陸前高田の被災者をゼミにお招きして

 12月19日(月)、2回生のゼミに、陸前高田被災者Aさんをお招きして、震災体験を語っていただきました。
 3月11日14時46分とその直後のこと、津波被害のこと、家族の安否のこと、避難所や仮設住宅でのこと、生業のこと等々、たくさんのことをお話しいただきました。
 
 詳細は省きますが、お話を伺って私自身が考えたことを書いてみたいと思います。
 
 ◆被災地から遠く離れている私たちは、被災地の現実をよく知らない。
 TVや新聞の論調も、「復興に向けた取り組みが始まっている…」という「がんばろう東北」系のものが多い。
 私たちも、「前を向いて、頑張っている・進んでいる人」のほうを好意的に評価しがちだ。
 知らず知らずのうちに、前を向けない人、前に進めない人々のことを、思考の外に置き去りにしてしまっていないか。
 私たちが気をつけなければいけないのは、このようなステレオタイプな認識ではないか。

 「単なる『復旧』ではなく『創造的復興』だ」という、政府・財界・マスコミがよく使う言葉がとても気になる。
 「再び興こす」という意味の「復興」という言葉も、「元に戻す」という意味の「復旧」という言葉も、どちらも空虚に感じる。
 かけがいのない家族を失った人々は、元の生活には戻ることはできない。戻したくても元に戻せない。とり戻せるならばとり戻したい。
 そうした被災者の悲しみや願いを少しでも理解すること。
 忘れてしまわないようにしたい。
 そう思った。


 ◆経済学を学ぶ私たちは、往々にして、「規模拡大による効率化」という発想をしてしまいがちだ。
 経済学の教科書には、財の供給曲線が右シフトすると、価格は低下し数量が増大し、消費者にとってよいことがおこる、と書いてある。
 「民間企業の参入を容易にするように、復興特区規制緩和を」という提言は、いかにも経済学の教科書的な発想だ。
 「あなたのような非効率的な経営をしている人は復興の妨げになるので、廃業して市場から退場すべきだ」と言ってしまっているも同然ではないか。
 廃業しても、被災地には、前職で培った経験・技能をいかせ、家族を養っていけるだけの賃金水準の正社員の仕事など、ほとんどないではないか。県外に働きに出るしかないではないか。
 それに加えて、漁業者・農業者・商店主などの自営業層は、雇用保険がなく、安全網(セーフティネット)が欠落した状態に置かれている。
 これを「創造的復興」と呼べるのか。
 多くの農家・漁師たちが、収入の道を断たれ、仮設住宅に身を寄せ、この後どこに住めるのかもわからないような、このタイミングで、生業の在り方を根本から転換させるような提言は疑問だ。
 経済学は、多くの人々が幸せと感じる社会をデザインする学問ではなかったのか。
 かけがいのない家族を失った多くの人々に寄り添い語りかける言葉を経済学は持ち合わせていないのか。
 二次災害を招くことだけは避けたい。
 そう思った。


 ◆被災者のお話を伺うたびに、東北の家族やコミュニティの結びつきの強さに心をうたれる。
 地縁・血縁が縦糸・横糸となって支えあい生き続けてきた地域。
 それが、東北の暮らしのありようだったのではないか。
 気仙茶を栽培してきたKさんも、「先祖代々続いてきたこの茶畑を残したい。毎日、畑の世話をするのが生きがいだ」とおっしゃっていた。
 家族とのつながり、地域とのつながり、先祖代々続いてきた生業とのつながりの大切さ。被災者の方々が私たちに教えてくれたことだ。
 図示すると、こんな感じだろうか。



 Aさんは、救えなかった若い命のことを、とても悔やまれていた。
 「震災孤児の存在を忘れないでほしい」
 最後にそうおっしゃった。

 自分のことは二の次で、生き残った子供たちの未来のために、懸命に働こうとしている親たち。
 それが今の被災者の現状なのではないか。希望なのではないか。
 そう思った。






【追記】2013年8月7日
 
 2013年8月6日、陸前高田市は、「陸前高田市 東日本大震災検証資料等作成業務検証報告書(案)」を公表しました。

 「私たちがAさんから伺った震災当日のこともこのブログに記しておかなければ」と思ったので、追記させていただきます。

■記録者・田辺
 3月11日、14時46分、地震発生当時、Aさんは申告書類を市役所に持っていく途中であった。
 子供の頃から親に津波は怖いものだと教わっていたことや、チリ地震津波の経験から「津波が来る」と思い、「とりあえず高台に逃げなければ」と考えた。
 駅前の商店街の大きなショーケース等のガラスも割れ始め、家族に、「逃げろ」とすぐ連絡しようとしたが、その時点で電話はもうすでに通じなかった。もしあの時、「電話が通じていれば助かった人はもっと多かったはず」、「津波が夜間に来ていれば被害はもっと大きかったはずだ」とAさんは語る。
 妻は当時職場にいた。仕事を中断し職場の皆と高台へ避難し、無事だった。
 娘とは連絡が取れず、翌12日も、歩いて探しに行ったが見つからなかったが、高台に避難していて無事だった。
 妹とも5〜6日たった後にようやく連絡がつき、無事が確認できた。

 瞬時の「逃げなければ」という判断の有無が生死を分けた。
 「津波が来るから逃げなければ」と思った人や、「このまま避難所にいては駄目だ」と感じて高台に避難した人は助かった。
 しかし、「指定避難場所にいるのだからから大丈夫だろう」と思っていた人や「ここまでは津波は来ないだろう」と思っていた人は、残念ながら助からず、津波に流され、のまれてしまった。

 津波に対して避難訓練などは実施していたが、高台ではなく体育館等が避難所に指定されていたことや、「もしも町の中心部まで津波が来ることがあれば、高田の町自体がなくなってしまうから、そんな大津波が来ることはないだろう」と子供たちに伝えていた人も多かった。だから、今の人にはそれほど津波に対する危機感がなかったのではないかと思う。

 震災後、若い命を助けられなかったことを悔む。
 津波からの避難する時、「自分が一緒にいては足手まといになり助からない」と、若い子供達を先に行かせ、「さようなら」と手を振るお年寄りの姿もあった。
 「どうしようもない状況で、命の重さを天秤にかけると、若い命を助けた方が良かったのもしれない」とAさんは涙目に語っていた。
 
 避難所に張られた避難者の名簿や生存を伝えるメッセージが、安否を知る重要な情報源となった。

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■記録者・今井
 Aさんは、市役所に向かう途中で地震にあい、1年前にもチリ地震が原因の津波を経験しており、商店街のガラスが割れるなどの出来事から、普通のゆれではなく、甚大な被害をもたらす地震だと、すぐに感じていた。
 巨大津波が来ることを、経験から予知し、高台へ避難しようと思うが、家にいる両親のことを考え、一度帰宅することを決意。
 地震発生と同時に携帯電話等の通信手段が使用不能になり、自宅にいない家族に高台へ避難する必要があると直接連絡しようと思ったが、繋がらなく、大変困った。
 もし、地震直後に、携帯などの通信機器が使用できたのであれば、もっと多くの人が、生存できた。
 さらに、地震が夜に発生していたのであれば、さらに多くの犠牲者が出ていたはずだ。
 娘は高台へ避難していた。
 妻とは連絡が取れず、夜明けとともに、車もないため、歩いて捜索を開始する。転々とする避難所を徒歩で行くことは、とてもつらかった。
 妹の行方は地震発生から数日後、自衛隊の連絡でわかる。自衛隊にはとても感謝している。長い時間、同じ人が駐留してくれた。
 車を置いて逃げたため、後々苦労することもあり、「物は買いなおせばいい」と考えていたが、しかし、もう少し冷静になればよかった。

 浜に住んでいた人でも、巨大な津波を予想することができずに、逃げ遅れて亡くなった人もたくさんいた。
 深夜になると、海から「たすけて」と呼ぶ声がして、助けたくとも船も流されてしまい、どうしようもない状態にあり、何もできない自分にもどかしさを感じた。
 夜が明けるに従って、津波による被害があらわになり、津波の被害が甚大なものだと理解した。
 夜が明けて気がついたことだが、自宅付近はリアス式海岸であったので、両サイドから波が押し寄せ、陸の孤島のような状態だった。

 物資は、はじめは何もなく、少し落ち着いた頃に届き始めた。Aさんの避難所は20〜30人の小さなコミュニティであり、届いた物資をみんなで分け合い過ごしていた。
 テレビで見るような「頑張るぞ、負けないぞ」という人は周りにはだれ一人おらず、絶望のどん底、ただその日を過ごしているという状態であった。
 しかし、「食べるものがない」などと言う人はなかった。
 Aさんの知人は、巨大な津波が来ることを察知し、避難所になっていた体育館から避難するように訴えたが、多くの人は避難しなかった。
 その結果、体育館は津波により破壊され、多くの方が亡くなることになってしまった。
 多くの人が、体育館が破壊されるような20mの津波が押し寄せてくるとは思っていなかった。

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