陸前高田合宿 (7) 鎮魂

 2月9日(土)、朝、仮設住宅や漁港に行く前に、陸前高田市が設置した震災の追悼施設に行き、ゼミ生全員で黙祷と献花をしました。







 この場所に立って あたりを見渡すと 何が何だか わからなくなってきます。
 
 確かなことは 2月8日時点で、陸前高田市民のうち
震災で亡くなられた方が1557人
いまだに行方不明の方が217人
そのうち死亡届の受理件数が208件
だということ

 そして

 私たちが いま 言えることは、

 「忘れません」

 ただ それだけ






 今回の合宿で、私たちのために、震災の時のことを語ってくださった方がいらっしゃいました。
 聞いた者の責任として、ここに書き記したいと思います。

 
 ◇Sさん(80代・男性)
 「僕のお母さん[奥様]はほんとにきれいだったよ。
 僕が惚れたんだ。」
 ほんのりと、笑いながら、話はじめてくれました。


 「震災の起きたあの日、僕はお母さんと一緒に、こうやって手を握って、津波から逃げてたんだ」
 私の手をぎゅっと握ってお話をしてくださいました。


 「後ろを向くと、すぐそこまで波が来てた。
 そのすぐ後、僕の肩ぐらいまでの波が来た。
 その時、ぱっとお母さんの手が離れて、そのままお母さんはおらんくなった。
 お母さんが僕のことを助けてくれたと感謝している。」
 手が離れる素振りをしながら、私に話してくれました。


 「お母さんは本当に素敵な人だった。
 美人で器量が良くて。
 あんないい人は他にはおらん。
 孫3人、みんな就職が決まった時、お母さんが『もう、いつ死んでもいいわ』って言ってたんだけど、本当に逝ってしまった。」

(文責:木村・今久保)



 ◇Sさん(70代・女性)
 「震災が起こって、まず安心したのが仮設住宅に入れたこと。
 でも、仮設で暮らすようになってからは、ストレスでめまいがするようになった。
 東京で暮らしている娘が3人いるが、そのことを気遣ってくれて、それは仮設に暮らしていることも原因の1つだと思うが、[ご病気の]お父さんと一緒に暮らしていることも原因ではないかと言った。
 だから、末っ子が迎えに来て、長女のところに2週間ほど滞在した。
 お父さんは次女のところに行った。
 3人で分担して、自分たちのことを見てくれた。
 東京に滞在している間は、『お母さんどこに行きたい?』と聴いてくれて、2日目に、家にいるのも暇だったから、スカイツリーに連れて行ってもらった。
 螺旋状になっていて、車がこんなに小さく見えた。
 (そう言って、スカイツリーの大きさに感動した様子で、指で車の大きさを表してくれた。)
 東京滞在中に、娘が、『お母さん、こっちで暮らしてもいいんだよ』と言ってくれた。
 でも、仮設の友達と踊りの練習をしているから帰ってきた。
 踊りの発表会では賞をもらえた。
 若い時には戦争を体験して、70代になって震災に遭った。
 だから、震災が起きた時は、何で自分にばかりこんなことが起こるのかと思った。」
 微笑みながら話してくれました。
 (人生を変えてしまうような出来事に一度も遭ったことのない私は、何をしてあげたらいいのか、わかりませんでした。泣いている私に、Sさんは、「まだ若いから幸せになってね」と言ってくださいました。「9月にまた来ますんで。また来てください。元気でいてください」と言うと、私の手をずっと握りながら、「あなたは優しいねぇ」と言ってくれました。)
(文責:富田)



 米沢商会の建物。屋上の煙突部分に、津波到達水位を示す看板が設置されています。

 津波の高さは約14メートル。社長さんはこの煙突部分に避難して助かりましたが、市民会館に避難したご家族は津波の犠牲になってしまいました。(『岩手日報』2013年2月8日付)