被災地の僧侶たちの苦悩

 震災から1000日がたちました。

 被災地の方々は、どんな思いでこの日をむかえているのでしょうか。

 進まない土地区画整理事業や大規模な高台造成工事、遅れる住宅着工時期、海岸をおおう巨大防潮堤工事......

 そして、置き去りにされる高齢者や子供たちの日常生活。


 いったい いつになったら、彼ら/彼女らは仮設住宅から出られるのでしょうか。

 テレビや新聞で見聞きするたび、悲しい気持ちになります。


 阪神・淡路大震災からの復興のために、神戸市が実施した震災復興土地区画整理事業の面積(陸前高田市事業面積よりも小さい!)や、事業終了までに要した16年もの歳月を想い起こすたびに、ため息が出てきます。こちら(神戸市のHP)を参照。
 ちなみに、1995年の震災前、神戸市の人口は約150万人でした。


 2011年度に被災地でどんどん進められていった住民「合意」や国・県・市による「決定」は、この国がかつて経験したことのないような、重大な問題性をはらんでいたように思えてなりません。

 これほど大きく深い悲しみや心の傷の存在を、現行法や制度は想定しているのでしょうか。

 一橋大学大学院社会学研究科教授で精神科医でもある宮地尚子氏は、以下のように述べておられます。
 「(被災地に)官僚的な時間感覚や規則を押しつけたり、専門家主導で効率のみを優先するような政策は、当事者にさらなる不安と被コントロール感、無力感をもたらすだけです。」(『トラウマ』岩波新書、2013年、醞ページ)



 「官僚的な時間感覚や規則」や「専門家主導で効率のみを優先するような政策」にもとづいて作られた復興計画が被災者に二次災害をもたらしているのではないでしょうか。




 先日、浄土真宗本願寺派総合研究所の研究員・金沢豊さんを訪ねました。
 
 「陸前高田市広田の『とまり木』での傾聴ボランティア活動について、一度、学生たちに、お話をしてくださいませんか」とお願いをするためでした。
 金沢さんは快諾してくださいました。
 
 帰りがけに、曹洞宗総合研究センターが2011年10月に開催した「東日本大震災をうけて いま私たちに何ができるのかを考えるシンポジウム」の記録集をいただきました。
 
 読み進めていくと、どのページにも、信じられないような大量死に向き合わねばならなくなった僧侶たちの苦悩や、従来の「時間感覚」にたいする僧侶や遺族の違和感が克明につづられていました。


 陸前高田の普門寺の住職・熊谷光洋氏のご報告が掲載されていました。

 僭越ながら、その一部を抜粋させていただきます。



 「お釈迦さまは、『この世は移り変わっていく』と申されましたが、本当にその言葉通りの世界が目の前に広がっておりました。

 毎日、朝早くから訪れる檀信徒の方たちはみな、肉親をなくされた方でした。
 両親を、二人の子どもを、母と娘を、夫をと、それぞれ大切な家族を亡くされています。


 そして、火葬場では、何組もの方が順番を待つという日が続きました。
 あるとき、家族全員をいっぺんに亡くされた娘さんがおいでになり、
『和尚さん、私一人になっちゃった』
と語り掛けてきました。
 そう言われ、私は言葉を失いました。
 私の親友の娘さんで、家族がみんな市内で津波に流され、彼女だけ東京に行っていたために助かりました。
 しばらく経って来た時は、本当になんて言ったらいいのか分からない、そんな状況がありました。


 堤防の警戒に当たり避難の誘導をしていた消防団員、交通整理をしていた警察官、市民の誘導に当たった市役所の職員、家に探しものに来て逃げ遅れた姉、さまざまな方が犠牲になっており、遺された多くの方が、たくさんの悲しみ苦しみの中で毎日を送っていました。
 その残された方々みなの望みは『早く葬儀をしてあげたい』という強い思いでした。
 しかし、
『自分は遺体安置所で家族を発見できたけど、まだ親戚の人は探しているので、私のところだけ先に葬儀はできない』
と、日程を先送りにした方もいらっしゃいました。
 また、避難所生活のため葬儀をする余裕がないという方もいました。
 しかし、誰もが葬儀を望んでおられました。
 そして、ようやく四月に入り、出来る方から順に葬儀を行えるようになりました。
 一人ひとり戒名を授け、多いときは四人の方の葬儀を朝から夕方まで時間を振り分けて行いました。

 四月二八日が震災から数えて四十九日です。
 多くのご寺院で四十九日法要が営まれ、それをマスコミ各社が報道していました。 私はあるお母さんの言葉を聞いて、四十九日法要をするにはまだ時期が早いと感じました。
 その方は、たまたま私が買い物に行っていたお店のお母さんです。
『私、助かったんだよ』
とたずねてきてくれて、
『家族は?』
と聞くと、
『息子がね.....』
というところで言葉が止まり、
『消防で海の方へ見に行って、それから帰ってないんです』と。
続けて
『今一生懸命探しているんですよ。でもどこかで生きているかも』
と言って、ニコッと私の顔を見て笑ったのです。
 その笑顔が本当に悲しくて、でも、このお母さんは息子さんに本当に生きていてほしいと思っているはずです。
 多くの遺体を捜している人たちは、遺体を捜しているのではなく、もしかしたら死んでいないことを確認しようとしているのではないかと感じました。
 まだ亡くなったことを心の中で確認できていないのですから、四十九日の法要をするのはちょっと早いなと自分では思いました。
 他の方々がお話になっているように、七月七日の供養をされていましたが、私はその時点では、そのお母さんの言葉で出来なくなったのかもしれません。


 そして百ヵ日忌を迎えるあたりで、死亡認定が出来るようになりました。
 でも、一年間は絶対葬儀はしないというお父さんがいました。
 息子さんがまだ行方不明の状態で、百ヵ日忌になったけど、一年間は葬儀しないと言われていました。
 この頃には本堂にはまだ三百名を超える身元不明の遺骨があり、この方々はこの段階では、何の供養もされていない、誰からも供養されない、そういう身元不明の方がたです。
 この百ヵ日忌に岩手県宗務所長にお願いして、奉仕をしてくれるようお願いしました。
 また、ちょうど四十九日忌や百ヵ日忌の日は、他の市内のお寺さんも同じように百ヵ日忌法要をしますのでご随喜が頼めないので、県内内陸の青年会の方々にお願いして、十数人の方々がお手伝いに来てくれて、施食法要を行いました。
 これまで何の供養もさしていない、だから最初にまず食を施したい、お水を差し上げたいと思いました。
 百ヵ日では遅かったかもしれません。
 それまできちんと供物は差し上げていましたが、法要として食を施すということをしていなかったので、宗務所長にお願いして午前と午後にわたって二座の施食法要を行いました。
 そのときには午前と午後で約六百名の参列者がありました。

 その中で仙台から、自分の息子さん夫婦が高田で被災したという方がお見えになっていました。
 あるいは北海道からは、まだ行方不明の娘さんを探しているという親御さんいらっしゃいました。
 その時、何度かお寺にお見えになって、
『ここしか娘と接する場所がありません。ここが今では私たちが娘と会う場所になりました』
と話してくださいました。
 この方は二〜三日前にもお寺にお見えになっていました。
 何度かその家族とお話をし、一度だけ読経をして帰られました。」
(曹洞宗総合研究センター 学術大会紀要[第13回]2012年6月、抜刷、pp.99-100)