気仙茶の参考文献

 今回、遠野で大船渡方面行きのバスを待っている間、市立図書館の郷土資料室に立ち寄りました。河童のマークの入った利用者カードもつくりました!
 館内で『岩手県史』『宮城懸史』『気仙郡誌』『陸前高田市史』『岩手県農業史』の気仙茶に関する記述を閲覧しました。
 
岩手県史 第9巻 近代編』
 「稗作は県北の畑作地に多いが、県では温暖地帯に属する気仙郡もまた産地である。気仙郡は、北上山系の東斜面に位置しているから、小さい河川だけあって、水田が少なく畑地が多い。したがって気仙農民は、米作の外に麦作稗作に重きをおいていた証であろう。この郡の温暖なのは、日本列島の東部を北上する温暖海流が、この郡の東南部に流れてくるので、極めて温暖であり、冬季にも殆んど積雪をみないのである。したがってこの郡の畑作農業が他の郡を凌駕して生産の高い素因をなしている。」(409頁)

 「稗」は、<東北の貧しさの象徴>などと、ネガティブなイメージで語られることが多いですが、この『県史』の気仙郡の描写には、自然条件を活かした人々の生業にたいする筆者の暖かさや敬意を感じます。
 気仙地域で茶が栽培できたり、「北限のツバキ」や「北限のユズ」があるのも、「温暖な海流」のおかげで、<自然の贈り物>なのですね。大切にしたいです。



「本県管内において最も養蚕の盛んな地方は、県南の東西磐井郡及び気仙郡の三郡地域であった。東閉伊・中閉伊・北閉伊の諸郡がこれについでいる。明治25年の統計によれば、東磐井郡においては全農家の4割4分が養蚕戸数であり、気仙郡は3割弱、西磐井郡は1割3分を示している。」(同上、435頁)

 気仙郡は、明治中期には、東西の磐井郡に次ぐ県内屈指の養蚕地帯だったことがわかります。


岩手県史 第4巻 近世編』
 仙台藩の「寛永惣検地[1640年〜1644年、引用者]の総反別は、九万五千六百十町歩弱で、そのうち田は五万町歩強、畑が四十五万町歩強、茶畑が三百町歩強」(814-815頁)。
 仙台藩全体の茶畑は三百町歩強。


『宮城懸史27(資料篇5)』
 安永6年(1777年)の気仙郡各村の「風土記御用書出」には、濱田村 、廣田村 、矢作村 、小友村 、勝木田村 、大船渡村 に「茶畑」の記載があります。ただし、高田村、末崎村、赤崎村、猪川村、立根村、日頃市村、越喜来村、吉浜村、唐丹村、竹駒村、横田村、世田米村、上有住村については、「全書出を缺く」[860頁]とあり、他村については不明。


岩手県教育会・気仙郡部会編纂『気仙郡誌』(明治43[1910]年10月発行)
 「茶は多少に拘らす各村に植付けられ、自家飲料となる、中にも猪川村の三町歩、気仙村の二町歩を多しとし、赤崎、廣田、立根の三村之れに次く、今之れを表示すれば左の如し。

」(二五頁)

この表の調査年は、『岩手県統計書』から推測する限り、明治30年代末の統計だと思われます。
 ここで「自家飲料」という言葉が登場しています。また、猪川村(3町歩)と気仙村(2町歩)での栽培が多く、その他に、赤崎村、廣田村、立根村などでも栽培され、栽培面積は32町程度だったことがわかります。

 また、「煎茶」「番茶」以外に、「紅茶9貫」「烏龍58貫」と記載されていることは、興味深いです。「岩手県統計書」で調べてみると、明治38年(1905年)に、気仙郡では、紅茶12貫(価額30円)、烏龍茶9貫(価額14円)が、40年には、紅茶8貫(価額20円)生産されたことがわかります(煎茶は669貫、価額2,472円)。
 また、岩手県全体では、明治38年に、紅茶15貫(価額41円)、烏龍茶9貫(価額14円)、明治39年に紅茶9貫(価額23円)、烏龍茶72貫(価額140円)が、明治40年に紅茶8貫 (価額20円)が生産されています。それ以降、紅茶は登場しなくなります。

 紅茶生産について、清川雪彦氏は、下記のように指摘している。「明治40年頃は、生産地域の拡大という観点に立つ時、第2の紅茶ブームであったといってよい。事実、明治18年より紅茶の生産統計が利用可能となるが、今それによれば18年にはわずか9県で生産されていたにすぎなかったのが、その後次第に増加し、40年には29県ででも生産されている。確かに生産量は、27〜28年頃をピークに以後漸減傾向を示し、37年以降は急速に低落したにも拘らず、30年代には秋田や福島・岩手などの東北地方ででも生産が試みられるなど、38〜40年頃に最も広範な地域で紅茶の生産が試みられたのであった。こうして結果的には紅茶の輸出は、茶樹の問題や気候風土条件などの理由により失敗に帰したものの、普及という観点からみれば、ほゞ全国各県(北海道・青森・香川・沖縄を除く43県)で生産が試みられたという意味において、成功であったといわざるをえないのである。そしてそれには、博覧会や共進会が大きな役割を果していたのであった」。(「殖産興業政策としての博覧会・共進会の意義―その普及促進機能の評価―」一橋大学経済研究所『経済研究』39(4):340-359、1988年)



 陸前高田市史 第5巻 民俗編(上)』(陸前高田市編集委員会編/金野静一 監修、1993年3月)
 第1章「衣・食・住の民俗」の「3.茶」には以下の記述があります。
 「気仙地方は、東北地方でも珍しい茶の産地であり、営業として生産する家もかつては少なくなかった。しかし、多くの農家では『湯通し』と称する簡易な製法により自家製茶をつくり、これを用いていた。
 摘んだ茶の葉をザルに入れ、煮立った湯の中に入れた後、すぐにとりあげ水気を取る。次いでムシロの上で、よくもみながら広げていく。そして火にかけた『じょたん』に入れて、水気を渇かしながらもむ。こうして乾燥した後、箱などに密閉して貯蔵する。」(117頁)

 「茶は緑茶のほか、番茶や麦茶も用いられた。茶は古くは『茶塩気』といって梅干しか、漬物を添えるのが普通であったが、この風習は現在でもみられる。漁村・農村とも老人などは、塩少々を添え、これをなめながら喫茶するふうも残っている。
 なお婚礼や仏事などの前後に『お茶飲み』と言って人を招いたり、目出度い結納品に茶を用いたりする一方、子供が茶を飲むと寝小便をするとか、風邪を引くなどともいう。これらの伝承は、茶が貴重な『晴れの日』の飲物であったことを示す名残かと思われる。」(同上)


 陸前高田市史 第9巻 産業編(上)』(陸前高田市編集委員会編/金野静一 監修、1997年3月)
 
 第1章「農業」第4節「気仙地方の農業経営」の「四 畑作農業」には以下の記述があります。

 「近世には、ほぼ盛岡の線が北限になっていたので、温暖な気仙地方は産地と呼ぶことができ、畑栽培をして企業的に製茶をする農家もあった。ただし、茶畑は上々畑の何倍という斗代のため、多くは畑境の空地などに垣根作りして自家用とした。これは無税だった。
 製法は一番茶を摘んで『蒸籠』で蒸し、板に細縄を固く巻きつけた『揉み台』で充分に揉みあげ、こたつやぐらの上にかけた乾燥箱で、まんべんなく炭火で乾燥させた。乾燥箱は、底に何枚もの和紙を張り合わせた平たい箱で、乾かしながら手のひらで軽く揉むのが仕上りをよくするコツだった」(215〜216頁)

 先ほどの『市史 民俗編』では、<湯通し>という「簡易な製法」について述べられていましたが、この『市史 産業編』では、<蒸籠で蒸す>製法について記されています。おそらく、両方とも存在して、前者はもっぱら自家用の製法、後者は出荷用にも用いられた製法なのでしょうが、今後も、調べ続けていきたいと思います。


 第6節「戦後の農業政策」「(四)特用作物」には、以下の文章があります。
 「『北限の茶』で知られる本市の茶は、小友町、赤崎町を中心として市内各町に栽培されている。栽培農家は500戸で、面積はおよそ5ヘクタール程といわれている。
 収穫時期になると、若葉を摘みとり、陸前高田市農業協同組合製茶工場(小友町)に集荷し、製品化され、製品のほとんどが自家消費用として、あるいは贈答用に使われてきた。
 茶樹の7割以上は在来種で、畑地の畦畔を利用して栽培されているが、気候風土によく適しているので樹勢が強く、害虫におかされることもなく、無農薬栽培が可能である。また、肥料も鶏ふんなどを使用する有機栽培であるから、安全な健康飲料といえる。品質の面では、渋みと味に優れていると評価されている。陸前高田市農業協同組合では、北限の茶の特産地化を目指して、高品質化及び増産に向けて計画的に農家を指導している。これまでの製茶工場(小友町)は老朽化したので、米崎町樋の口に移転して最新式の製茶機械を導入し、平成5年から新工場で操業している。新製茶機械は、自動制御方式の機械であるから、2人で操作できる。自動真空包装機械も併せて導入された。
 北限の茶のルーツは明らかではないが、寛永19年(1642)気仙郡小友村御検地帳や、古文書の中に次のとおり各村に若干の茶畑が検地されている。
 当時は、畑に食糧以外の作物を栽培することは許されなかったから、畦畔などに植付けられていた。したがって検地帳の記載も、田畑と区分して、『外茶畑...』と記載されている。今日、市内の茶畑がほとんど畦畔などに作られているのは、藩政期の慣習を踏襲していることを物語っている。
 茶の栽培範囲が三陸沿岸のほとんどの町村に及んでいるのは、気候条件が似ているためであろう。」(355〜358頁)

 ※上の寛永検地帳の中に登場する「正徳寺」は、小友町両替の真宗大谷派の岩峰山 正徳寺さんでしょうか。もしそうだとすれば、正徳寺は文禄2年(1593年)の開基のようです(千葉 望『共に在りて―陸前高田・正徳寺、避難所となった我が家の140日』講談社、2012年3月)。

 ※寛永検地帳については、「現在(陸前高田−引用者)市内で発見されたものは浜田村、勝木田村(米崎町)、小友村のものだけである」(『陸前高田市史』12巻[資料篇]826頁)ので、他村については不明。また、「仙台藩の領内検地は、文禄・慶長・元和・寛永に行われているが、当地域(陸前高田市−引用者)に寛永検地以前の検地帳は見当たらない。」(『市史』第9巻、825頁)



 上の『市史』の記述は、気仙茶の特徴を簡潔に記していると思います。
1)栽培農家は、小友町、赤崎町(現・大船渡市)を中心に500戸もあり、栽培面積は5ヘクタール程度であったこと(年代は不明だが、執筆時点か?)、
2)気仙茶が、「自家消費用」だけではなく、「贈答用」としても使われていたこと、
3)気仙茶は、「茶樹の7割以上が在来種」、「気候風土によく適しているので、樹勢が強く、害虫におかされることもなく、無農薬栽培が可能」で「肥料も鶏ふんなどを使用する有機栽培」であること、
4) 検地帳によれば、寛永年間には、小友町や米崎町の寺社や屋敷まわりで茶栽培が行われており、気仙茶のルーツは、少なくとも寛永年間にまで遡れること、
5) 畦畔茶園は、藩政期の農政の影響を受けた名残りであること、
です。



近世村落研究会編『仙台藩農政の研究』日本学術振興会、1958年
 「仙台藩では田畑の生産力の算定を石高によらず貫文を用いたから、藩士の知行も貫文で与えられた。一貫文とは、籾二〇石の生産力のある田畑で、その面積は田畑の差、地力の豊瘠によって相違があったが、藩ではこれを五段階に区分して格付けをした。」(p.21)
 「寛永検地帳は、田畠を一筆ごとに記載して、名請人ごとに集計した名寄帳方式をとり、一筆の記載のし方はたてに上から、場所、田畠区別、たて横間数、町反畝歩、貫文となっている。田畑及び茶畑、屋敷はこれまでの上中下三段の区別から、上々、上、中、下、下々の五段の格付けに変り、一間の長さは、六寸三寸、一反歩は三百歩で、文禄検地における三百六十歩一反の制度を、天正検地の旧態に復帰した。貫文の極付は一反歩につき上々田 百七十文、上田 百五十文、中田 百三十文、下田 百六十文、下々田 八十文、畑は、上々畑 八十文、上畑 六十文、中畑 四十文、下畑 二十文、下々畑 十文、茶畑は非常に極付が高く、上々茶畑 五百文、上茶畑 四百五十文、中茶畑 四百文、下茶畑 三百文、下々茶畑 二百文であった。」(p.57) 
 
野村岩夫『仙台藩農業史研究』無一文館、1932年
 上の著書は、戦前期に出版された、仙台藩農政史の代表的な文献です。
 「徳川幕府は、米作の勧奨に最も重きを置き、煙草、桑等の特用農産物は田租、その他の関係上、その栽培に大なる制限を加え、令を下す事 前後数回に及んでいるのであるが、【仙台-引用者】藩の執政は毎回、『這は祖君の違法にして、且領内大小の河川あり、沿岸不毛の宏土に植るに、桑樹に換ゆるものなし、之を禁止するに於ては、沿岸の百姓息ふに道なし』と栽桑を事とした。併し本田に栽植する事は之を許さず、主として荒蕉地、山野の新開地、河川沿岸の水害地、其の他後家中の屋敷廻、土手等に栽植を勧め、畑地に於ては畑作に支障なき所は栽植を許して居た。・・・・
 『漆、桑、楮、茶は是は日用之益木なり、畑懸りにても障りに不成所は可植事、元来畑なる處へ桑を植る程の益木は無之古来の御法にて、云々・・・。』(金石方袖秘解)」(112〜113頁)。
 
 上の引用文は、『仙台藩農業史研究』の「宮城懸下に於ける立通桑園の発生起因」という章の中にあり、直接的には桑に関する話がメインですが、桑栽培と茶栽培とは密接な関係があるので、引用しました。
 ※近年、歴史学の分野では、徳川時代の「田畑勝手作の禁」の見直しに関する研究が進んでいるようです。本城正徳『近世幕府農政史の研究―「田畑勝手作の禁」の再検証を起点に』(大阪大学出版会、2012年)を参照。


 話を戻すと、この『仙台藩農業史研究』の中では、宮城県収税部「仙台藩租税要略」(明治21年)からの引用が多数なされているので、まずは基礎的知識獲得のために、転載します。
 「田を上々田、上田、中田、下田、下々田の五等に分ち、畠又之に同じく、別に茶畑なるものあり、是又五等に分つ、而て其の村高を称する、単に貫高を用ゆるの慣例にして、当初之を定むるや、専ら地味の沃否に由る、故に其高同じと雖も、地積は則廣狭一ならず、其例を挙ぐれば、上々田は五反八畝二十五歩を以て壱貫文に当て、下々田は壱町二反五畝歩を以て一貫文に当つ、而て五等を平均すれば、壱貫文八反三畝二十歩に当る、其三畝以下を切り捨て、壱貫文八反歩並の唱あり。土地丈量の竿は、耕宅地共に六尺三寸を一歩となす。」(「仙台藩租税要略 壱」1頁、)




岩手県編『岩手県農業史』(森嘉兵衛監修、1979年)、第5章「工芸作物」・第3節「嗜好料作物」・第3項「茶」の記述

 「・・・本県では、1700年代に気仙郡浜田村神田(現陸前高田市米崎町神田)の村上林之助が伊勢参宮の際に山城国宇治より種子を持ち帰って神田中神田地内の開墾田の周囲に播種したと伝えられ【注:永代記文箱在中古文書 米崎町吉田隆所有】、この茶樹が現在も畑の周囲に100m余り残っている。また、南部藩では、南部信直公が慶長年間に三戸から盛岡に居城を移したとき、茶園を設置した記録があり、その場所は現在でも盛岡市内に茶畑という地名で残っている【注:南部叢書 第1巻 南部叢書刊行会 昭和2年】。
 県内における茶樹の分布は、太平洋側としては本邦の最北限と考えられるが、岩手県植物誌によると、山田町田ノ浜・大槌町三陸町・陸前高田市・同市広田・平泉町などに栽培され、盛岡市では寒さのために生育は思わしくないが、樹下で保護されて育つことがあると記されている。
 明治19年の栽培状況は、総面積は14町5反で、その主なる産地は稗貫郡気仙郡・東和賀郡(現在の東和町)である。
 第11表 明治19年 茶樹栽培状況

県統計書

 製茶戸数は113戸、製茶量2034貫で、その内訳は玉露が59貫、煎茶1,127貫、番茶884貫である。気仙茶については、現陸前高田市脇ノ沢港から仙台方面に出荷したと伝えられている【注:日本茶の生産と流通 大越篤 明文書房 昭和49年】。
 茶樹の栽培面積は、大正に入り増加し、大正7年(1918)には20町歩でこのうち、16.8町歩が気仙郡となっている。
 第12表 大正7年 茶樹栽培状況 (県統計書)

 しかしながら、かつて本県の産地であった稗貫郡や和賀郡の両郡には作付がみられなくなった。これは、茶樹が寒さに弱く、内陸部の作物としては適していないこと、並びに大正期になって交通が発達し、良質安価な他県産品が豊富に出回るようになったためと考えられる。
 昭和に入って、その作付は更に減少し、8年には、第13表のとおりで、11.4町歩となった。
 第13表 昭和8年 茶樹栽培状況 (県統計書)

 戦後、県は農林省茶業試験場産の優良品種の苗を希望者に配布することとし、毎年市町村から希望をとりまとめ、これを配布したが、その数量は昭和40年までに約5万本で、10a当たり2千本とすると約2.5haに及んだことになり、この他、在来種の実生によって増反された圃場もかなりみられるようになった。
 昭和29年には、県が気仙地方の茶の振興を図るため、県立農業試験場南部試験地に製茶施設を設置し、農家の手摘茶を委託加工した。その結果、農民の茶に対する関心が急激に高まり、従来放任していた茶園(気仙郡下15ha)の肥培管理を行うようになり、その生産は著しく上昇した。
 昭和33年新たに委託加工施設として、陸前高田市農協小友製茶工場が、34年には、大船渡市農協赤崎製茶工場が設置され年間20トンを加工し(第14表参照)、製品は農家の自家用とするとともに、学校給食や贈答用等に用いられるようになり、一部は茶商に販売するようになった。
 第14表 昭和50年 製茶状況

県業務統計
」(979〜980頁)


 ちなみに、農林水産省の統計によれば、昭和50年(1975年)の岩手県の「荒茶生産量」は4トンです。上の「県業務統計」の20トンとだいぶ差があります。20トンは生葉の投入量なのでしようか。



[追記:2014年12月26日]
大越篤『日本茶の生産と流通』明文書房、1974年
 著者の大越氏は、岩手県一関市生まれ、東北農業試験場に勤務する農林技官の方です。
 「第2章 わが国における茶業の現状」「第3節 経営的立地条件」に「1.茶栽培の北限」の項目があり、陸前高田市の茶栽培について言及されています。
  「太平洋側では、盛岡市の東南郊に2株の茶樹があり、200年以上の樹齢であることが確認されている。岩手県の海岸部は海洋性気象の影響で内陸部よりも温暖であるが、茶樹の分布は明らかではない。しかし、東北地方には各地に茶栽培の事跡が残されている。これらは今日いうところの産地形成がされていた訳ではなく、生産量も少なかった。栽培の歴史を遡ってみると江戸時代中期以降であり、その消費は漸く庶民層の一部に普及しつつあった『茶の湯』や薬用に使用されたようである。茶樹の移入と栽培には各地の寺院がもっとも積極的であり、経済的に優位にあった武士や富裕町人層でも屋敷内で栽培を試みていたが、農業生産の担い手である農家による栽培ではなかった。
 こうした事情の中にあって、幕末から明治初期にかけて茶産地として近隣に名を知られ、現在なお小規模ながら茶産地として余命を保っている事例もある。それは岩手県南部の沿岸に位置する陸前高田市であり、同市米崎町を中心にして周辺町村で約13haの茶園がある。製茶工場も2工場設置され、農協直営で製茶が行われているが、現在では自給の域を出ない。この地方で茶栽培がもっともさかんであったのは明治初年であり、当時この地方の茶園は60haに達したと伝えられる。主な出荷先は仙台であり、海路舟便によって出荷されていたが、明治22年[1889年]の東北本線開通に伴って関東・東海地方の産物が鉄道輸送によって東北各地に流入するようになった結果、静岡茶および狭山茶が大量に移入されたことで大きな打撃を受け、しだいに衰退をたどったのである。現在の栽培状況は、周囲茶園が大部分で傾斜畑の境界や農道に沿って栽培されている。
 同様の例は宮城県桃生郡の河北町桃生町にも見られ、同県下の製茶工場3工場はこの地区にある。ここでも少数農家が仕上茶を製造しているが、多くは自給用としての生産であり、経営内部で生産部門として確立している例は少ない。」(32-33頁)



 岩手県統計書』各年版
 明治期から第二次世界大戦前までの岩手県の郡別の製茶生産量と製茶戸数の表を作成してみました。

 製茶生産量も製茶戸数も、ほとんどが気仙郡であることがわかります。

※転記ミス・入力ミスがあるかもしれませんので、ご注意を。転載はご遠慮ください。




 今回、地元の方に案内していただき、「これぞ気仙茶!」という在来種の畦畔茶園を訪問することができました。徳川時代の畦畔茶園の風景は、こんな感じだったのでしょうか。
 写真の左のほうまでずっと続いています。
 幸運にも、畑の持ち主の方のお話を伺うことができました。
 『陸前高田市史』に記されている製法の話も。

 キツネ?と思われる小動物にも遭遇しました(笑)。


 移動疲れでヘロヘロなので、続きはまた今度。


<<追記(2013年1月10日)>>
 (1)以前のブログ記事「明治10年の茶生産量」の記事を更新しました。こちらです。

 (2) 明治期から昭和初期の岩手県気仙郡の製茶生産量、製茶戸数、茶栽培面積のグラフを更新しました。
 冬休みを利用して、大学の図書館にこもって、マイクロフィルムのリールを回してはプリントアウトをするという地味な作業をしました。
 だいぶ形になってきました。もう少しで完成です。
 以下の出所は、戦前については『明治年間府県統計書集成』雄松堂フィルム出版、Reel No.31〜38(岩手県)、『大正・昭和年間府県統計書集成』雄松堂フィルム出版、Reel No.36-50。
 「政府統計からみた気仙茶の特徴とは何か」
 「宮城県の茶業にはない気仙茶の魅力は何か」。
 これが目下のテーマです。
 作業を進めるにあたっての仮説は、
1)気仙地域の「貧しさ」を描き出すのではなく、「豊穣」、等身大の「複合的生業」の姿を描き出す、
2)「気仙地域は、徳川・明治・大正・昭和・平成と、お茶づくりをやめないで続けてきた」、
3)もしそうだとしたら、「それは何故か」
です。

<<追記(2013年3月3日)>>
 記事の後半部分を大幅に書き改めました。


 岩手県において、全国統一様式にもとづく農産物統計が作成されるのは、『明治16年 岩手県統計書』からですので、それ以前の岩手県の茶の生産動向を把握するためには、各種の史料にあたらなければなりません。
 代表的な史料は、『全国農産表』と『興業意見』です。

明治9年〜12年の「全国農産表」を用いた宮城県岩手県の茶生産量の推計


 明治10年の宮城県、特に名取郡の製茶生産量の大きすぎる数値については、以前、ブログで問題にしたことがありますので、そちらを参照してください。


農商務省『興業意見』
 下の表のように、農商務省『興業意見 巻13』によれば、1882年(明治15年)の岩手県の茶畑の面積は12町程度でした。

(出所) 大蔵省編纂『明治前期財政経済史料集成』第18巻の2、明治文献資料刊行会、1964年、p.580より作成。

 同上書に記載されている宮城・岩手両県の明治10年から15年までの製茶生産量は、下記のとおりです。

(出所)大蔵省編纂『明治前期財政経済史料集成』第18巻の2、明治文献資料刊行会、1964年、p.700、p.736より作成。

 まず、『興業意見』の明治10年の宮城県の数値(95,973斤)が、『全国農産表』の明治10年の宮城県の数値(959,730斤)と比べると、十分の一になっていることに注目してほしいです。
 また、1882年(明治15年)の製茶の生産量は、岩手県が5,765斤、宮城県が90,794斤。当時、岩手県宮城県とでは、生産量に16倍近くのひらきがありました。
 『興業意見』にもあるように、宮城県は、殖産興業政策の一環として、茶業の奨励に力を注いだ県の一つです。

岩手県統計書』


 1870年代は、『全国農産表』のデータで補います。岩手県の製茶生産量は、1878年の1.8トンから1888年の10トンまで急激かつ大幅に増大します。後に見るように、この時期、1町あたりの生産量も大きいですし、栽培面積の内訳をみると「園圃」がほとんどです。
 この時期、岩手県でも、なんらかの茶業奨励政策が存在したと考えられます。
 その後は急激に減少し、1895年には製茶生産量は1.8トンまで落ち込んでしまいます。(追記:大越篤『日本茶の生産と流通』は、「明治22年(1889年)の東北本線開通による静岡茶狭山茶の流入」に原因をもとめているように読めます。)


 

 岩手県全体の茶の栽培面積をみると、1880年代までは、「園圃」の形態での茶栽培が主流です。「見積」の数値が、おおむね、畦畔茶園に該当すると思われますが、この時期、畦畔茶園はごくわずかです。
 80年代の生産量の増大は、園圃によってもたらされていることがわかります。
 森嘉兵衛『明治前期 岩手県農業発達史』、県『岩手県農業史』、『陸前高田市史』でも指摘されていませんが、この時期、茶園の開墾奨励など、桑栽培と同様、なんらかの茶業奨励政策が存在したと考えられます。


 1890年代初め頃から、畦畔茶園の形態が増大し、1900年代後年頃まで増大します。1町歩あたりの生産量は停滞しています。
 1900年代後半以降は、畦畔茶園の面積は減少傾向を示し、1930年代には10町歩程度まで落ち込みます。
 このように、茶の栽培面積は減少し畦畔茶園も減少していきますが、生産量や製造戸数は増加します。

 農家のうち製茶を行っている戸数は、1920年頃まで増加傾向にあります。第一次大戦期には、2000戸を超えています。その後は、1000〜1500戸程度で推移しています。
 岩手県の茶の製造戸数のほとんどは気仙郡の農家ですから、一地域単独でのこの製造戸数の多さは、注目されて良いと思います。『岩手県統計書』によれば、気仙郡は、農家戸数も耕作戸数も7000戸程度ですから、ざっと2割ぐらいの農家が畦畔茶園をもっていたと言えます。

 このあたりが「政府統計から見た気仙茶の魅力」の一つなのかもしれませんね。

 製造戸数1戸あたりの生産量を計算してみると、たったの3キロくらいですので(経済史的にみると、悲しいくらいに小さな数字なのですが....)、ほとんどが自家用だったと思われます。

 畦畔茶園でのお茶づくりを続けている気仙郡

 今から100年前、気仙地域のいたるところで畦畔茶園が広がっていたことが想像できます。


 地域別の生産量をみると、1870年代から80年代までは、気仙郡のほかに、稗貫郡、胆沢郡、東磐井郡西磐井郡、和賀郡で生産が行われています。70年代では、東磐井郡のほうが、気仙郡よりも製茶生産量は多い。
 栽培面積をみると、1986年(明治19年)には、稗貫郡4町歩、気仙郡2.5町歩、和賀郡2町歩、東磐井郡2町歩の専用茶園が、1890年では、和賀郡に4町歩の専用茶園がみえています。
 1890年代に入ると、気仙郡以外の地域では茶栽培・生産は減少します。
 
 気仙郡においては、明治前期、栽培面積は3〜4町と少なかったのですが、製茶生産量は、1878年(明治11年)の0.6トンから順調に生産量を伸ばし、1888年(明治21年)には7トンまで増大しています。製造戸数も、1883年の27戸から89年の193戸まで増大しています。
 90年代の郡別のデータは得られませんが、1900年(明治33年)ころから気仙郡の畦畔茶園の面積が徐々に増大しています。

 内陸部で茶栽培が行われなくなっていったのはなぜでしょうか。『岩手県農業史』では、「茶樹が寒さに弱く、内陸部の作物としては適していないこと」と指摘しています。
 このことに関連して、桑栽培との関連があるのではないかと考えます。岩手県全体でみると、桑栽培の面積は、1885年(明治18年)の544町歩から、88年には1,196町歩に倍増し、さらに90年に2,194町歩、95年には3,115町歩に拡大していきます(岩手県蚕糸振興協議会『岩手県蚕糸史』1980年、365頁)。
 『岩手県統計書』により郡別にみると、東磐井郡は、1890年当時すでに桑の栽培面積が1000町歩を超え、県内有数の養蚕地帯になっていますし、稗貫郡では、23町歩(1889年)から102町歩(1899年)に、和賀郡でも、19町歩(同上)から175町歩(同上)に増えています。これらの地域は、気象条件の厳しさとも相まって、茶栽培よりも桑栽培のほうを選択したのではないでしょうか。1886年(明治19年)以降、県内各地に蚕糸組合が結成されています。
1890年代については『府県統計書』の郡別データが欠落しているので、詳細は不明です。
1900年代になると、岩手県全体の製茶生産量に占める気仙郡の割合は、8割から9割で推移しています。


 気仙郡においても、桑園栽培面積は、1900年代に入ると、急速に増えていきます。
 気仙郡における茶と桑の栽培面積は、下の表のとおりです。

(出所)『岩手県統計書』各年版.
 気仙郡は、藩政時代から、高品質の生糸を産出する蚕業地帯でしたが(『岩手県蚕糸史』75頁)、1900年代以降、専用の桑畑も畦畔の桑園も増大していく様子がみてとれます。
 明治40年代になると、市町村別の詳細な蚕業統計が整備されますので、それを用いて気仙郡桑園面積を村別にみると、世田米村239町、気仙村80町、矢作村80町、上有住村67町、日頃市村50町、下有住村40町、猪川村39町、米崎村38町、立根村36町と続いています。
 気仙郡において、茶園の栽培面積が伸び悩み減少していく要因は、桑園の拡大のほかに、梨園やリンゴ園の拡大です。


明治10(1877)年の気仙郡の産業構造
 明治10年の『全国農産表』を用いて、当時の気仙郡の産業構造を推定してみました。

 
 全生産額に占める割合をみると、普通農産物の割合が3割、特有農産物が6割、海産物が1割弱で、特有農産物の割合が高い。
 普通農産物と特有農産物とを合計して、全農産物価額に占める割合をみても、前者が34%で、後者が66%であり、特有農産物の割合が圧倒的に高い。
 特有農産物のうち大部分を占めている品目は、繭や生糸です。繭と生糸は、全生産額に占める割合をみても、全体の6割を占めています。
 気仙郡は、1870年代後半、養蚕を主軸とする産業構造を有していたと言えます。
 当時の養蚕業は、山桑や、畦畔に植えた桑を活用する素朴なものでした。。



 明治のいつ頃かは判別できませんが、気仙郡の茶生産者の中には、販売目的で出荷していた生産者がいたようです。『岩手県農業史』では、大越篤『日本茶の生産と流通』(1974年)の記述に依拠して、「気仙茶については、現陸前高田市の脇の沢港から仙台方面に出荷したと伝えられている」(979頁)と指摘されています。また、気仙茶の荷送状に押した印章(熊谷丈一氏所蔵)の図を掲載しています(980頁)。印章には、「仙台大町 御茶所 亀谷万吉」と書かれています。
 「脇の沢港から仙台方面に出荷」とは、明治末期に設立された三陸汽船のことを指しているのでしょうか?



 1878年から2006年までの約130年間の岩手県の茶栽培面積と製茶生産量をつなげてみると、以下のようになります。


(注)生産量は自家消費用も含む。

 戦後、1954年の県による製茶施設の設置、58年の陸前高田市農協による製茶工場の設置、59年の大船渡市農協による製茶工場の設置、および「約5万本」の「農林省茶業試験場産の優良品種」※(『岩手県農業史』)の苗木の配布等の奨励政策により、畦畔で栽培する農家が増え、1950年代末から60年代前半に、茶の栽培面積は14町程度まで拡大しました。荒茶生産量は、50年代の2トン強から60年代に5トンに増えました。1町あたりの生産量も、戦前の水準を上回ります。

 しかし、その後は、栽培面積も生産量も増大しませんでした。
 製茶工場設置後も、気仙地域のお茶は、自家用茶のままであり続けたからでしょう。
※「優良品種」とは、地元の生産者への聞取りにもとづけば、「やぶきた」のようです。


 栽培面積も生産量も減少の一途をたどっていたにもかかわらず、陸前高田市農協は、「北限の茶」の特産品化を目指して、県の補助金を活用し、新鋭の製茶工場の設置を計画します。1993年には米崎町の新型FA製茶工場が稼働開始しましたが、それによる生産拡大効果は小さかったと言わざるを得ません。1990年代末以降、栽培面積も荒茶生産量も、稼働以前と比べて、むしろ減少しており、投資効果はほとんどみられません。
 経済学的には、つまり商品作物の生産拡大という観点からは、県の補助金を活用して行われた製茶工場への投資は、生産拡大への「呼び水」とはなりませんでした。
 その理由を推測してみると、「北限の茶」を特産品にしたいと熱望する、農協以外の主体(生産や販売の担い手)が欠如していたからではないでしょうか。担い手づくりが取り組むべき課題だったのではないでしょうか。現時点では、私はこのように考えています。


 農林水産省の統計によれば、岩手県(ほとんど気仙郡)で栽培されている品種は、3割が「やぶきた」で、残り7割が「在来種」(実生在来)です。畦畔茶園で実生在来を栽培してきた結果が現れていると思います。宮城県と比べると、大きな違いです。 

(出所)農林水産省生産局特産振興課「緑茶の優良品種園及び在来品種園面積」(『特産農作物の生産実績』) 
 

宮城県の動向と比べてみましょう。

(注)生産量は自家消費用も含む。
 宮城県の主産地は、河北町桃生町で、どちらも現在の石巻市です。


 岩手県宮城県とで、生産量の趨勢を比較してみます。

 目盛が10倍ちがうことに注意して、趨勢だけをみてください。
 宮城県において、製茶生産量は、1890年代前半に110トンにまで増大しますが、1900年代中頃には、その半分以下の30トン程度にまで急速に減少します。その後20年代も20トン程度で推移します。


 宮城県に「勝てそう」な統計をやっと見つけました(笑)。




 『農林省統計表』は、1940年代〜50年代の、県ごとの製茶場の類型と数を伝えています。
 岩手県の製茶場の類型と数

(出所)農林省統計表

 戦前、岩手県において、「原料生葉を主として購入したる製茶場」が存在したことがわかります。1940年以前については統計項目がないため不明ですが、農家から生葉を購入して製茶する経営体が少なからず存在したことを物語っています(ただし、それによる荒茶生産量は少ない)。『陸前高田市史』でも「営業として生産する家もかつては少なくなかった」と指摘しています(5巻、117ページ)。
 「機械製茶場」とは、「茶葉の蒸熱より乾燥に至る製造の全行程を機械化せる」(『農林省統計表』昭和19年版)製茶場ですが、岩手県においては、1957年に初めて1件登場し、59年に2件となります。いずれも「農協経営」による委託加工用の共同工場です。


 宮城県の製茶場の類型と数

(出所)農林省統計表

 宮城県においては、戦前においても、20件以上の「機械製茶場」が存在し、量産していたことがわかります。1949年に12件に減少し、54年には2件に減少します。


 


 ◆一橋大学経済研究所・日本経済統計文献センター『明治期府県の総括統計書解題―『勧業年表』によるデータベース編成事業報告書(1)』
 同書において、「府県統計書様式」と「農商務通信規則附録書式」との比較が行われていますので、抜粋します。<栽培面積について>
「府県統計書様式(明治17年[1884年])」

「農商務通信規則附録書式(明治16年[1883年])」

「茶園は新開旧地に拘らす蒔付初年より起算すへし  園圃の周囲或は園内等に茶樹を栽培し其間に他の作物をなすものは茶畦の長さを測り畦間6尺の割合を以て段別に改算すへし 但し段別を求め難きものは段別罫巾を区別して株数を記すへし 自生の茶樹ある地に於て刈園焼園にて茶園とせしものは其茶樹の発生自然粗密あれは樹の大小に応し株数を以て(大は1歩に付4株乃至6株 小は8株乃至10株)見積段別を定むへし。」


「農商務通信事項統計様式(明治22年[1889年])」

「見積欄内には園圃の周囲又は邸地等に栽培せる茶樹の株数(株蒔なれは)若くは列数(畦蒔なれは)を以て近傍茶畑の株数列数に比準し段別に改算して記入すへし」<生産量・生産金額・製茶家について>
「府県統計書様式(明治17年)」

「農商務通信規則附録書式(明治16年[1883年])」


「農商務通信事項様式(明治19年[1886年])」

(続く)

 長期にわたる経済統計を整備するためには、上記のような、「凡例」を比べる作業は、とても地味ですが大切な作業です。
 茶や生糸は、日本資本主義の代表的な輸出品ですから、尚更です。
 近年、本格的研究が進みつつある「日本の産業革命と地域経済」の分野を深掘りする意味でも重要です。
 もちろん、震災後の被災地の「地元学」を復興させるためにも大切な作業だと思います。

<<気仙茶関連の以前のブログ記事>>
「明治10年の茶生産量」
『絵図に見る藩政時代の気仙』