陸前高田での「お茶っこサロン」報告

 陸前高田市の高田一中でのお茶っこサロンに関する学生たちの報告です。
 22人分もあってとても長いのですが、記録して伝えていくことが、被災者の話を聞いた私たちの責務だと思いますので、ご容赦ください。
 また、「お茶は、被災者同士、被災者と支援者をつなぐ役割を果たす」ということも、私たちは伝えたい。


中西
 皆が集会場内で準備している間、仮設のお宅を訪問して、お茶っこサロンの宣伝を行いました。
 平日ということもあり、半分ぐらいのお宅は留守でした。「居留守」もありました。「やはり、もうボランティアは要らないのかなぁ」などと、お宅を回っている間、考えていました。
 あるお宅では、チラシを渡す際に、
 「昔、京都に住んでいました。こっちに引っ越してきてもう40年になる。チリ津波と、今回の地震で、家も家族も何もかもなくなってしまった」
と私たちにお話ししてくれました。
 何を言えばいいのか全くわからなくなりました。かける言葉がない。まさにそんな状態でした。

 「小谷園さんのお茶が大好きだし、楽しみにしています」
という声も多く聞こえました。
 これを聞くと、小谷園さんがこれまでどれだけ地域と結びつき、親しまれてきたのか、津波でお店がなくなってしまっても、この結びつきは変わらないものだと感じました。
 「皆さん、みんなで集まって話をするという機会がなかなかないので、こういう場があるのはうれしいんです」
ともおっしゃっていました。

 お茶っこサロンが始まると、すぐに集会場はほぼ満席状態になりました。
 皆さんとてもお茶に詳しくて、私達にお茶についていろいろ教えてくださいました。

 最初は、何気ない世間話や私達の住んでいる土地の話、主に地震津波には関係ないことでした。やはり、皆さん、震災の話はしたくないのだろうし、楽しくお話している場だからそういう話はしないのだろうなあと思いました。
 そして、いろいろお話をしていくうちに、震災前の風景が載っている写真を見せてくださいました。
 陸前高田は緑があって海もある、とてもきれいな街でした。皆さん、「すごくきれいでしょう」と誇らしげに、でも、どこか寂しそうに写真を眺めていました。

 何人かのおばあちゃんが、津波が襲ってきた時の様子をお話してくれました。
 「私は、家が海から離れていて、すぐに山のほうへ逃げたのよ。でも近所の人は、寒いから上着を取りに行って亡くなってしまった。戻っちゃだめって止めたのに」。
 これが、陸前高田から京都に出稼ぎにきていた方がおっしゃっていたことなのだろうなあとお話を聞きながら思いました。すぐに逃げれば助かっていた命、でも助からなかった。
 他のおばあちゃんは、
 「必死に逃げて、津波が到達して、でも自分が逃げてきた後ろを振り返ると、自分の足元まで津波が来ていた。びっくりした」
と。

 誰もあそこまでの被害は想定しておらず、逆に、誰もあそこまでの被害は想像できなかったほど大きな地震津波だったのではないか。そう思いました。
 「私はビルの上に避難して助かったけど、私を上まで上げてくれた人は助からなかった」。
 一つの命が助かった背景には多くの人々の助けがあったのだと感じました。今生きている命は一人だけの命ではない。そう思いました。

 一番印象的だったお話があります。
 「津波で兄がなくなったの。すごく優しくて昔からみんなの人気者の兄さん。でも今回の津波で亡くなってしまった。津波がきて、何もなくなってしまった景色を見たとき、自分もいっそのこと津波と一緒に流されてしまったほうが楽なんじゃないかと思ったよ。笑えなかったし、つらかったけど、でも笑えるようになったのよ」
とお話してくれました。
 私は何も言葉を返せなかったし、どんな言葉も不適切なような気がして、ずっとうなずいていただけでした。
 でも、何も言えなくても、話を聞くだけでもいいのでは、と思いました。こういう場があるからこそ、気持ちにも余裕が生まれるのではないのでしょうか。

 最後に、おばあちゃんが私に、
 「絶対に逃げるのよ、何もなくてもいいから、自分の身一つでいいから逃げるのよ」
と言った。おばあちゃんに強さを感じた瞬間でした。

 お話を聞いていても、怖いとか絶望とかそんな感情より、おばあちゃんたちからは、「笑えるようになった、だから大丈夫」と言う「強さ」を感じました。
 そして、おばあちゃんたちは、私たちのような「若い人達に覚えておいてほしい」と言っていました。
 これこそが私たちが関西でできる役割の一つだと感じました。


坂井
 私たちは、高田一中の仮設住宅で、小谷園茶舗さんと共同で「お茶っこサロン」を開催した。
 被災者の方々を接待する役割が私の受け持ちだった。


 お茶を勧めに行った先で、震災前に陸前高田で旅館を経営しておられたこ夫婦に話を伺うことができた。
 こ夫婦のお話によると、地震の揺れを感じ、宿泊客が13人泊まっていた旅館内を探しに行ったが、誰もいなかったのだそうだ。
 後から13人とも助かったことを聞き、「本当によかった」と胸をなでおろしたらしい。
 「私たちだけが助かって、もしお客さんに万が一のことがあったらどうしようと考えると、気が気ではなかった。」
と繰り返し話しておられた。
 ご主人から震災当時に受けた傷跡を見せていただいた。
 6人の地元の人を助けたときに水の中に入り凍傷になったそうだ。
 首から背中にかけて、刃物で傷つけたような傷跡があった。
 6人のうち4人は、避難場所へと誘導し、残りの2人は、水の中で動けないところをかついで安全な場所へと連れて行ったそうだ。
 「あごのところまで水につかっていたが、助けることに必死で、自分の命のことなど忘れていた。後から、『自分の歳を考えろ』とみんなから忠告されたけどね。」と笑っておられた。
 こんな話もお聞きした。
 「旅館を経営していたときは、別館もあって、客室が数室あるとても大きな部屋で暮らしていたから、仮設住宅に住み始めたときは生活が違いすぎて大変だったわ。」
 旅館は、別館を建て増ししたばかりで、さぁ、これからという新たなスタート地点にたったばかりのところで被災した。
 不運を嘆いて、そんな苦痛に押しつぶされたくはないとでも言うように、冗談混じりに、こんなこともつぶやいておられた。
 「旅館の経営は朝早くから起きて食事の世話、宿泊客を観光に連れて行って、お客さんが帰ったら部屋の片づけをしなくちゃならない。一日中世話をしなくちゃならないからもうしたくはないよ。」
 しかし、よくよくお話をうかがっていると、心の奥底で抱いておられる本当の気持ちをのぞかせるような言葉も耳にした。
 「被災地で旅館を始めると、高台に作らなければならないことや建築材料など取り寄せなければならないことなど、たくさんのことにお金がかかり、1億ほどかかってしまう。けれども、やっぱりもう一度旅館をしたい。」
 「小さな砂みたいな石が転がっている浜辺、固くて大きな石ばかりの浜辺、いろんな石が混ざった浜辺、いろんな砂浜、いろいろな海があって、観光客もたくさん来ていた。宿泊客を観光によく連れて行ったものだよ。とても綺麗な海だった。」
と、かつての暮らしを懐かしむように、明るい声で話しておられた。
 「年明けに、お世話になった人たちに、高田の一本松の写真に『感謝』という文字を書いた葉書を送ったのよ。あけましておめでとう、という言葉が書けないから。」
 「京都の方がたくさんの寄付をして助けてくれたおかげで本当に助かった、感謝しているのよ。毎週のように来てくれるボランティアの方々にも元気をもらっているわ」
と心を込めておっしゃっていただいた。



 お茶っ子サロンに来てくださった方々は、心からこの集まりを楽しんでくださっている様子で、ここかしこで楽しそうにおしゃべりする声と笑い声が響いていた。

 しかし、実際には、ひとりひとりの方が、耐えられないような苦しい体験に遭遇し、今もなお不自由な生活を強いられていることだろう。
 これから先の見通しが立たないまま、不安な思いを胸に秘めている方もいらっしゃったはずだ。
 それなのに、学生の私たちが、被災された方々から元気をいただくほどに、いきいきと人と人が互いに励ましあって、心を響かせあう喜びを味わっておられる様子を見て、心が温かくなった。
 懐疑的な見方をすると、お茶っ子サロンというのは、義捐金とか瓦礫撤去のための労働などに比べて何の役にたつのかと思えてくるかもしれない。
 だが、被災者の方々の、「毎週のように来てくれるボランティアの方々にも元気をもらっている」という言葉と笑顔には、嘘はないように感じた。
 苦しくても前を向いてしっかり生きていこうという心づもりのようなものが伝わってきた。


 一杯のお茶が、人と人の会話を生み出し、心をつなぎ、元気を作りだすこともあることを感じた瞬間だった。

 「一人だと寂しいしボケてくるから、集まりがあることは本当にうれしい。」
 そんな言葉も耳にした。
 また、仮設住宅での暮らしとこれから先の生活への不安を語る方もいた。
 「ここに来るまでは、絶望を感じて生活していたけれど、仮設住宅に移ってからはみんな元気で、頑張ろうという気持ちがあるのよ。体育館で肩身の狭い思いをして暮らしていたから、仮設住宅に住み始めたときはみんな嬉しそうだった。この仮設住宅は最初のほうに建てられたので、抽選に当たり入居できてみんな嬉しそうだったけれども、実際には、後から建てられた仮設住宅の方が改善されていて住みやすいと思う。残念だけど仕方がない。あと1年で仮設住宅を出ることなんて無理だよ、家を建てるか、公営住宅に住むことになると思う。」

 仮設住宅をまわって宇治茶をお届けしていた時、
「三度のご飯よりもお茶が大好きなのよ。ありがとう。本当にありがとう。」と言って喜んでおられた。
 お茶を通じたボランティアをしていてよかった。
 心が温かくなった。


長田
 おばあさん達との会話に混ざり、一緒に話をしていたら、初めのほうは、
「こんなにお茶飲んだら夜寝むれないわ〜」
とか震災に関係ない話だったけれども、次第に、
「あの日は必死で逃げたのよ」
と話をぽつぽつしてくれるようになった。
 このグループのおばあさん達は、皆笑う明るい人たちばかりだった。
 ここの仮設は仲が良いというイメージを持った。
 新しい人が来るたびに「こっちこっち」みたいな感じで呼び合っていて、頻繁に会ったりしているのかなと思った。


 開始1時間後に1人のおばさんが来てくれたが、既に席がなくて、仮設住宅にお邪魔して携帯電話の使い方を教えることになった。
 その時は、そのおばさんしかいなかったからかもしれないけれど、仮設住宅の中は思ったよりも広いと思った。
 位牌があった。
 しかし遺影はなかった。
 写真も流されたのかと思った。
 「携帯の変換の仕方が分からない」と言っていたので、教えていたら、2冊の本を見せてくれた。
 その本は、震災前と震災後の陸前高田の風景写真だった。
 まったく違う風景だった。
 その写真を見ながら、始終、
「なあんもなくなった」
と言っていたのが一番印象に残っている。

 一本松について詳しく教えてくれた。
 「これが震災前の一本松でね。ほら、この一番大きいのが残った一本松よ。この木はチリ津波の時にも負けなかったわ」
と、写真と比較しながら、感慨深そうに言っていた。

 「メディアは物資が足りてるみたいに言っているけれど、物資もね、あれは早くに行った人が多くもらえるのよ。最初のほうに行ったら、好きなだけどうぞみたいな感じだけれど、途中から行ったら制限されるの。やっぱり、それだったら不公平よね。ちゃんと同じ分だけ分けて、余ったら違う仮設住宅に持って行くとかね。私の知り合いの違う仮設住宅に住んでいる友達は、私がもらったようなものもらってないって言っていたしね。ここの仮設は一番大きいから物資には困らなかったけれど、そうじゃない人も大勢いるの。」 

 「まさかあの津波がこんなところまで来ないだろう、って冗談で言っていたのに、本当に来ちゃってね。冗談が本当になっちゃったのよね。」
と笑いながら言っていた。
 笑いごとでは全くないけれど、笑うしかない、というか諦めのようなものを感じた。

 「車も4台流されてね…。娘の旦那が津波の時に『津波です、避難して下さい』って放送する担当だったんだけれどね、その声が途中で『ざざっ』っていう音でかき消されてね、ああ流されたんだなってわかったわ。私の夫も流されてね、家から何百メートルも離れたところに流れ着いたらしいわ。だから、会えたのは震災3日後。」

 「また七夕祭りがしたいわ。私の地域はいっつも上位でね。15組くらいあるうちの、3位くらいまでにはいっつも入っていた」
と、懐かしそうに楽しそうに話されていたのが印象的でした。

 「震災泥棒も見たわ。一日後に来たのよ。山登りみたいな格好でね、あの時はそんなこと思わなくて、普通に挨拶したわ。親戚がここらへんに住んでたからとか、探してるとか言われてもこっちは確かめようがないから、信じるしかないでしょ?でも後になって違ったってわかるのよ」。

 帰り際に、「ここは食べ物も美味しいのよ」と言われたので、その日の朝御飯に食べたワカメがとても美味しかったから、そのことを言うと、
 「リンゴも美味しいのよ、たくさんあるからこれも食べて」
と、リンゴをくれました。
 それを持って、集会場に戻ると、お茶っこサロンから帰る人が、
 「あら〜、うちにもリンゴあるわよ。もっていく?」
と言ってくれた人がいました。
 優しい人たちばかりだなと思った。



 仮設住宅にお邪魔して、話を聞いていて、泣きそうになった。
 うなづくことしかできない話もあった。
 その中で、返事をすることもうなづくこともできなかったのは、
 「ここはこんなにきれいな場所なのよ。毎日犬の散歩したり、本当に良い場所でね。でも、あなた達にはそれはわからないわよね…」
と写真を見ながら話をしてくれた時だった。 
 何て言ったらよいのかわからなかった。
 写真を見て、ここは美しい場所だったことは理解できたけれど、そんな私が何を言ったて、薄っぺらいことしか言葉にできないと思って、何も言えなかった。


 震災後1年。
 思ったよりも笑う人が多いなと思った。
 人というものの強さを感じた。
 しかし、やっぱり無理している。
 震災の傷は癒えていない。
 今なお苦しんでいる人たちばかりであることを改めて痛感した。
 
 ボランティアで来てくれているのだから辛い顔は見せないでおこうと、気を遣ってもらっているのも感じた。
 それでも、少しずつでも前進していると思った。
 無理しながらであるにせよ、前を向くというのは良いことなのではないかと思った。
 身内が亡くなったり、不幸な出来事の連続だったろうけれど、多くの人が笑い、笑いあっているのを見て、本当に強さを感じた。


 マスメディアに不満を抱いている人がいた。
 「真実をあなた達から伝えてほしい」。
 「マスメディアはもう信用していない」
と言われたように感じた。



 お茶っこサロンが始まるまで、仮設住宅に住む方々にお茶っこサロンの宣伝をして回った。比較的年齢層が高めで、昨日より多くの人と話すことができた。声をかけることにとても緊張したが、笑顔で聞いてくださって、緊張するのは初めだけだった。
 あるおじいちゃんは、京都から来たと言うと、「この間まで京都にいたんだ。震災の前ぐらいに陸前高田に帰って来た」と言っていた。「龍谷大学は知っている」、「お茶っこサロンは前から行こうと思っていたんだ」と言っていた。「京都」と言う言葉に反応してくれて、やはり自分の近いものには親近感を感じるのだと思った。

違うおばあちゃんは、玄関にお茶っこサロンのチラシを張っていてくれて、「ココに貼ってるよー!」と元気な返事をもらった。

 若いお母さんもいて、龍谷大学ですと言うと「沖縄ですか?」と返され、「京都ですよ」と答えると笑って「勉強不足でした」と言っていた。
 宣伝を通して、誰もが初対面であり、何もかも津波で家を失った人と話しをすることに対して、どのように話したら良いかという不安はあったが、話を聞いてくださる皆さんは暖かくて、もっと個人個人と話したいという思いが出てきた。

 宣伝を途中で抜けて、小谷さんに市内を歩いて案内してもらった。午前中バスで通っていたが、自分の足で歩くのはとても新鮮だった。小谷さんは、震災前と震災があった時の陸前高田の様子を細かく教えてくれた。
 高田一中のすぐ裏まで津波は来ていて、裏の竹やぶにはたくさんの遺体が上がっていたそうだ。
 歩いている途中にも、ゲームカセットや食べかけのお菓子、壊れたデジカメなどを見つけて、ココに人がいたという印がたくさんあった。

 道路を挟み、ずらっと店があったという商店街を歩き、小谷さんのお店があった場所まで連れて行ってもらった。そこには跡形もなく、小谷園の旗が2本立っていた。小谷さんは自分の集落の地図を持っておられて、どの家の人が何人亡くなったということが記されていた。
 小谷さんのご家族は、「避難していて幸い助かった」と言っていた。しかし、小谷さん自身、震災があった時は、山沿いにある避難所として指定されていた場所に向かっていたが、そこではダメだと判断し、さらに上の山の墓地まで逃げたそうだ。避難所に指定されていたところに逃げても、津波の被害は予想外に大きく、多くの命が失われた。

 そうなった原因の一つとして、小谷さんはチリ津波をあげていた。
 「チリ津波の時はもっと沿岸のほうまでしか津波は来なかったから、今回も同じように津波が来てもたいしたことない、と考えていた人が多かったのではないか」、
 「(自分の膝ぐらいを指しながら)このくらいだったら大丈夫だったのに」
 ちょうど前の家の人は、たまたま陸前高田の実家に帰っていて震災にあって流されてしまった。隣のご夫婦も亡くなった。小谷さんの家から少し奥に行ったところの高田小学校では、先生の指示で上の階に避難したため多くの生徒が助かったが、自分の子供が心配で迎えに行った親が流されてしまった。(中略) 
 「今でも、いろいろな場所で遺体が発見されていて、約1年経っても状況は全然変わっていない」。

 小谷さんは、道行く人にしょっちゅう声をかけていた。皆に元気を与えている人なのだと感じた。
 私たちに対しても、
 「せっかく陸前高田に来たのだから、多くのものを感じて帰ってほしい」
と言っていた。家や仲間を失っても、このような言葉をかける小谷さんは強い人だと感じた。

 高田一中の集会所に戻ると、お茶っこサロンが始まっていた。
 大勢の方が一部屋に集まっていて、とても賑やかだった。50人ぐらいの方が来ていて、皆さん、口をそろえて「小谷園のお茶だから来ているの」と言っていた。小谷さんのお茶は地元の方々に愛されていた。
 どんな話題で話に入ろうか難しかったが、私の特徴的な苗字の読み方をクイズにして溶け込むことができた。
 私が話を聞いた方は、震災についてあまり話をしなかったが、孫の話や私たちのゼミについて興味を持ってくれていて、どのような活動をしているゼミかを説明した。
 お話をしたおばあさんの一人に、常に笑顔だった方がいた。少しだけしかお話していない私たちを「孫のようだ」と言ってくださった。
 帰り際、おばあちゃんは、泣きそうになりながら、
 「この地震で全部失って、私一人しか残らなかったんだよ」
 「来てくれてありがとうね」
と抱きしめてくれた。
 「これからも頑張るんだよ」
と力強い言葉をもらい、
 「また来るのを待っているからね」
と言われ、うれしくて涙が出てきた。

 帰る時も、ずっと手を握ったまま離そうとしなかった。  
 「また来るから、それまで元気にしていてね」
と声をかけて、お互い笑顔でおばあちゃんと別れた。
 元気になってもらおうと思っていたが、このおばあちゃんにもらった言葉で、私自身元気をもらった。このおばあちゃんは、私に対して「頑張るのだよ」と言ってくれたが、それは、きっと自分に対しても「頑張れ」と言っているのだと思った。

 このお茶っこサロンを通して、私が想像していたよりも皆さんが明るくて、笑顔で驚いた。震災があったことで見えない傷を負っている人がたくさんいると思うが、それでも、それ以上に前を向いて生きていこうという姿にとても感動した。被災された皆さんは、一年経った今も、辛い出来事を思い出すたびに涙していると思う。しかし、今回の私達のように、応援する人が来る度に、励まされ、少しずつ元気になっているのだと思う。
 これからも、このような人たちを笑顔にできるように応援して、一緒になって関わって行きたいと感じた。
 合宿でたくさんの人の声を聞いた。皆が言っていたことは、やはり、
 「3.11にあった出来事を忘れないでほしい」
 「自分の目で見た事実を多くの人に広めてほしい」
 これが一番なのではないかと思った。京都新聞という、関西人に発信できる場を通して、合宿で学んだたくさんのことを伝えていけたらいいなと思う。


三宅
◎小谷さんと市街地を歩いた際のお話
 まず感じたのは、バスで移動していると感じなかったが、高田一中と市街地とは予想以上に近い。時間は測ってないが、10〜15分程度で着く。あたりは重機の手で更地にされているが、その土からは細々とした各家庭の「思い出の品」がむき出しになっていた(「思い出の品」と表現したのは、「ガレキ」ではなくそれぞれの生活の一部として役割を果たしていたものだったから)。
 「津波でモノと土がごちゃ混ぜになり、掘ったら掘るだけモノが出てくる」
とおっしゃっていた。
 市街地を歩いていると風が強く吹き抜けていたが、これも建物が無くなり風を遮るものが無くなったからだという。
 市街地のほとんどの建物が取り壊されて更地になっていたが、建物を壊す際には持ち主に許可を得てから取り壊さなければならないのだが、業者が誤って許可なしに取り壊して多額の慰謝料を市が支払った例もあるようだ。
 道路は綺麗になっているが、側溝にはまだたくさんの泥などが詰まっていた。
 「側溝を一つ一つ掃除をすれば、また遺体が出てくるかもしれない」
とおっしゃっていた。現に、最近、遺体が発見されたそうだ。
 小谷園茶舗は、スーパーマイヤ(津波で破壊された)から徒歩10分もかからない程度の場所にあり、近くには、市から指定された避難場所が2か所(お墓のある高台と高田小学校)があった。
 3月11日、小谷さんは、奥さん、娘さんの3人でお墓のある高台に逃げた。津波の速さは時速約40キロ、津波が市街地に流れ込んでからは4分ほどで小谷園茶舗まで到達したようだ。
 小谷園茶舗のある地域は、地区の中にさらに班という形で区分されていたが、小谷さんの家以外の各家では亡くなった方がいた。ある人は物を取りに戻って帰ってこられず、ある人は目の前で奥さんとお子さんが津波にのみ込まれるのを見たそうだ。
「すべては偶然が重なったもの」
と小谷さんはおっしゃった。
 その日、偶然、結婚報告のためお嫁さんを陸前高田に連れて来ていて被災したことや、三月ということもあり帰省していて被災したことなど、それらはすべて偶然起こったこと。
 3月11日の2日前にも地震があり、その時も3月11日と同じ「3メートルの津波」と予想されていた。
 「だから、少し甘く見ていたところがあったのかもしれない」
 「もし地震が起こったのが昼間ではなく夜だったなら、津波が目で見えないので、さらに被害が大きくなっていたかもしれない」
とも話されていた。

 高田一中に戻る際に、津波で家屋が飲み込まれたところと飲み込まれなかったところの境目を教えられた。家が残った人とそうでない人とでは、意識に違いがあるそうだ。

◎高田一中でのお茶っ子サロン
 はじめに、私が着いた席には4人ほどのおばあさんがいて、そのうちの2人(70代後半の方と80代の方)の間に入り、その2人とまずお話ができた。「孫のようだ」と言われ、お二人のほうから積極的に話していただけた。
 「陸前高田に来るのは初めてです」と伝えると、「ここは海の幸がたくさんあるところだから、本当は美味しい魚を食べれたらいいけどね」とおっしゃった。
 震災当日、着ていた服だけで逃げてきたそうだ。その方のお知り合いの方は、震災当日が少し寒かったこともあり、お孫さんの上着を取りに戻り亡くなったとお話された。
 もう一人の方は、なぜか逃げ出す際に携帯電話と充電器を持って出たそうだが、 
 「持って出たものの電波は通じず、充電するにも電気がないから意味がなかった」
とおっしゃっていた。

 ある人が携帯電話の相談にやって来られた。
 「ショートカットで電話できる機能を解除してほしい」
と頼まれた。
 「この人は私の大切な人なの。でも、天国に行っちゃったから、サヨナラしなきゃだめなの」
とおっしゃった。
 重大なことを頼まれて戸惑った。
「自分がこんなことをしてもいいのか」という葛藤もあった。
 何度も何度も確認をして、最後は、おばあさんが私の指を持ちボタンを押した。
 この方は、おそらく、このお茶っ子サロンを「大切な人」とお別れするいい機会にしようとしたのではないか。
 今でも、あの時、自分があのボタンを押したのがよかったのかどうか確信をもてないところもあるが、そのおばあさんの目からは、「お別れをするチャンスがほしい、自分では押せないから」というメッセージを感じた気がする。


 様々な方と「いい天気ですね、寒くないですか」など世間話をしたが、みなさん元気で明るかった。
 しかし、ある人が、
 「みんなやっと明るくなれるようになった。はじめからこんな雰囲気じゃなかったのよ」
とおっしゃった。時間が流れることで、少しは気持ちに変化があるそうだ。また、それと同時に、明るくふるまうことで不安や悲しみを紛らわしているのではないかとも思った。

 確かに1年近くが経過したが、こんなに笑っていられるのはどうしてなのだろうか。明るい表情の中に暗い悲しみが閉じ込められているようにも感じられた。
 1年という期間が経つことで、無理やりにでも前を向かせているのではないか。悲しみに浸っているだけの1年ではこれから生きていけない。仮設に居られる期間も限られている。自分の気持ちを押し殺してでも進もうとしている証なのではないか。だから、携帯電話の電話帳の削除を依頼してきたおばあさんは、私の指を持ってでもボタンを押させたのではないだろうか。
 そういう「前へ進む」思いが、お茶っ子サロンに多くの方が来てくださったという結果につながったとも考えられる。
 少し後から一人で来られた方が、部屋の中をぐるりと見た後、一人で席に着いた。一人で来られた方の多くは、すでに部屋にいた知り合いの方を見つけて会話に入っていった。一人で座った方は、普段はあまり家から出ないので知り合いが少ないが、お茶っ子サロンには出向き、周囲の人とコミュニケーションをとろうとしたのではないか。
 もちろん、すべての人が「前へ進む」という思いを持つようになったわけではないが、この1年という期間が「前へ進まなければならない」と考えさせたのではないだろうか。


松本
 仮設住宅に住んでおられる方が大勢来てくださった。
 お茶とお茶菓子を出すと、とても喜んでもらえ、
 「お茶は何杯いただいても嬉しい」
と言っておられた。
 「小谷さんのお茶が一番おいしい」
と笑顔で言っている方もいた。
 私たちがお茶をつくったりお茶の商品に携わる活動をしていることを知って、とても興味を持ってくれている方もいて、嬉しかった。
 「私の家も全部流されてしまった。これも、これも、この帽子も、今日着ている服も、全部が支援物資でいただいたものなんですよ。支援物資が来て、とっても助かった、ありがとう」
と言っておられた。
 「津波で全部流されてしまってどうしようもなく毎日を過ごしていたときに、綺麗なスイレンの花が咲いていて、元気をもらった。もう一度頑張ろうと思えた」
と自分から話してくださった。
 これから家はどうするんですか、と尋ねると、
 「これからまた新しい家を建てられたらいいなとは思うけど、もう歳だから今から建ててもいつまで生きられるかわからないからね」
と、冗談交じりで笑いながら言っておられたが、とても不安があるのだということが感じられた。
 「震災があってから、あなたたちみたいな若い人たちがたくさん来てくれて、とてもうれしかった。元気をもらえた。ありがとう。これからも頑張ってよ!」
と、バシッと背中を叩かれた。
 一本松のあたりに行ったことを伝えると、
 「前はあの辺りは、たくさん建物が建っていてにぎやかだったけど、今は1年経っても何もないからびっくりしたでしょ。これからもっと復興したらまたここに遊びに来てね」
と言っておられた。
 ぜひもう一度陸前高田に行って、街の復興や被災者の心の変化を見とどけたいと思う。



 携帯電話よろず相談では、写真の撮り方、待ち受け画面の設定の仕方、電話帳の登録の仕方など、わからないところを聞いて一緒に操作してあげると、喜んでもらえたのでよかった。


 お茶っこサロンが終わって、みんなで仮設住宅の一件一件を訪ねて、お茶を配った。みなさんとても喜んでくださって、
 「お茶はいくらもらっても嬉しいし、ありがたい」
と言っておられた。
 お礼にワカメなどをくれる方もいて、本当にあたたかい方々だと感じた。


 今回の合宿で初めて陸前高田に行って、写真や映像で見た光景から予想していた以上に変わっていない部分が多くて、本当に1年経ったのかと思った。
 「復興」というものがそれほど難しいということを改めて感じさせられた。
 被災された多くの方とお話しすることができたが、1年経ってとても明るく振舞われている方が多かったように思えた。明るく前を向いていこうというような思いを持っているような感じがした。


 しかし、笑顔で話されている方の中にも、うっすら涙をためている方もいた。
 何年経っても心の中の悲しみが薄れることはないのだろうなと思った。
 お茶っこサロンに来てくれていた方々は、お茶を飲むことももちろん楽しみに来てくれていたとは思うが、やっぱり人と会うこと、話すことが一番したかったのではないかと思う。
 来ていた方同士で、「久しぶり!」と言いながらうれしそうに話しているところを見て、近くに住んでいてもなかなか会わない友達に会うことができるということも、来てくれた理由のひとつではなかったかと思う。


 同じ時間を過ごし一緒に話して笑い合うことで元気がもらえるということを、今回お茶っこサロンを通して、私自身とても実感した。


花岡
 ひと通り準備が終わって、まだ開始までに時間があったので、みんなでお昼をとろうとしていた時に、1人目のおばあちゃんがやってきて、まさかこんなに早く来てくださると思っていなかったので、大慌てでした。

 その後も、おばあちゃんたちが来てくださり、その時までは会場には座布団が多く敷かれていたのですが、
「足の悪いもんが多いからイスと机がええよ」
と言ってくださった。

 みんなで、急いで机とイスを出そうとすると、手伝おうとしてくださったり、お湯を沸かすのが間に合わなくなってくると、
「ポット持ってきてあげるよ」
と言って、ご自宅のポットを持ってきてくださったり。

 私たちが開催したお茶っこサロンでしたが、仮設のおばあちゃんたちは、お客さんではなく、一緒になって開催しているような状況でした。

 私たちは「お茶をみんなで飲む」場所と機会を提供しただけで、あのにぎやかな空間は、おばあちゃんたち自身がつくってくれていました。

 小谷園さんも大人気で、様々な種類のお茶の飲み比べなどをおばあちゃんたちとしていたのですが、みなさんすごく楽しそうでした。
 小谷園さんのお茶を楽しんでいる方に、「小谷園さんはそんなに有名なんですか」と尋ねると、その方は、
 「小谷園はここでは特別だよ。誰かが死んだらお茶を供物にするんだよ。今回もいっぱい死んじゃったからねえ」
と少し悲しそうにおっしゃっていて、その時にあらためて、小谷園茶舗が再開したことの大切さがわかりました。



 携帯よろず相談では、娘さんたちと離れて暮らすようになったため携帯を持つようになったおばあちゃんに、電話番号の登録方法と、写メールを写真に現像する方法を教えました。
 電話番号の登録方法を教えているときに、その方から、
 「仮設に来て急に知り合いが増えたけど、登録できないからいつまでたっても電話が誰かわからんの。教えてもらえて良かった」
と言ってもらえた。


 写真の現像方法を教えているときは、小さいお子さんが2人写っている写メールをおばあちゃんが見ながら、
 「この子たちは両親とも亡くしちゃって、イベントで会って写メール撮ってあげて、ずっとこの写メールを写真にして送ってあげたかったんだけど、やり方わからなくて。本当にありがとう」
と言ってくださった。


 お茶っこサロンが終了し、外でゼミ生たちと話していたおばあちゃんたちに、「一緒に写真を撮りませんか」とお誘いすると、快く一緒に撮ってくださり、その後、うれしそうに
 「津波で全部写真も流されちゃってないから、今日の思い出でその写真、送ってちょうだい。お願いね!」
と言われて、嬉しいような悲しいような複雑な気持ちになりました。


 余ったお茶の葉を配っているときも、「今日はありがとう」と多くの方に言ってもらえた。


 今回だけでお茶っこサロンを終わらせず、もう一度必ず来たいと思いました。


 震災から1年がたち、やっと現地に行って多くの被災者の方たちと接したのですが、そこで感じたことは、
「どういう状況だったのか、どんなことがあったのか知ってほしい」
と思っているような方が多くいらっしゃるということでした。


 お茶っこサロンでは、お話の中で自然と3.11の話が出てきました。
 小谷園さんも、積極的に、被災した場所や市街地を見に連れて行ってくださるなど、あの時こんなことがあったということを誰かに伝えたい、という気持ちが伝わってきました。


 おばあちゃんが笑いながら、
 「これでも、みんな笑えるようにやっとなったんだよ」
と言われたときの顔が、嬉しそうな、悲しそうなお顔で、まだ何か抱えているけれども、前を向いていこうとしているような、でもどこかあきらめているような顔が忘れられません。


 被災者の方たちは私たちに震災当時のことを話すことで、あの時のことを思い出し、自分自身にも何かを納得させているような気持ちを感じ取りました。
 「前は向いていないとつらいけれど、でも震災の時から気持ちが進んでいけない」と思っている被災者の方が多いのではないか、と感じました。


小矢野
 私は、初めの方はお茶を入れることに専念していたのですが、途中からおばあちゃんたちが自分でお茶を淹れていたので、話を聞くことができました。
 初めは笑顔で話していたのですが、あるおばあちゃんが知り合いの方に「震災の時にどうやって逃げたの」という質問をしたところから、3月11日の話になりました。
 あるおばあちゃんは、地震が起こった時に市役所にいたので、市役所の屋上に上がったそうです。その時に、高田病院やスーパーマイヤの屋上にも人がたくさんいて、屋上はぎゅうぎゅう詰めで、片足は屋上の上にあるが片足は津波の上の状態の人もいた。
 もう一人のおばあちゃんは、お孫さんが海の近くにある学校にクラブをしに行っていたので、津波が来たときには、「もうだめかな」と思っていたのですが、そのお孫さんは、地震が起こった後に先生の指示ですぐに逃げたので助かっていたことが数日後にわかったそうです。そのおばあちゃんの家族はみんな無事でした。
 高台に避難してからも、「自分は助かったが目の前で流されていく人をただただ見ているしかない」というつらい状況でした。
 また、遺体の中には、夫婦で抱き合って亡くなられた方や、子どもを守るようにして亡くなられた方もいる、と。

 一本松の写真を見ながら、「昔はこんなにいいところだったよ」とおっしゃっていた。
 「こんな風に笑える日が来ると思っていなかった。ボランティアの方々がたくさん来てくれたから、ここまでこれた」。
 栗村さんは、何度も、「陸前高田にまた来てください」とおっしゃっていました。それを聞いて、やはり、若い力と活気がほしいのかなと感じました。
 お茶っこサロンではたくさんの人の笑顔を見ることができました。そこには栗村さんの宣伝、小谷園さんの存在、そして私たちの呼び込みがあったとは思いますが、一番の理由は、仮設の方のニーズに合致したことではないかと思いました。
 高田一中のおばあちゃんが笑顔を取り戻せたのは、長い期間、ボランティアの方々が活動をしてきた結果だと思いましたし、震災直後にボランティアに来ていた方は、笑顔などないところで活動していたと思います。今回のような短期のボランティアではなく、矢の浦の仮設住宅に貼ってあったようなお茶っこ活動をする団体があってのことなのではと感じました。
 高田一中では、笑顔を少しずつ取り戻している方々に出会うことができましたが、矢の浦のような小さな仮設住宅では、どれくらい笑顔になれているのでしょうか。これは合宿前にも考えたことかもしれませんが、そういう思いが強くわいてきました。



藪井
 私の役割は、お茶を淹れるという裏方の作業を主にしていました。
 そこで、「お茶がぬるい」「熱い」などの意見が続出し、これで大丈夫なのかと緊張していました。
 しかし、お茶を淹れる作業の中で、私たちは被災者の方の優しさに触れることができました。というのも、来てくれた人が予想以上に多く、私たちが持ってきたポッドだけではお湯が足りずに沸かす時間がかかってしまい、作業が遅れてしまうという状況があったのですが、それを被災者の方が感じとって、仮設住宅にある自分たちのポットを私たちに貸してくださいました。これにはとても感動しました。私は裏方の作業ばかりで被災者の方と深い話はできませんでしたが、この時だけは、「裏方で作業をしていてよかった」と思いました。彼女たちの優しさに直接ふれることができたからです。裏方だったからこそ感じることができたのだと思います。
 もう一つ、裏方の作業をしていて、被災者の方の優しさにふれた瞬間があります。お茶を淹れる時には茶葉を入れ替えなければならず、使用済みの茶葉をザルに捨てていたのですが、そのザルの中の茶葉を見た方が、
 「いい香りがしますね。これを捨てるのはもったいない。私がもらってもいいですか。調理して使いますよ」
と言ってくださいました。
 とても感動しました。被災者の人柄を感じとることができました。
 お茶っ子サロンの中盤では、小谷園さんが僕たちよりもはるかに美味しいお茶を淹れてくれて、そちらのほうが人気になったので、私の仕事が少し軽くなり、被災者の方と話すことができました。
 しかし、私が話に行った時には、お茶っ子サロンも終盤で、携帯電話のアドレスの削除の方法を教えるということぐらいしかできず、軽くお話する程度で、震災直後などの深い話しを聴くという機会はありませんでした。
 ゼミ生が被災者の方たちと会話をしている光景を見て、被災者の方がとても楽しそうに会話をしているという印象を持ちました。これだけでも、お茶っ子サロンを開催した意味があると思います。
 「心のケアが最も大変なことだ」と京都に出稼ぎに来ていた陸前高田の方が言っていましたが、このお茶っ子サロンも心のケアにつながった部分があるのかもしれません。
 来ていただいた方が帰る際に、「また高田に来てくださいね」と握手をしながら言ってくれた時には、何とも言えない喜びが込み上げてきました。そういう人が一人ではなかったということも心に深く残りました。
 お茶っ子サロンが終わり、お土産用に余った茶葉を仮設住宅一軒一軒を回って配る時には、今回のお茶っ子サロンに来ていただいた方から直接感謝の言葉をもらうことができ、この上ない達成感を味わいました。言葉では表現できない感情が込み上げてきました。(中略)
 私は、はじめ、震災の現場を見たときに、「全然復興してないじゃないか」と町の風景をみて思いましたが、何も復興していないわけではなく、「人の心」というものは徐々に回復しているということを陸前高田に来て感じました。
 それは、この一年を通して、日本全国からボランティアを行ってきた人たちのおかげであると私は思います。
 どんな些細なことであっても東北の人たちのために活動するということの重要性を感じました。
 以前、陸前高田から京都に出稼ぎに来た方に聞取りをしたときに、
 「3月11日は、東北復興を名目にしたマラソンではなく、東北のほうを向いて手を合わせてくれたら、とてもうれしい」
と涙ながら言っていた意味が少しわかったような気がします。
 たった4日間の合宿でしたが、とても考えられさせられる4日間でした。
 上手く言えませんが、この感情を京都の人々に伝えることこそが、今回のボランティア合宿での最大のボランティアなのではないでしょうか。
 今回私たちがつくる新聞をきっかけとして、震災についてあらためて考える人が出てくる、あらたにボランティアに行ってくれる人が出るという機会をつくれるのなら、それは大成功だと思う。



奥野
 お茶っこサロンでは、携帯電話での写真の撮り方などを聞いてこられた方とお話をしました。
 「最近携帯を買ったけれど、やはり使い方がいまいちわからない」、
 「小学生の孫の方が上手く使える」、
 「孫の写真などを撮りたい」
とおっしゃられていました。
 何度使い方を聞いても忘れてしまうらしく、困っているようでした。
 私は、裏方で準備を手伝ったり、後半は写真を撮ったりしていたので、最中はあまり会話が出来なかったのですが、お茶っこサロンが終わってから集会所の外で、
 「いつもはこんなに集まらないんだよ、今日は本当にたくさん集まった、ありがとう」
と声をかけて頂きました。すごく元気をもらったと言って頂けて本当に嬉しかったし、別の方の、
 「でも元気は与えあっているんだよね」
という言葉も印象的でした。

 「写真も全て流されてしまったから今日の写真を送ってほしい」
と言われて、現実としての震災の実感と、楽しんでもらえたという思いと、もっともっと一人ひとりを丁寧に撮っていたらという思いでいっぱいになりました。

 「また来てね、もうすぐホテルができるからこっちにも泊まれるよ、ここにいる限り私たちだからね」
という言葉など、受け入れて頂けたことが本当に嬉しかったし、こみ上げる思いで胸がいっぱいでした。

 「また来てね」と言われて、ゼミの先輩方が以前もお茶っこサロンをしたことを話すと、あちらから落語の話をして下さりました。
 大きな仮設でイベントもよくあると聞いていたのに、きちんと覚えていて下さるんだなと嬉しく思いました。

 お別れのときも、いろいろな方々が気をつけて帰ってねと声をかけて下さり、本当に暖かい方たちでした。

 お茶っこサロンを行う前、私はもっともっと漠然とした重たいものを想像し
ていました。
 仮設におられる方々の様子が想像できず、当日まですごく緊張していました。
 しかし、13時開始のお茶っこサロンの20分前から集まってきてくださったおばあちゃんたちは、すごく暖かくておしゃべり好きな、一見すると、いい意味で「普通の方々」でした。
 けれど、「これでも笑えるようになったんだよ」という言葉の通り、それは皆さんが1年かけて乗り越えてこられた結果であり、まだまだその最中の姿でした。
 私には、京都でお会いした被災者の方をはじめ、合宿中に接した方々に個人差はあれ、全て乗り越えることはできないし、またその必要もない、けれど少しずつでいいから前を向く、前に進んでいくという思いが見えたような気がします。
 すべてを失った経験のない自分が言葉にしようとすると、上手く表現できず、どうしても薄っぺらく感じてしまうのですが、それぞれ思いや形に違いはあれ、私が係わった被災者の方々からは、「どうにか生きていく」という意志を感じました。
 それは、必ずしもポジティブな気持ちから生まれるものではなく、仕方なく、他にどうしようもなくといった部分を含んでいるように思います。
 少しずつでも歩みを止めないということが、辛い現実を生きていくのには必要なのだと感じました。


田辺
 お茶っ子サロンでは、ほぼ裏方をしていたので、あまり会話をする時間がなかったが、そこでお話ししたお婆ちゃんとは
 「あんたはずっと裏方してたなぁ。何事も裏で支える人が大事やよ」
 「何事もコツコツするのが大事」
 「水回りをキレイにできる人は良い事があるし、成功する」
 「男の在り方」
など何気ない話をしていた。


 「そろそろ帰ろうかね」と立ちあがろうとした時に、
 「うちに連れて帰ってもいいか」
と言われたので、笑顔で
 「いいですよ」
と答えたら、お婆ちゃんは、
 「今日はいい息子ができた」
とずっと手を握っていた。

 家まで送ろうと一緒に外に出ると
 「その裏手まで津波が来たんだ」
仮設住宅の裏手を指差した。
 「皆流されて私一人しか残らなかった。向こうに戻っても忘れないでよ」
そう泣きながら抱きしめられた時、思わず泣いてしまった。
 強く握られた手からは、言葉にはできないほどの思いが伝わってきた気がした。
 「また皆で来ますから、元気に長生きしてくださいよ」
と声をかけたら、
 「いつまでも元気だ」
と笑ってくれました。

 その涙でぬれた笑顔を見て、胸を締め付けられるような思いがした。
 「本当に、今回、僕たちは役に立てたのだろうか」
 「今回来て下さらなかった人達が来て下さるにはどうしたらよいのか」
 「僕たちは、この人たちのためにいったい何ができるのか」
を考えさせられた。
 でも、何もしないよりは、お婆ちゃんが言うように「何か小さなことでもコツコツと続けること」が大事なんだと思った。
 これからもゼミを通して被災地とつながりを持ち、ゼミだけではなく、例え卒業しゼミが終わっても、このゼミメンバーとともに被災地と関わっていたいと強く思った。
 今回合宿を行って思ったことは、京都に出稼ぎにきていた陸前高田の方さんからも、気仙町の漁師さんからも、そしてお婆ちゃんからも言われた
 「忘れないで」
だった。
 3月の京都新聞では、このような被災地の声を伝えてたいと思った。



永井
 気仙茶の茶畑を後にして、高田一中の仮設住宅に戻り、「お茶っこサロン」の手伝いを途中からした。
 私は、帰る人についていき、ゆっくり歩きながらお話しをした。
 「ありがとう、ありがとう」と何回も言ってくださった。
 中には、私が、
 「逆に笑顔をもらってしまって、ありがとうございます」
と言うと、
 「だって笑ってないとね、前を向いて歩いていかなくちゃ。第二の人生が始まっているんだもの」
と曇りのない笑顔をみせてくださって、そこに行き着くまでどんな紆余曲折があったのだろうと考えると、泣きそうになってしまった。


 仮設住宅をまわっていると、お茶っ子サロンには行かなかった人も、「どこから来たの?」「何してる人たちなの?」とか話しかけてくれた。


 少しお話をして、お茶を渡す時、
 「お茶はお供えに使えるんだ。本当にありがとう。助かります」
といってくださった。
 この方も大切な人を亡くされたのだと思った。
 私はその方のお家の愛犬クッキーと戯れていたのだが、家の方はその姿をみて、優しそうな笑みを向けてくださった。

 帰り際には、引きとめてまで牛タンをくださって、
 「しっかり食べて、体調を崩さないようにね」
と言われた。
 「ありがとうございます」
としか言えなかった。

 気仙茶のKさんもそうだったが、私が陸前高田で出会い、お話ができた人はみなさん、自分のことよりも周りを気にかけてくれる人たちだった。

 これは、一年という時間と、それまでに訪れた人達によるたくさんの活動があったからと思う。
 被災者が外にでる勇気と、非被災者が話を聞く優しさがそうさせたのではないかと感じた。
 以前から、心の広いおおらかな人が多かったが、震災でふさぎこんでしまった。
 でも、周りの人達がいたから、動いたから、もとのその人を取り戻せていっているのではないか。
 私たちも、「してあげる」とかそんな気持ちではなくて、「被災者の気持ちが知りたい」、「何かお手伝いができたら」、そういう思いで動くことが大切なのではないか。
 最初は自己満足なのかもしれない。
 不安に思うこともたくさんある。
 だけど、被災者の暖かさに少しでも触れ、また行動しようと思い、誰かに伝えようと思う。
 そんなことの繰り返しが、今の時期大切なのだと思う。
 相互に支えあうことが復興に向かうことなのではないか。
 そう感じることができた合宿だった。


岡本
 茶畑を後にし、お茶っ子サロンと合流すべく高田一中へ向かった。
 お茶っ子サロンに来ていた被災者の方と少しだけお話ができた。
 その方は、「こういった集まりはホントに必要」と言っていました。
 また、帰り際に手を握ってくれる方や、握ったまま離してくれない方、仮設住宅へお茶を配りに行った際に、飼っている犬の紹介を笑顔でしてくれた方、自分たちのことは構わず差し入れを下さった方々がいたことに暖かさを感じた。
 今回の合宿を通して、こちらの人は暖かいということを感じた。
 気仙茶のKさんはワイワイ楽しく生活を送った親の背中を見て育ち、同じくワイワイ楽しくやるのが好きな人に育った。自分のことは構わず、他人へ優しく接してくれる姿、他人へ優しく接する姿が昔から続き、今のような強いコミュニティができたのではないかと思った。
 それと同時に、このようなコミュニティは都市化とともに失われつつあるのではないかとも思った。
 また、お茶っ子サロンに来てくれた方々も強く、やさしく、たくましかった。
 震災直後はこうはいかなかっただろうが、約1年過ぎた今、こうやって前を向いていることが何よりの証拠だと思う。
 今回の合宿をサポートしてくださった、栗村さんや小谷さんも被災者を元気づけようとずっと頑張っている。そして、このような人たちに触れることで、自分も動かなければいけないなという気持ちが芽生えた。
 「人を動かすのは熱だ」と改めて確認することができた。
 しかし、一方で、被災地の状態はあまり変わっていないと思われる。町の様子やガレキの山を見ると、被災者は変わっていっているのに、被災地はまだまだという印象を強く受けた。このような状態の中、被災者の生活を一刻も早く取り戻していくにはどうすればよいかということを考えさせられた。非常に難しい問題であると思うが、今後も考えていかなければならないことである。
 そしてこの体験を伝えていくことも重要であると感じた。

川野
 素直な感想としては、あれだけたくさんの人が来てくださるとは思いませんでした。平日なので、仕事を持っている人は来ることができないし、先輩方のように落語があるわけでもない。けれどもたくさんの方が来てくれました。
 私は、お茶っ子サロンでは、お茶を淹れる役や荷物運び、来てくださった人にお土産として渡す茶葉の小分けなどでほとんどの時間を使ってしまい、あまりお話を聞かせていただくことはできませんでした。
 しかし、メンバー1人1人がやれることをやったので、これからその情報を共有して、お茶っ子サロンについても考えていきます。
 このお茶っ子サロンで震災などのことは聞けませんでしたが、
 「こんな暖かい日はここでは珍しいんですよ。皆さんがきてくれたからこんないい天気になったんじゃないかなぁ」
と、元気をもらう言葉を何度か言っていただきました。
 茶葉の小分けをしていた時は、何人来てくれているのか、盛り上がっているのかもわからない場所でやっていたのですが、その言葉をいただいて、とても楽しんでくださったことが伝わりました。


今井
 僕の主な仕事は、京都から持参した茶葉を小分けにすることであった。
 Kくんと二人で行なった。時間にして2時間以上。時間が経つにつれて集会場の様子が賑やかになる。かなりの人数が集まったと、すぐに理解した。
 作業が終わると、集会所の外で、来ていただいた方にお土産を渡すように言われた。帰っていく方を見ると笑顔で溢れ、短い時間ではあったが楽しんでいただけたように思えた。
 Aくんが僕の仕事を代わってくれたので、初めて被災者とお話する機会を頂いた。
 残り時間も少なかったので、多くの方とおはなしはできなかった。初めてお話したおばあちゃんが、僕のホホを両手で包んだ。
 僕は震災当時の話を淡々と聞いていた。
 被災者それぞれにドラマがあり、現在は被災者同士が共に分かち合い、共に励ましあっていることを改めて理解し、私は、涙が止まらなかった。
 メディアとはちがう、現地の方の本当の思い、何がいま必要であるかを聞いた。
  知り合いを連れて逃げたこと。
  逃げたにも関わらず、孫の服を取りに戻り二度と帰らなかった方がいたこと。
  若い建設会社の息子さんが津波に攫われ、7キロ先の高台に流れ着いた話。
  若者が必要であること。
  現在は企業がないので雇用が生まれず若者が流出している現実。
  大企業がやってきて欲しい。
  子供がまだ作れるなら作りたい。
  過去を振り返っても仕方がない、私たちが阪神淡路大震災を見た時は、まさか自分たちに同じことが降りかかるとは思わなかった。今は未来を見つめている。私たちは先が短いから。でも第二の人生の出発点である。若者と一緒に明るい未来を作りたい。
 余ったお茶を各仮設に配って回った。最後に配ったおばあちゃんが熱心に震災当時の話をしてくれた。最近初めて当時の映像や写真を見ることができるようになったという。一緒に逃げている皆が徐々に津波に攫われていった。今はしっかり前を向いていると話してくれた。
 お茶っ子サロンでは、今までの2倍以上も参加してくれた。こんなことは初めてであったと何度も言われた。ぜひまた来て欲しいと何度もお願いされた。
 最後の夜、宿舎で、ボランテイアに来てくれてありがとうと涙をこぼしながら感謝の言葉を頂いた。
 本当に短すぎる時間であった。他の仮設住宅でお茶っ子サロンを開催する、現地の学生が何を考えているかを知りたくなった合宿であった。

土矢
 基本的には裏方の仕事をしていたが、ある方から携帯の使い方を教えてほしいといわれたので、その方の仮設住宅に行かせていただいた。
 仮設住宅の中は本当に狭くて、プライベート空間なんかはほとんどないのでかなり不便そうだと思った。携帯の使い方を教え終わると、2冊の本を見せてくれて、震災当日のことや、震災前の思い出などを語ってくれた。
 「これは毎年8月に開かれる動く七夕まつりの写真で、山車の見栄えを競う祭りで、私の住んでいる地区はいつも上位に入賞していてねー。こっちの写真はよく散歩していた並木道で、とても気持いいんだよ。」
と、とても楽しそうに、懐かしそうに話してくれた。
 しかし、震災の話を話されている時の表情はほんとに悲しそうで、涙をこらえながら話してくれていたように思えた。
 震災後の陸前高田の写真を見せてくれたときに、
 「あなた達にはわからないと思うけど、津波の被害は本当にひどかった」
と言われた時は何も言葉にすることができなかった。
 また、仮設住宅の格差についても教えてくれた。よくテレビで芸能人の人たちが被災地訪問をしているが、それは大きな仮設の集落のところだけに来て、小さく目立たないところには行かないらしい。
 また、支援物資などは早いもの勝ちで、早く行けば良いものをいくらでももらえるが、ちょっとでも遅れていけば、最初に来た人に配りすぎたからかもらえる数に制限がかかるという。



田端
 昨年に先輩方が開催されていたが、私たちの世代では初めてのことだった。
 小谷さんの協力のもと、自分たちなりのカタチで開催できたのではないだろうか。
 私は、最初は裏方での作業に徹して、あまり積極的に話しかける機会がなかったが、ある時、唐突にある一人の方に話しかけられて、そこから多くの方と話し始めた。
 震災当日のことや、親戚・家族が亡くなった話をされ、涙が出そうになった。
 前を向いて進んでいる方も多くおられ、私が想像していた暗い雰囲気ではなかった。
 もちろん僕たちが来たことで無理に笑顔をつくって振る舞っておられた方もおられたと思う。
 私たちが元気を与えに行っている立場であったにも関わらず、反対にこちらが皆さんの笑顔に元気を頂いてしまった。

寺本
 私がお話した夫婦の方は、陸前高田の震災前の姿が写された本を見せながら、動く七夕祭りなどのお祭りの話や、高田松原の話をして下さった。
 「とてもきれいなところだったんだよ。震災の前にあなた達にみてほしかったね」と悲しそうにおっしゃっていた。
 そして、話は3.11当日の話へと変わっていった。
 車で逃げて行った人の多くは流されてしまった。その原因は逃げていた人が乗り捨てた車にあったという。これにより渋滞が起こって逃げ遅れた人がたくさんいたそうだ。

岡嶋
 高田一中の仮設住宅の方とお会いし、お話をし、少しばかり心に触れた。
 彼女たちは前を向いていた。
 しっかり未来を見すえいていた。
 僕に当時のお話しをしてくれたからって、見返りを求めなかった、むしろ笑顔で答えてくれた、元気をいただいた。
 何だろう……、共通する心は。
 ただ本来の人間の強さが見えました。
 頑張れじゃなくて一緒に頑張ろう。
 寄り添って生きていくこと。
 震災を風化させてはいけない。
 そう思いました、

有光
 バスでお茶っ子サロンが行われている高田一中の仮設住宅へ行った。
 漁師のOさんに、お茶っ子サロンを行うことをお話しすると、
 「みんな事情があるから、あまり人が集まらないかもしれないけど、落ち込んだらだめだよ」
ということを言っていただいたが、到着してみると50人以上の方々に来ていただけていた。

 会場を覗いてみると、多くの方々の笑顔や笑い声で溢れていて、とても良い雰囲気だった。

 中にはゼミ生と孫のように接している方、歌や踊りを踊っている方もいて、こちらが元気をもらってしまうほどだった。

 私は、帰り際に、宇治茶を渡す役を担っていたが、帰っていくすべての方が「ありがとう」、「楽しかったよ」、「また来てね」と言ってくださった。

 今回の合宿を通してメディアや資料からでは認識することができなかった人々の思いを少しでも感じることができたのではないかと感じた。
 今回会わせていただいた方々は、自分が思っているよりもずっと前を向いていて、初めて会った我々に対してとても親切に接していただいた。
 やはり、今回の京都新聞での掲載を通じて、我々が感じ取った雰囲気や思いをより多くの人に文字で正確に伝えなければならないという思いが強くなった。


奥田
 まず高田一中に到着し準備を始め、会場の設営を行い、それが終わるとビラを配っていく作業に移った。
 各住居に対して声掛けを行っていった。
 平日ということもあり、人のいる住居は少なかったのか、または居留守でしのいでいたのだろうか、ノックに応じてくれる住居はなかなか見つからず、実際に開催するとなって本当に人が集まるのだろうかという不安もあった。
 ただ、声掛けに応じていただいたおばあちゃんたちは「ありがとうね、あとで行きます」というように好感触を残してくれたケースもあった。
 また、集会場の近くを通られたおじいさんにビラを配り、話をしたところ、
 「男はあまりこういうイベントには来たがらない。女の人は集まってしゃべったりするのが好きだから来ると思うけど自分にはなかなか合わない」
とおっしゃられた。
 また、40代くらいのご婦人が通りかかった時にも声をかけたが、忙しそうなのもあってか自分から行きたい、というような意思表示をすることはなかった。
 お茶っこサロンの参加者の層を見てみると、実際に来られた方はおばあさんが多く、その次に男性が、若い人や子供は全く来られなかった。
 そして準備が整えると、午後1時開催のところ、10分くらい前には最初のお客さんが来られた。そこからは続々とやってこられ、知り合い同士で誘い合って参加された方なども見受けられた。
 私は裏方に回りつつ、手が空いているときにはできるだけ参加してくれている方とお話しするよう心掛けた。
 「津波で店が流されてしまって廃業せざるを得なくなってしまった」という話や「息子や孫は遠くの県に住んでいる」というお話を聞くことが出来た。
 身内が他県で生活をしているという方はご家族と会うことも滅多になく、正月に会ったがそれ以外はなかなか会えないという話であった。特に、「今この地域がこういった状態であるのでこちらの方に来ることが難しい」と話しておられた。
 今回のお茶っこサロンでは、およそ50人の方に来ていただくことができ、仮設住宅の中のご近所さんとのコミュニケーションという形で、参加して頂いた方自身いろいろな方と交流することができたのではないかと思う。
 お茶とお茶菓子を振る舞い、携帯よろず相談をし、最後には高田踊りで全体の空気を一つにすることで今回参加して楽しかったと思ってもらえたのではないかと思う。 来ていただいた方たちは、皆笑顔で会話を楽しんでいるように見受けられた。



 集会場の掲示板に貼ってあったプロレスラー達のイベント。
 男性陣にはよいかもしれない、と思った。





 離れた地域に住む私たちが被災者のためにできること。
 それは、被災者に寄り添い、ひたすら耳を傾け、そして、
 『私達は3月11日を忘れていない』
 『私達はあなた方に関心を持っている』
という姿勢を伝えること。
 そして、被災者から聞いた言葉を、聞いた者の責任として、自分の周りの人に伝えること。
 
 「忘れないでほしい」

 これが、今回の合宿で私たちが被災者からいただいた最大のメッセージでした。



 最後に、お世話になった小谷園茶舗の宣伝をさせていただきます。



 煎茶 1050円

 煎茶 525円

 ほうじ茶 210円

小谷園のお茶は川の駅「よこた」でも購入できます。地図はこちら
 住所: 岩手県陸前高田市横田町砂子田169
 電話: 0192-59-2918 ‎