下記のとおりです。

 名取郡が突出しています。


 「陸中国」(岩手県秋田県鹿角)の製茶生産量の内訳は下記のとおりです。

 磐井郡が突出しています。

まだラフに入力しただけなので、見まちがいや入力ミスがあるかもしれません。ご注意ください。
 

 もともと、上記の「陸前国=全国屈指の茶産地」という指摘は、大石貞男『日本茶業発達史』(農文協、2004年)や、農業・食品産業技術総合研究機構のHP内にある「寒冷地の茶について」でなされていたのですが、興味と疑問をもったので、自分でも調べてみました。

 「明治10年、陸前国の製茶生産量が全国第5位」の真偽は、検討する余地がありそうです。最低限、明治7年の「府県物産表」や、8年、9年、11年、12年の「全国農産表」とつき合わせて考えてみる必要があると思います。単年度の統計で何かを判断してしまうのは短絡的で危険だと思います。


<<2013年1月10日更新>>
 勧業寮編「明治7年 府県物産表」の製茶生産量は下記のとおりです。

(出所)明治文献資料刊行会『明治前期産業発達史資料』第1集、1959年より作成.

 残念ながら、この史料では郡別の動向をみることはできません。



 郡別の生産動向を追跡でき、ほぼ現在の県別に再構成することが可能な明治9年(1876年)から12年(1879年)の「全国農産表」の製茶生産量をつなげてみます。


(出所)国立国会図書館 近代デジタルライブラリーより作成. 


 上の数字はまだ入力したてなので注意が必要ですが、もしこれが正しいとすれば、明治10年の「陸前国」とくに「名取郡」の数値は、なんらかの過大評価が行われている可能性がある、と推察します。
 「明治10年 全国農産表」の名取郡の特有農産物の生産量については、以前から、東北大学の農業史研究者によって問題が指摘されてきました。
 「前にこの表を使用した際(須永重光編『近代日本の地主と農民』29頁)にも触れたが、名取郡の藍葉、藺、美濃紙の生産額が異常に高い。たとえば、藍葉では前年に比べ28倍にもなっているので、これを便宜的に10分の1に切り下げて計算してみた。理由は別にないが、他郡の生産量と比較してみて、一桁多すぎるからである。藺、美濃紙、諸紙についても、他郡との比較の上、一桁下げた。この処置が妥当とはいえないが、原表のまま計算すると、陸前国の特有農産物の占める割合は53.4%となり、全国平均の23.2%を大幅に上回り、従来の研究成果から与えられた様相と余りにも異なりすぎるためである。」(安孫子麟「第1章 明治前期の宮城県の経済構造 第1節 農業生産の動向」中村吉治編『宮城縣農民運動史』日本評論社、1978年、6頁)。
 ただし、安孫子氏は、名取郡の製茶生産量については、問題点を指摘していません。

 明治10年の「陸中国」の「磐井郡」の数字の大きさも気になります。



農商務省『興業意見 巻13』
 宮城県岩手県の製茶生産量は、下記の表のとおりです。

(出所)大蔵省編纂『明治前期財政経済史料集成』第18巻の2、明治文献資料刊行会、1964年、p.700、p.736.
 農商務省『興業意見』にもとづけば、明治10年の宮城県の製茶生産量は「95,973斤」です。
 この『興業意見』の「95,973斤」という数値は、上掲の、明治9年〜12年「全国農産表」を県別に再構成した図の中の、宮城県の値「959,730斤」を一桁下げた値に一致します。

 明治10年『全国農産表』の陸前国の生産量「959,165斤」は、大幅な過大評価の可能性があります。 
 『興業意見』の数字にもまだ疑問が残りますが、これについては、さらに究明を続けていきたいと思います。



農商務省『興業意見 巻二十』
  農商務省『興業意見 巻20』は、福島、宮城、岩手、秋田、青森、山形県に関する興業意見が所収されています。
 宮城県では、「第一 運輸開通の事」、「第二 養蚕製糸改良の事」、「第三 米豆改良の事」、「第四 産馬の改良及繁殖の事」、「第五 水産物製法の改良及ひ販路開通の事」、「第七 製紙の維持及改良の事」、「第八 製藍の改良繁殖の事」、「第九 製痲の改良及繁殖の事」に続き、「第十 製茶の改良及繁殖の事」が重点項目としてあげられています。

 製茶については、以下のように述べられています。
「製茶産額の価格は殆んど3万円内外に在り。明治11年以後年々其産額を増加し、15年(91,022斤)の産出は11年(45,767斤)に比して二倍の増加を見るに至れり。該県下製茶地方は僅に名取、宮城、桃生の三郡にして、其他は微々たるもののみ。然るに農民は概ね茶畑を開発し、茶商は製茶を改良せんと欲するの念慮を抱持するか故に、将来之か改良増殖を図るに於て望を属へきものあり。蓋し二回の共進会の功たり。猶又10年以後の経験に依れば、年々殆ど一万斤の産出を増加せり。今仮にこの例を以て十年後の産額を予想するも、尚十万斤の増加額を見る。況や産業家製茶商の意向前述の如きあるおや。然れば則ち十年後の於て二十万斤の増加に至り、産額十万円以上に昇るも亦難きは非さるべし。尚将来に就き勧奨の方按を述ぶれば概略左の如し。
 一 各郡の原野若くは荒燕地を調査し、桑園に次て茶園を開設せしむること。
 一 士族の就産は勉て茶園を起し、産茶を増殖せしむること。
 一 製茶組合準則に依り組合を設置せしめて之か改良を図ること。
 一 大小の共進会相談会へは当業者及ひ製茶を出陣せしめて、間接に産茶の改進を誘発すること。」(大蔵省編纂『明治前期財政経済史料集成』第19巻、明治文献資料刊行会、1964年、p.367.)
 




 七十七銀行 七十七年史』1954年
 同書の第1章「創立時代」、第1節「前史」、4「殖産興業」の「宮城県と殖産興業」に次の記述がある。

 「明治6年の県の『管内事務問目答書』によれば、『物産興廃之景況』は『管内産物米穀を以て最と致候、砿物は銅鐡石炭等有之候得共、其所出費を償ふに不足、石炭は良性無之、其他漆器紙及海品等亦不少に候得とも、特別可称程の物無之、然るに近来養蚕製茶の二業 日に増し月に盛んに石増益大凡左に』として、・・・・
 ・・・
 明治5年  製茶 41,114斤(以前取調ナシ)
 ・・・
 とある。」(p.21-22)

 「茶についても、養蚕と並んで6年には有望と報告されているが、茶の栽培はこの地方では旧藩時代には極めて少なかったようで、慶應ごろに藩の直営で宇治から移植した茶園ができて本格化の基礎ができ、維新後に大竹徳治等に払い下げられた。大竹は6年に勧農局の製茶伝習をうけて業に励んでおり、農家の茶栽培も多くなったものである。」(p.24-25) 

 「・・・大竹の努力で、明治10年の第一回内国博覧会にも出品して受賞した。」(p.117)

 「・・・養蚕について、前からの指導や奨励があったが、16年には先に【10年に―引用者】設立した養蚕試験場を養蚕伝習所に改め、士族中の男生徒を募集して教えるとともに、区内一里以内を興産区画として無産の士族を誘導して、それぞれの希望で桑・楮・茶を植えさせた。その種苗は現品を貸与し、肥料耕転費は代金を貸付けている。そしてその16年に士族興産組合が作られ、9,236円の政府貸下金を得たのである。」(p.112)
 
 野村岩夫『仙台藩農業史研究』(1932年)も以下のように指摘している。「明治16年には、無産の士族をして興産に従事せしめんが為、仙台市と一里以内の地を限って興産区画を定め、桑、茶、楮の三種中、各自の希望に応じて栽培繁殖せしめ、種苗は現品、肥料、耕転費は現金を以て夫々貸与し」た(p.117)。



宮城県史2』1954年
 「幕末になって、藩主慶邦は国産奨励の上から、山城国宇治の上杉三入からなる者から茶種を取り寄せ、牡鹿郡石巻牧山および飯野川地方に栽培せしめ、『国産方』で藩直営の事業としてから、茶の生産も増加した。しかし、仙台領における茶の生産領はおおむね領内の需要をみたす程度で、他領輸出によって利を得るまでには至らなかった。」<参考>
 以前のブログ記事
 「気仙茶の参考文献