陸前高田の漁業の未来は (ノート)

 『岩手日報』は、震災後から、「再興への道」という連載をしています。新春、「第16部 岐路に立つ被災地」が始まりました。毎回、とても難しい課題がいくつも提起されています。


 1月6日の記事は、「小規模漁村の危機」。(こちらを参照)
 陸前高田市・小友町の獺(うそ)沢地区で、震災後、漁業の担い手が激減したことが書かれていました。

 見出しには「復旧の陰で衰退拍車」、写真のリード文には「多額の費用をかけて被災した漁港の復旧が進む一方、担い手不足が深刻化」とあります。

 小友町の獺沢地区。2012年2月のゼミ合宿の際、みちのくふる里ネットワークの栗村さんと一緒に、仮設住宅で復興ニュースをポスティングした場所。もう一か所、矢の浦の仮設住宅にも行きました。佐藤さんというお名前がとても多かったことをよく覚えています。うちのゼミにとっては、忘れられないとても大切な場所です。(こちらのブログ記事を参照)


 最近、被災地から発せられるニュースは、「莫大なお金をかけて復興工事をしたのに、人がいなくなる」という類いの話が多いように思います。市民からも、「いずれは、そうなるのでは」という声を聞きます。


 漁業に関しても、専門家や宮城県知事のコメントは、決まって、「過去の単なる復旧ではなく、創造的復興」、「漁港集約化」、そして「漁業権の民間開放」。
 現在進められている漁港復旧工事は膨大な額のムダ投資で、「漁港集約化」しか道はないのでしょうか。
 漁家や漁協によって行われてきた営みを「過去の単なる....」などと、ひとくくりに総括してしまってよいのでしょうか。
 他方でまた、従来の漁家や漁協の営みの延長線上に漁業再生の展望は開けるのでしょうか。
 震災後に進められた養殖業の「協業化」の試みの先には、どのような展望があるのでしょうか。


 年末、大学の図書館にこもって、農林水産省『漁業センサス』とにらめっこをしていました。

 『漁業センサス』は、"漁業の国勢調査"と呼ばれているように、市町村レベルだけではなく、広田・小友・米崎といった漁業地区レベルの詳細なデータを5年ごとに提供してくれます。直近の『漁業センサス』は2008年です。

 以下では、震災前の陸前高田市の自営漁業の経営・生産・就業の動向を地区別に分析し、到達点や課題を整理したいと思います。


1. 漁業経営体の動向 
(1) 経営体数 2008年
 大船渡市と陸前高田市の漁業地区別に、2008年時点の漁業経営体(ほとんど自営漁業)の数とを比べてみます。

 吉浜・越喜来・綾里・赤崎・末崎は大船渡市、広田・小友・米崎・高田・気仙町は陸前高田市です。


 以下、陸前高田市の漁業経営体について詳しく見ます。
(2) 主とする漁業種類 2008年
 陸前高田市の、「主とする漁業種類」別の漁業経営体数は下記のとおりです。

 陸前高田では、漁船漁業は減少し、アワビ・ウニなどの採補、ワカメ・カキなどの養殖業が中心です。


 大船渡市の、「主とする漁業種類」別の経営体数(2008年)は下記のとおりです。

 末崎は、4分の1の経営体が「採貝・採藻」。


(3) 営んだ漁業種類 1978〜2008年
 陸前高田市の漁業経営体が営んだ漁業種類は下記です。
 複数の漁業種類を営んでいる場合には重複して計上されています。 


 地区別にみてみます。<広田>


<気仙>


<小友>


<米崎>

広田地区は、市内で最も漁業経営体数が多いのですが、その半分以上は「採貝・採藻」を主とする零細自営漁業者です。
広田以外の地区の経営体数は、かなり減少しています。
小友地区は、ワカメやカキ養殖を主とする自営漁業者の割合が高く、米崎地区は、カキ養殖が主とする自営漁業者が多い。



(4) 販売金額
 陸前高田市の漁業経営体を販売金額別で見てみます。


 2008年、陸前高田市の489の経営体のうち479(98%)は、個人経営体(自営漁業)です。
そのほかに、会社が2(広田1、気仙1)、漁協経営が3(広田2、気仙1)、共同経営が6(広田2、小友3、高田1)あります。
 市全体の経営体数は、1993年の587、98年の506、2003年の447と減少。08年には479に増加。

 副業的な自営漁業「100万円未満」が大幅増加。
 「300〜500万円未満」が大幅に減少。「500〜1000万円未満」が減少。
 「1000〜2000万円未満」、「2000〜5000万円未満」は、あまり変わらず。

 地区ごとに見てみます。

 広田地区では、経営体数は、1993年の340から2003年の239と大幅に減少。
 2008年に、副業的自営漁業の「100万円未満」の経営体が大幅に増加。「100万円〜300万円未満」は変わらず。
 「300〜500万円未満」が大幅に減少。「500〜1000万円未満」は1993年~2003年に大幅に減少。
 「1000〜2000万円未満」は変わらず。
 「2000〜5000万円未満」は減少。



 小友地区の経営体数は、98年の92から→2008年の78へ減少。
 副業的自営漁業の「100万円未満」、「100万円〜300万円未満」が増加。
 「300〜500万円未満」の大幅減少。「500〜1000万円未満」は1998年~2003年に減少。
 「1000〜2000万円未満」は微増。


 米崎地区の経営体数は、1998年の51から2008年の26に半減。
 「2000〜5000万円未満」の経営体のみ増加。その他の階層は減少。




 気仙地区の経営体数は、1998年の70から2008年の54に減少。
 副業的な自営漁業「100万円未満」は変わらず。「100〜300万円」は2008年に大幅減少。
 「300〜500万円未満」、「500〜1000万円未満」は大幅に減少。
 「1000〜2000万円未満」は増加傾向。
 「2000〜5000万円未満」は、93年〜98年に減少、その後は変わらず。



(5) 自営漁業の後継者の有無
 下の図は、自営漁業の経営体に後継者の有無を聞いたものです(2008年)。( )内の%は、「後継者なし」の割合を示しています。

(注1)後継者とは、「満15歳以上で過去1年間に漁業に従事した者で、将来自営漁業の経営主になる予定の者」。
(注2)高田は、2経営体のうち「後継者なし」が2。


 上の図で、小友、広田地区は、「後継者なし」の経営体が約8割に及んでおり、漁業存続の危機だと言えます。
 しかし、他方で、米崎、気仙地区は、経営体数は少ないですが、「後継者なし」の割合が低く、注目に値します。
 米崎地区では「後継者あり」の割合が41%、気仙地区は32%で、この数字は、岩手県平均の20.2%、全国平均の17.3%と比べると、高いと言えます。


 下の図は、「後継者あり」の自営漁業の割合を時系列で示したものです。

米崎、気仙地区では、「後継者あり」の割合が上昇傾向です。




2. 養殖ワカメの生産動向と歴史
 岩手県は、日本を代表する養殖ワカメの一大産地。
 しかし、近年、担い手の減少や生産縮小が生じています。
  岩手県の養殖ワカメの生産量と生産金額です。天然ワカメについては生産量のみ示しています。

(出所)農林省『漁業・養殖業生産統計年報』各年版より作成.




 陸前高田市においても、ワカメ養殖を営んだとする経営体は、401(1988年)→204(98年)→105(2008年)と、大幅に減少しています。
 10年前の半分、20年前の4分1になってしまいました。


 各地区とも、ワカメ依存度を大きく減らしています。米崎地区では、ごくわずかになってしまいました。


 陸前高田市の養殖ワカメの生産量・生産金額です。

(出所) 『岩手県統計年鑑』各年版、『陸前高田の水産』
 1980年代後半以降、低迷が続いています。1983年の1.1万トンから2009年の3,400トンに減少してしまいました。生産金額も、1988年の14億円から2009年の4.8億円に減少しています。


(出所) 『陸前高田の水産』




 以下、岩手県および気仙郡におけるワカメ養殖の歴史をみてみます。
 まず、ワカメ養殖が本格導入される直前の1958年時点の陸前高田市の漁業の基本構造を見ておきます。
  

(出所)農林省沿岸漁業臨時調査 : 臨時漁業センサス 市町村別統計』1961年.



 次に、『岩手県漁業史』(1984年)より要約します。
 岩手県におけるワカメ養殖は、1949年、越喜来湾で、縄ばしご式施設を海面に設置して、天然種苗を着生させて育成したのが始まりとされている。
 1955年になって、大船渡市末崎町の小松藤蔵氏が、門之浜湾で人口採苗による養殖試験を開始し、56年には宮古市白浜で養殖試験が行われ、続く57年頃より船越湾田の浜、宮古湾高浜等で養殖企業化試験が行われる。58年頃より大船渡方面、赤崎、越喜来で盛んに行われ、ワカメ養殖は、1960、61年頃より県下各地に広まった。陸前高田市では、1955年に米崎町漁協がワカメ養殖の研究を始めている。


 1963年に、沿岸漁業の近代化・生産性の向上を通じて、漁民の生活水準の向上をはかることを目的に「沿岸漁業等振興法(沿振法)」が制定され、「第一次沿岸漁業構造改善事業」が実施された。こうして、つくり育てる漁業の基盤づくりが進められた。

 この沿振法の目的は下記のとおりです。
 「第1条 この法律は、国民経済の成長発展及び社会生活の進歩向上に即応し、沿岸漁業等の生産性の向上、その従事者の福祉の増進その他沿岸漁業等の近代化と合理化に関し必要な施策を講ずることにより、その発展を促進し、あわせて、沿岸漁業等の従事者が他産業従事者と均衡する生活を営むことを期することができることを目途として、その地位の向上を図ることを目的とする。」

 上の沿振法の条文で、「沿岸漁業等の生産性の向上、その従事者の福祉の増進」、「沿岸漁業等の従事者が他産業従事者と均衡する生活を営むことを期することができることを目途として、その地位の向上を図る」という文言がとくに重要だと思います。
 沿岸漁業の従事者の「福祉の増進」、「他産業従事者と均衡する生活を営」めるように「地位向上」させることに主眼が置かれていました。
 ここで、「福祉」という概念は、経済的後進地域の漁村において、漁業の近代化・生産性の向上→生活水準の向上→都市の工業従事者との格差是正といった意味で使われていることに注目したいと思います。
 経済的に遅れていた漁村の「福祉」の増進をはかることについては、自由民主党でも日本社会党でも、大きな意見の対立はなかったと言えます。岩手県山田町出身の鈴木善幸氏(1947年に初当選)が国政で活躍した時代はこのような時代だったと思います。


 
 ※沿振法に先立って1961年に制定された農業基本法でも、ほぼ同様の趣旨のことが前文でうたわれています。「近時、経済の著しい発展に伴なつて農業と他産業との間において生産性及び従事者の生活水準の格差が拡大しつつある。他方、農産物の消費構造にも変化が生じ、また、他産業への労働力の移動の現象が見られる。このような事態に対処して、農業の自然的経済的社会的制約による不利を補正し、農業従事者の自由な意志と創意工夫を尊重しつつ、農業の近代化と合理化を図つて、農業従事者が他の国民各層と均衡する健康で文化的な生活を営むことができるようにすることは、農業及び農業従事者の使命にこたえるゆえんのものであるとともに、公共の福祉を念願するわれら国民の責務に属するものである。ここに、農業の向うべき新たなみちを明らかにし、農業に関する政策の目標を示すため、この法律を制定する。」


 経済的に遅れた農山漁村地域の農林水産業の構造改善=生産性向上。生産性向上を通じた農林水産業従事者の生活水準の向上。都市の工場労働者との格差是正。これらが「福祉」という言葉で表現されています。



 沿振法に話を戻します。第一次沿岸漁業構造改善事業の一環として、ワカメ養殖に必要な、コンクリートブロックによる沖合養殖保全施設への補助が導入され、養殖場の沖合拡大と施設の大規模化が可能になりました。



 1961年から始められた岩手県漁連のワカメ共販実施による価格安定、人口採苗、保苗管理技術の進展等もくわわって、ワカメ養殖は爆発的進展をみせるようになりました。

 沖合養殖保全施設補助の導入経過をみると、
 1963年:大浦、船越湾、越喜来、赤崎の4漁協で372組、
 64年:白浜浦、吉浜、越喜来、赤崎、末崎、広田町、気仙町の7漁協で1,056組、
 65年:重茂、大槌町、白浜、両石、唐丹町、綾里、小友の7漁協で1,541組、
 66年:久慈市、野田ほか7、普代村、米崎町、田野畑浜、浜岩泉浦、吉里吉里、平田ほか1の漁協で1,460組、
の導入がなされ、66年にはほとんど岩手県全体に普及しています(同上、p.713)。

 第一次沿岸漁業構造改善事業の始まる前の1962年には、施設台数713台であったのが、同事業終了の翌年67年には18,454台となり、生産高では、740トン、2,168万円から3万トン、13億円伸びている。(同上、pp.713-714)

 ワカメは、養殖の初期には乾燥品として出荷されていたが、1965年に理研が塩蔵ワカメ(生ワカメを塩蔵水切りして冷凍保存する)「ワカメちゃん」の製造販売を始めた。続いて67年頃から、地元加工業者による「湯通し塩蔵ワカメ」の加工が始まり、消費者の嗜好にマッチしたこの製品は著しい進展をみせる。(同上、p.735)


 広田町におけるワカメ養殖の生産動向

(出所) 広田町漁業協同組合『広田町漁業史』1976年より作成.

 広田町では、1961年にワカメ養殖が開始され、翌年、若布養殖組合が結成。1964年から第一次沿岸養殖漁業構造改善事業が実施。66年から生ワカメの販売が開始(『広田漁業史』pp.731-732)。


 広田町漁協は、1974年度の「沿岸漁業構造改善事業(近代化施設整備事業)」の対象として、国・県の補助を受け、ワカメ加工施設を設置した。
 高品質・統一的規格の加工品の製造、中央市場へのワカメの販路拡張によって、ワカメ価格を安定させることが目的だった。
 この加工場は、冷凍機、貯蔵施設、ボイル加工機械を有していた。
 ワカメ加工の工程は、おおまかには、次のとおり。
 原藻搬入→煮沸釜(90°で30〜40秒煮沸)→冷却タンク(海水冷却)→塩ミキサー(原藻の40%程度、塩を加える)→塩漬タンク(24時間)→脱水槽(24時間)→冷蔵庫に入庫し仮貯蔵(マイナス7〜8°)→随時出庫し芯ぬき作業→出荷。(『広田漁業史』pp.735-736)



 上記のような歩みをへて、ワカメ養殖は、三陸沿岸の地域経済に多大な貢献をもたらしました。
 最大のメリットは、なによりもまず、
 漁民が出稼ぎをしなくても食べていけるようになったこと
でしょう。

 濱田武士氏(東京海洋大学)は、以下のように指摘されています。
 「70年代には従来の生ワカメや干ワカメだけではなく、付加価値対象として湯通し・塩蔵ワカメまでもが漁家により製造されるようになった。その頃、三陸はすでに国内最大のワカメ産地となっていた。ワカメ養殖業は夏に種付けを始め、翌年の春に収穫することから、漁民は冬季に出稼ぎに出かける必要がなくなった。
高度経済成長が終焉する頃には、三陸の漁村部では、冬季に閑散とすることのない状況となり、前浜の漁業に依存して暮らしていけるようになったのである。」
(濱田武士『漁業と震災』みすず書房、2013年、p.23)
 
 高度成長期における陸前高田市の漁業経営体の出稼ぎの状況を見てみます。

(出所)『岩手県統計年鑑』各年版より作成.

 1960年代中頃、陸前高田市の農家では出稼ぎ世帯も出稼ぎ者数はふえていますが、漁家では、出稼ぎの減少が際立っています。出稼ぎ者数は1964年の666人から67年には311人と半分に減少しました。上記の濱田氏の指摘と整合的です。

 年齢層をみると、1964年では、漁業世帯の出稼ぎ者数666人(男性660人、女性6人)のうち、20歳代が341人、51.2%で大半を占め、次いで40歳以上が101名、15.1%、30歳代前半が95名、14.3%、10代が67人、10.1%、30歳代後半が59人、8.9%。
 また、続き柄をみると、世帯主は17.8%、後継ぎが33.5%、その他が48.8%です(『岩手県統計年鑑』1964年版、p.123)。




3. 漁港整備
 濱田氏が指摘しているように、漁民が出稼ぎに行く必要がなくなり、「前浜の漁業に依存して暮らしていけるようになった」インフラ的な背景には、国による漁港整備があります。

 岩手県は111、宮城県には142もの漁港があります。それも、主に地元の漁業者が利用する小規模な第一種漁港が多い。これは、漁業集落の多さに起因しています。1つの漁港あたりの漁業集落数は、全国平均は3.2ですが、宮城県は1.5、岩手県は1.7です。漁村集落ごとに漁港が立地していることがわかります(濱田、同上書、pp.82-83)


 漁港整備は、1950年の「漁港法」制定以降、国の「漁港整備計画」によって進められてきました。
 「養殖業の発展を受けて、三陸沿岸域では小規模漁港の整備も一気に進んだ。船着場や浜がコンクリート建造物である漁港に容姿を変えた。養殖業を拡充するには、養殖物を運搬する漁船・積んだ漁船を受け入れる漁港の発展、すなわち係船、荷役、作業スペースなど漁港の機能・スペックの高度化が欠かせなかったからである。
 漁港数は岩手県宮城県ともに百を超える。たんにそれらの漁港が拡充されただけではなく、より使い勝手がよくなるように、漁港整備計画事業のなかで高度化が図られた。漁港整備は、財政投入に依存した公共事業であったことから、今となってはバラまき行為として非難されているが、三陸における養殖業の発展と漁港の整備・拡張は相互補完的な関係にあった。小さな漁港は『ワカメ漁港』とも呼ばれたという」(濱田武士『漁業と震災』みすず書房、2013年、p.23)
 

 『岩手縣漁港30年史』では以下のように述べられています。「昭和44年 養殖わかめは24,585トンで全国シェア38.%であるが、県内各地区に養殖わかめの技術が浸透し、いわゆる『わかめ漁港』なる言葉が生まれ、どこの地区からも『わかめ漁港』の整備促進をという要望が出て、県でもこれに対応すべく第1種漁港はもちろん第2種漁港でも第3種漁港でもわかめ用の荷揚場等の整備を国にはたらきかけていった」(p.21)。
 養殖業の発展と漁港の整備・拡張は相互補完的な関係にあった。


 1950年代〜1970年代までの陸前高田市において実施された漁港整備事業をピックアップしてみます。

(出所)『岩手縣漁港30年史』1982年、pp.14-30.


 この漁港整備の過程では、岩手県選出の国会議員が活躍します。
 以下は、1950年7月29日に開催された衆議院 第8回国会・水産委員会での鈴木善幸議員の発言です。長部漁港の修築に関する請願が取り上げられています。

「○鈴木(善)委員 まず長部漁港修築に関する請願、第138号につきまして紹介議員として本請願の趣旨を申上げます。請願者は岩手県気仙郡氣仙町長伊藤雄藏君外3名提出でございますが、本請願の要旨は、岩手県気仙郡気仙町の長部港は移出港、漁港、避難港として重要でありましたが、近年漁獲高が飛躍的に増大し、三陸沿岸有数の漁船根拠地陸揚地としての価値を増大し、県内外船も利用しているが、近年拡大した漁業に対し、旧来の漁港施設をもつてしては、漁民の要求を満足させることが不可能になつた上、重なる台風のため、土砂の堆積が湾内を埋め、漁船の出入にも支障をきたしておるのであります。長部港の興廃は気仙町の運命をも決する問題であるから、同港を修築して、地方産業を振興されたいというのであります。」(国会会議録検索システム)


 また、下記は、翌51年9月にとりおこなわれた長部漁港修築事業の起工式における鈴木善幸議員の祝辞です。当時の時代状況や雰囲気をよく表していると思います。
 「産業の合理化による経済の自立こそは講和調印後、吾が国に課せられた当面緊急の命題でありますが、漁村は此の機会にこそ・・・水産業をして原始状態から脱せしめて之を近代産業の水準にまで、その地位を高める為の施策を積極果敢に推し進め、以て時運の要請に応えなければなりません。
 近時漁業の基本施設である漁港の整備についての関心が中央、地方を通じて昂まって来たことは水産業振興の為まことに欣ばしい傾向でありますが、この漁港整備計画を漁村計画にまで飛躍せしむる程の与論喚起を懇願するものであります。
 長部漁港整備計画の現段階に於ける規模と構想は甚だ素朴であり単純ではありますが、近く決定を約束されている総合開発計画の実施と相俟って、長部漁港は県南に於ける海洋開発基地として産業合理化の先駆的役割を果たすだろうことを期待し、且つ、確信するものであります。」(『岩手縣漁港30年史』1982年、p.147)
 「総合開発計画」「県南に於ける海洋開発基地として産業合理化の先駆的役割」というキーワードが登場しています。



 下の画像は1932年(昭和7年)の長部漁港です。出典は『岩手縣漁港30年史』です。


 1980年(昭和55年)の長部漁港です。


明治三陸津波昭和三陸津波チリ地震津波による長部漁港周辺の集落の被害については、明治大学 建築史・建築論研究室「三陸海岸の集落 災害と再生:1896, 1933, 1960」を参照してください。こちらです。

 
 1960年チリ津波地震による長部漁港周辺の浸水状況

(出所)建設省国土地理院チリ地震津波調査報告書−海岸地形とチリ地震津波』1961年.  
※同書によれば、「長部(陸前高田市)は明治29年には波高4.95mで流失27戸、死者42人を出したが、原地復興を計った。昭和8年は3,85m波高の津波で102戸流失倒壊し、死者32人の被害を受けた。波高の低い割合に被害の大きかったのは長部川の低位デルタに集落が立地していたためである。漁港施設との関係を考えて高地移動を行わず、原地に約2mの盛土をして地盤高3.5mを保って、前面及び側面を防浪堤(高さ6.5m)で囲んで、5,364坪へ宅地を造成して86戸を収容することにした(第32図)。チリ地震津波は意外に高く4.6mの波高で来襲し、防浪堤内には道路より浸水し、堤外の低位デルタと埋立地に位置した建物は流失倒壊し、死傷者さえ出す被害を受けた。したがって、長部は三回の津波に三回の被害を受け、その較差の少いことは他に例が少ない。これは湾口の位置と地形、集落立地の地形面に原因している。今後の津波対策は三回の津波エネルギーの伝播を考慮してたてられるべきである。」(津波ディジタルライブラリィ http://tsunami-dl.jp/) 
 チリ津波地震以降の「津波対策は三回の津波エネルギーの伝播を考慮してたてられ」たのでしょうか。


 東日本大震災による長部漁港周辺の浸水状況

(出所) 国土地理院「浸水区域図(10万分の1)」



 漁港整備の話に戻ります。「これでもか、これでもか」と思えるような、数次にわたって毎年のように続けられた防波堤や埋立、浚渫などの漁港整備事業等によって、漁村の景観は激変しました。「漁村」ではなく「漁港村」と呼ぶべきだという研究者もいるほどです。
 今日的な観点から見れば、巨額の財政資金を投じた「公共事業」による「自然破壊」と言われるかもしれません。
 「のどかで美しい漁村に似合わない人工物のかたまり」と感じる方もいるかもしれません。
 しかし、当時は、漁民の所得向上や格差是正、重労働の軽減のために、それを是としていた時代だったのだと思います。
 ワカメ養殖の生産拡大とあいまって、「ワカメ漁港も整備を」という漁業・水産加工・建設業関係者そして行政のかけ声によって、「のどかな」漁村は「近代的な」漁港へと変貌をとげていきました。
 そうすることが、「生業再生」ひいては「地域再生」につながると考えられていたのではないでしょうか。


(出所) 『岩手県漁業史』1984年より作成.


 東日本大震災後、研究者達によって"伝統的慣習が残る半農半漁的な漁村"としてクローズアップされ、そこから"生業的な暮らしを活かした人間本位の復興を"と導き出されることが多い広田地区とて、事情はそれほど変わらなかったのではないでしょうか。
 生業的な暮らしを活かした人間本位の復興というコンセプトには賛同しますが、他方で、広田地区において歴史的に展開されてきた多様な漁業のあり方、例えば、磯根資源の豊かさに根ざす採貝・採藻といった漁業・漁民の姿だけではなく、大正・昭和初期、「大網人(おおあみと)」と呼ばれるような、共同体を越境して活躍する漁民の存在や、まき網漁船団を組織し沖合や遠洋のカツオ・マグロ・イワシを一網打尽に捕獲する企業的漁業(佐大商店や臼井漁業など)、これら企業に雇われる人々、こうした多様な漁業・漁民のカタチの生成・発展・衰退を視野にいれて、広田地区そして陸前高田の漁業・漁民の存在形態をトータルに把握していく必要があるのではないでしょうか。
 そのような作業によって、高度成長期にすすめられたおびただしい数の漁港整備や、1960年チリ地震津波以降の防潮堤整備がもたらした意味が明らかになるのではないかと考えています。
 採貝・採藻漁業+自給的農業の視座から、高度成長期の漁港・防潮堤整備ブームを理解するのは困難ではないでしょうか。


 3.11の教訓。それは、すぐに答えの出せるような簡単な問題ではないと思います。
 「近代文明の災禍」「自然への畏敬の欠如」...。どれももっともな意見ですが、私たちを思考停止に陥らせる恐れはないでしょうか。
 反対論者から「それは価値観の違い」として、議論なしに突っぱねられてしまうのではないでしょうか。
 では、私たちは、どう生きていけばよかったのでしょうか。
 「東北」の人びとは、どうすればよかったのでしょうか。地先の磯根資源に根ざした「自給的」?、「半農半漁」的?※な「里山・里海ライフ」をしていればよかったのでしょうか。
 自らは東京や大阪で大量の電力消費に依存したライフスタイルを謳歌しながら、「東北」の農山漁村には「ディスカバー・ジャパン」や「昔懐かしい、古き良き、のどかな暮らし」、「脱・経済成長」を求めるというようなことに、結果的にはなっていないでしょうか。
 より内在的な検証が必要なのではないでしょうか。


※「半農半漁」(しかも農業が先に登場する)といった村落類型論をベースに陸前高田の特徴をうまく捉えられるのでしょうか。ちなみに、漁業経済史の大家・羽原又吉氏は、「純漁村(浦方)」、「磯付農村たる半農半漁村(地方[ジガタ])」といった使い方をしていました(羽原又吉『日本近代漁業史 [上巻]』岩波書店、1957年、p.5)。




4. チリ地震津波と漁業被害、復旧事業と防潮堤整備
(1) 上述のような漁港整備と養殖業・漁船漁業との相互促進的な発展の有りようは、津波災害の防御に対してどのような影響をもたらしたのでしょうか。
 チリ地震津波(1960年)、十勝沖地震(1967年)などの自然災害に対しても、海岸に防潮堤を張り巡らせることによって防御することを、基本的には、地域の人びとは是認するようになったのではないでしょうか。
 以下、このことについて、気仙地区調査委員会チリ地震記念 三陸津波誌 1960』の記述を手がかりに見ていきます。


(2) チリ地震津波による漁業被害: 新聞報道より<気仙町長部・湊地区>
・1960年5月31日付・岩手日報被災地その後(1)」
「気仙町長部、湊地区は零細漁家や魚加工場の集落だが、両地区で60世帯が全壊流失し928世帯が被害を受けた。県が昭和26年いらい10力年計画で修築してきた長部漁港の岸壁も土砂の流入で約30mにわたって埋まり、イワシ漁船などの接岸が不可能になった。湾内の定置網もノリ網も全滅にひとしく、目の前に広がる。海を頼ってきた同部落零細漁民たちには前途に光明も見出せない状態だ。・・・・・臨海工業都市を目ざす同(陸前高田)市にとって、こんどの被災は大きな衝撃で、あまり被害の大きいことが他に知られると、資本家が思い切った投資をしなくなる、と狭い考えや工場誘致悲観論さえ出ている。昭和30年市制施行いらい恵まれた林産資源や水産資源をバックに、工業都市化にエネルギーを注いできたのだ。」<米崎町>
・1960年6月1日付・岩手日報被災地その後」
「米崎町に入ると、ツメ跡の大きさが一層目立つ。家はなげしのあたりまで水に浸ったアトを残し波打ち際には、流木にまじって約3mもあるノリ網の竹が打ち上げられている。広田湾奥を生活の場とする米崎町沼田、脇の沢勝木田の三部落民は1,500反のノリ網と185台のカキダナとあっては、収穫期にはいる。ワカメやコンブさえも押し流されてしまった。1台当り4万円の資金をかけ、シーズンになると5万円の収入が得られるカキダナだが、タナの設備にかけた元金すらもとりかえす前の全滅ときては泣こうにも涙が出ないといった表情だ。」<小友町>
 同上紙
 「小友町三日市地区は5.lmという高波をかぶり、164戸が全壊流失し全戸数の8割が浸水と云う壊滅的な被害をこうむった。同地区にほとんど家が見当らず、一面砂原と化している。2級国道仙台―八戸線を挾んで土台石だけが並んでいるのを見ると、災害の恐しさがヒシヒシと身にせまる。同地区は一漁家平均30反のノリ網を所有、年間15万から20万円の収入を得るという小漁家の集団だが、頼りのノリ資材も根こそぎ失ったとあっては、収穫期にはほど遠いとは云え、今冬の生活の悲惨さが今から想像できる。『この様に船や網迄が海に持ち去られては津波では助かったが命ち綱を断たれたも同然でどう生きていったら良いものか』と吐息をもらすのも当然だろう。
 漁民がさしあたって望むものは衣食住はもちろんだがなんといっても再生産費となる災害に対する補償金と助成金である。浅海養殖業の従事者は,零細漁民が多く、台風、高潮等の災害にはしばしば泣かされて来た。安定度が低い事業であり生活基盤ももろい階層だけに漁業共済制度は必要なわけだが、掛金が高い点で加入しかねており,今回の災害に漁民たちは漁業共済加入について検討してみる必要があり、合わせて失災融資の範囲拡大、特別立法化の早期適用など根本的な国の施策を待ち望んでいる。」<気仙町長部地区>
・1960年6月2日付・東海新報「災害現地を見る 陸前高田市気仙町(1)」 
 「海辺に近い長部部落は、昭和8年の津波は部落がほとんと全滅し、死者50余人を出したニガイ経験がある。こうした事から誰れ云うともなく『津波だ』と云うきょう声が部落から町へと伝えられ、春眠をむさぼっていた人達をふるい上らせた。この間数分の出来事だった。海より低い所に家がある漁師の老弱や女子どもは高台へと後をもみずに走り上った。漁船に乗っていた男達は沖へ沖へと避難をした。やがて押し寄せた静かな、そして不気味な海水は次第に量を増しどっとあふれてついに140戸、169世帯の漁家は海のモクズと化した。」<小友町>
・1960年6月10日付・岩手日報「あれから半月」 
 「小友町に面する三日市地区は一面砂原と化し、国道両側に建ち並んでいた民家100戸は跡かたもない。辛うじて残った家々も満足なものは1戸もなく、みんな頭をかしげて今にも倒れそうだ。家とカキ、ノリ養殖施設を一瞬に失った漁民たちは二重の苦しみにあえいでいるが、それでも立ちなおりの意欲がひしひしと感じられる。民家の跡にはバラックが建てられ、土砂に埋まった水田では田植もぼつぼつ始まった。」<大船渡市>
・1960年6月4日付・岩手日報「被害地その後 大船渡市」
 「大船渡災害対策本部の最終調査による被害見績は73億3千万円にのぼるが、内訳では、住家のll億8千万円、商品類の24億5千万円、漁業関係6億円などが大きい。大船渡町商店街が壊滅的な打撃を受けたことが数字にはっきり現われているが、漁業関係の被害
もバカにならない。大船渡湾には赤崎、末崎町の漁民がタネをつけた2,500台のカキいかだを浮かばせていたが。そのほとんどが流され壊わされた。200世帯が1戸平均10台内外を持って生業をたてていたが、カキの収入がなくなれば9月のノリ建て込みも出来ず、浅海養殖業者は捨てて陸へ上がらざるを得ないところえ追込まれている。赤崎町の被災者は、たびたび重なる天災で借金が績み重なっていたときだけに、こうなっては資金調達の気力もありません。野菜の傾斜地栽培へでも転換しようかとも考えていますと語った。」

 (出所) 気仙地区調査委員会チリ地震記念 三陸津波誌 1960』1961年(津波ディジタルライブラリィ、http://tsunami-dl.jp/)
 (注)本報告書の著者「気仙地区調査委員会」とは、大船渡教育委員会陸前高田市教育委員会三陸教育委員会、岩教組気仙支部。気仙地区の教員たちによって、「将来の災害防止の立場から、今回の津波の現象と、その後の種々の対策等を科学的に調査研究し、今後の児童生徒の教育上の参考資料を作成する」ことを目的に設置された調査委員会です。教員たちの地域にたいする思い、将来の地域を担う世代に向けた防災教育強化への決意に心から敬意を表したいと思います。
 「気仙地区調査委員会」は、津波ディジタルライブラリィでは、「気仙地区調査委員会」と表記されています。「1960年」という発行年も誤記だと思います。



(3) 被害と復旧・復興事業
 チリ地震津波による陸前高田市大船渡市の漁業被害の状況を漁協別にみてみます。

(注)大船渡水産事務所「チリ地震津波による水産関係被害調査表」にもとづく。本調査は、個人・会社毎に調査表を配布し調査・集計したもの。
(出所) 気仙地区調査委員会チリ地震記念 三陸津波誌 1960』1961年(津波ディジタルライブラリィ、http://tsunami-dl.jp/)

 漁港の被害は、岩手県の『チリ地震津波災害復興誌』(1969年)によれば、陸前高田市が4漁港、1,240万円、大船渡市が5漁港、1,513万円、岩手県全体で77漁港、2.1億円となっています(p.59)。


 チリ地震津波後、漁港施設について、国は、「公共土木施設災害復旧事業国庫負担法」に基づき61件、3.6億円の査定をしましたが、「この査定額では何ら背後の防護ができず、しかも津波常襲地帯である本県の実情からみて全く不十分であったので、この機会をとらえて恒久的津波対策事業の実施について国に強く働きかけた」。
 その結果、1960年、「昭和35年5月のチリ地震津波による被害を受けた地域における津波対策事業に関する特別措置法」が制定され、事業費は29億円となった。
 これを受けて、県は、チリ地震津波対策事業として、防潮堤等の海岸保全施設を整備していきました。
 防潮堤の建設ラッシュの開始です。

 (出所)『岩手縣漁港30年史』p.64より作成。
 

 その後、県は、1963年に海岸保全事業に関する長期計画を策定し、防潮堤の新設延長・改良延長を積極的に推進しました。海岸保全事業費は、1966年に3,770万円でしたが、翌67年には9,520万円に増大し、68年に1.7億円、69年には3.2億円に拡大します。
 その結果、年ごとの防潮堤の新設延長は、67年に1,000mでしたが、71年には3,286mになります。
 1970年代に入って、県は、第一次海岸5か年計画(1970〜74年度、事業費16.8億円)、第二次海岸5か年計画(1975〜80年度、事業費37.1億円)を実施しました(同上、p.38)。


 1960年のチリ地震津波を契機とした、怒涛のような防潮堤建設ラッシュ。その背景には、養殖業の発展、まき網船団の発展、漁港整備、脱・出稼ぎ、他産業との所得格差是正などの経済的・構造的問題が横たわっていたと推察いたします。


(4) 漁港整備・漁業振興・海岸保全の歴史的推移
 戦後から1960年代末までの、陸前高田市における漁港整備や漁業振興の動きをにおける動きを『岩手縣漁港30年史』等からピックアップして年表にまとめると、次のようになります。

 ※※※※※※ 漁港整備・養殖業・津波災害に関する年表 ※※※※※
・1948年、漁港・関連連施設の整備促進のため、官民一体で岩手県漁港協会設立準備委員会が開催。気仙地区からは、越喜来村・末崎村・広田村の各村長が委員に就任。
 1949年、県漁港協会が設立総会。会長に鈴木善幸衆議院議員、常務理事に岩手県水産業会会長・伊藤左十郎氏らが就任。修築漁港の採択に向けた国会請願運動を進める。

・1950年、県漁港協会が浚渫船を建造し、県に寄付。

・1950年、漁港法が制定され、国の漁港整備計画によって、防波堤、係船など漁港整備が実施。
 この頃、気仙町長部地区でまき網経営者や水産加工業者等の有志により「長部漁港振興会」が組織され、行政と共に長部漁港の整備促進を要請。

・1950年、「農林水産業施設災害復旧事業費国庫補助の暫定措置法」が制定

・1951年、「第一次漁港整備計画」で長部漁港が採択され、整備開始。

・1955年、「第二次漁港整備計画」で、長部漁港に加えて、広田漁港が採択され、整備開始
 12月暴風浪台風の襲来

・1956年、「海岸法」の制定

・1959年、岩手県、「海岸法」に基づく海岸保全事業を開始。

・1960年5月、チリ地震津波が襲来。大船渡市、陸前高田市などに大きな被害。
 物的被害が最も大きかったのは大船渡市(県全体の被害額115.1億円のうち41.9億円)、次いで陸前高田市(同25.7億円)。
 政府は「チリ地震津波特別措置法」を制定し、岩手県では陸前高田市大船渡市などを対象地域に指定。これに基づき、沿岸部に防潮堤等を整備していく。
 政府は、「天災による被害農林漁業者等に対する資金の融通に関する暫定措置法の一部を改正する法律」、「漁村における漁民の共同利用に供する特定の漁業施設の設置に関する特別措置法」、「水産業施設の災害復旧事業に関する特別措置法」、「漁業者の共同利用に供する小型の漁船の建造に関する特別措置法」、「漁村における漁民の共同利用に供する特定の漁業施設の設置に関する特別措置法」が制定

 1960年、岩手県、「沿岸漁業振興対策事業補助金交付要綱」を公布(10月)、養殖業への補助。
 12月、岩手県は、共同利用施設にたいして「農林水産業共同利用施設災害復旧事業補助金交付要綱」を、カキ養殖イカダにたいして「水産養殖施設災害復旧事業補助金交付要綱」を、干場・加工施設・倉庫・ワカメ養殖施設設置・定置網や刺網設置等にたいして「チリ地震津波災害に係る漁業部落復興事業補助金交付要綱」を相次いで公布。

・1961年、岩手県、「共同利用小型漁船建造費補助金交付要綱」を公布(1月)

・1961年11月、国のチリ地震津波対策審議会において、チリ地震津波災害対策事業計画が決定。主な内容は、津波対策事業計画の策定基準、津波対策事業計画の事業量、津波防波堤計画。

・1962年、沿岸構造改善事業(経営近代化促進対策事業、漁場改良造成改善事業、大型魚磯設置事業)が開始。

・1963年、「第三次漁港整備計画」で、第二種漁港の長部・広田漁港だけでなく、第一種漁港の六ヶ浦漁港(広田)も採択され、整備開始。

・1963年、「沿岸漁業等振興法(沿振法)」が公布され、これにもとづき、「第一次沿岸漁業構造改善事業」(1962年〜73年)が実施され、養殖業の基盤が整備。

・1964年、岩手県、「沿岸漁業構造改善近代化施設設置費補助金要綱」を公布。
・1964年、広田町で、ワカメ養殖施設など「第一次沿岸漁業構造改善事業」が実施。

・1968年、十勝沖地震

・1969年、第四次漁港整備計画で、長部・広田、六ヶ浦漁港が採択され、整備開始
※※※

 1960年チリ地震津波に際して、政府が制定した各種の特措法の概要は下記の通り。
 a)「天災による被害農林漁業者等に対する資金の融通に関する暫定措置法の一部を改正する法律」は、特に著しい被害を受けた地域の被害漁業者に対する経営資金の貸付限度額に特例を設け、真珠またはカキの養殖資金は50万円、その他の漁業経営資金は20万円とする(通常の貸付限度額は15万円)。
 b) 「水産業施設の災害復旧事業に関する特措法」は、水産業協同組合の所有する共同利用施設の災害復旧について、災害復旧事業費国庫補助の特例を設け、通常の場合は1カ所10万円以上の復旧事業費のものにつき10分の2の国の補助だが、今回は、被害激甚地については、1カ所の復旧事業費を3万円に引き下げ、国の補助率を10分の9に引き上げ、その他の地域については国の補助率を10分の5に引き上げるとともに、被害の大きかった地域におけるカキ、真珠及び真珠貝の養殖施設の災害復旧事業に対し、事業費が3万円以上のものについては10分の9以内の国庫補助をする。
c) 「漁村における漁民の共同利用に供する特定の漁業施設の設置に関する特措法」は、特定の特別被害漁村の全部または一部をその地区内に含む漁業協同組合が、その特別被害漁村内に住んでいる組合員の共同利用に供する水産養殖施設、網、漁具等特定の漁業施設を設置するために必要な経費に対して、都道府県が2分の1補助する場合、国はその同額を補助する。
d) 「漁業者の共同利用に供する小型の漁船の建造に関する特別措置法」は、小型漁船の被害の大きかった都道府県において、組合員の所有経営にかかる小型漁船の被害の大きい漁業協同組合が、これら所有経営する小型漁船が沈没、滅失その他著しい損害を受けた組合員の共同利用に供するために、小型の漁船を建造するにあたって、その経費の3分の2以上を補助する場合、国はその2分の1を補助する。

 これら一連の特措法の制定により、津波による漁業被害の復旧の制度的原形が整備されたと言えると思います。



 まだ仮説の域を出ませんが、
 高度成長期、チリ地震津波を契機に、三陸沿岸地域では、漁港や養殖業関連施設と防潮堤など海岸保全施設とが相互に促進し合いスパイラル(らせん)的に、整備が進められていったのではないか。それはある種の「慣性」(経済学的には「経路依存性」※と言いうる)をもって進行したのではないか
と言えないでしょうか。
(※松本三和夫『テクノサイエンス・リスクと社会学東京大学出版会、2009年、同『構造災:科学技術社会に潜む危機』岩波新書、2012年は、この経路依存性という枠組みを拡張させ、科学と技術と社会の間の界面で起こる災害=「構造災」が発生するメカニズムを分析している。)




 テクノロジー・エンジニアリングやマネジメントの領域では、以下のようにして「防潮堤への過信」が醸成されていきました。
 海岸工学の大家・首藤伸夫氏(東北大学名誉教授)は、インタビューの中でこう語っておられます。聞き手は、日本学士院会員の堀川清司氏(東京大学名誉教授)です。

○堀川:首藤さんは大学卒業後、建設省に入省されて、省内の土木研究所で海岸工学を研究されていましたが、当時から津波の理論や津波による災害、その防ぎ方など工学的なことに関心を持っておられたのでしょう?
首藤:そうですね。建設省土木研究所に行ったのが1960年4月15日で、5月にチリ津波が来ました。・・・その後、チリ津波の緊急特別措置法ができて、対策事業が1967年に終了しました。構造物=防波堤を造ることで始まったんです。その対策事業が終わった直後の1968年に十勝沖地震津波が来て、それがチリ津波より少し小さかったから、構造物がほぼ100%効いたのですね。それでもう、「津波なんてものは、建造物さえ造っていればいいんだ」ということになって。
○堀川:誰がそういうふうに言ったのですか。行政の人?
首藤:いや、それはもう、みんなでしたね。沿岸の人でさえ。お年寄りは「こんなもんじゃだめだ」と言ったけど、若い人は目の前で効果が示されたものですから、「もう構造物さえ造っていればいいんだ」という考えに、あの時、一気になりましたね。
堀川:私はそれが非常に危険だと思いましたね。1959年の伊勢湾台風の時も、立派な海岸堤防ができていたから、「多少の波が来たって…」と油断してほとんどの人が逃げなかった。住民に過信を与えるのは、非常に心配でしたね。
首藤:おっしゃるとおりです。構造物で高潮や津波に対処しようという考え方は1960年以降です。それ以前は国にお金がありませんでしたからね。それまでほとんど横ばいだった国民所得所得倍増計画によって上昇し、構造物が造れるようになったのです。」
(日本学士院 PJA Newsletter ., No.4, 2012 Jan.)


 内閣府の広報「ぼうさい」No.59(2010年9月号)所収の「1960年(昭和35年チリ地震津波」において、中央防災会議・災害教訓の継承に関する専門調査委員会委員の首藤伸夫氏は、「チリ地震津波対策事業終了後、津波は構造物で防げるとの考えが広まる」が、「1993年北海道南西沖地震津波では、・・・構造物だけでは津波は防げない場合のある事を、ここで明確に認識したのであった。」と述べられている。
 しかし、首藤氏によって発せられていた警鐘はいかされませんでした。

 下記の図は、岩手県の漁港関連費(建設・管理・災害復旧等)と海岸保全事業費(防潮堤等)の推移を示しています。

(注) 海岸保全事業費は1958年〜79年のデータ。
(出所) 『岩手縣漁港三十年史』1982年、『岩手県漁業史』1984年より作成。




5. ワカメ養殖その後
 ワカメに話を戻します。
 岩手県の養殖ワカメの平均単価(生産金額÷生産量)です。赤線は、短期的変動をならすための3か年移動平均値を表しています。

(出所) 農林省『漁業・養殖業生産統計年報』各年版より作成.

 2008年に価格が急上昇しているのは、中国産ギョーザへの農薬混入問題、鳴戸産ワカメの産地偽装問題などによって三陸ワカメの入札価格が高騰したことに起因します(西澤一俊監修『新わかめ入門』p.77)。

 ワカメの市場価格は、岩手県宮城県では、基本的には、全漁連の共販制度による入札で決定されます。
 入札会は、岩手県では大船渡宮古宮城県気仙沼(従来は石巻でも行われましたが、2005年から気仙沼の1箇所に統合)で行われ、指定買受人のみが参加できます。
 入札で取引されるのは、生ワカメ、湯通し塩蔵ワカメ(芯付と芯抜き)、干しワカメの3品目で、湯通し塩蔵ワカメ(芯付と芯抜き)と干しワカメは等級分けされて入札にかけられます(同上、p.77)。

(出所) 西澤一俊監修『新わかめ入門』p.78.


 ワカメの流通ルートの概要は下記です。

(出所) 岩手県農林水産部『農産物マーケティングデータブック2009』p.35.


 長谷川勝男・鈴木四郎「養殖ワカメの収穫およぶ塩蔵加工作業調査」2005年(『水工研技報』27号、pp.61-80)によれば、2004年の三陸ワカメ共販の平均単価は、生90円/㎏、塩蔵芯抜き葉体800円/㎏(原藻換算※178円/㎏)、塩蔵芯付き500円/㎏(原藻換算167円/㎏)。
 ※原藻換算係数は、全漁連では、芯抜き葉体品で4.5、芯付き品で3が用いられる。
 加工による付加価値向上は、原藻ベースで、葉体で約2倍、芯付き品で2倍弱、中芯は1倍以下となり、生産者自身が芯抜きをすれば、生での出荷と比べて付加価値は向上し収入も増えるが、作業のほとんどは手作業で労働集約的。それゆえ人件費もかさむ。生産システムの改善・労働生産性の向上が大きな課題となっている(p.64)


 陸前高田市の養殖ワカメの平均単価です。

(出所) 『陸前高田の水産』




 中国や韓国からのワカメの輸入動向を見てみます。
 一般的には、下記のように説明されます。
 ワカメは、1970年代後半は韓国から、80年代中盤以降は中国からの輸入が増加した。1996年以降、日本のワカメ市場のシェアは、中国産、韓国産、日本産の順となっており、ワカメ養殖の産地に大きな影響を与えている(『ポイント整理で学ぶ水産経済』北斗書房、p.55)。

 貿易統計を用いて、もう少し詳細に分析してみると、中国と韓国とでは、また、乾燥ワカメと生ワカメとでは、輸入動向に大きな差異があることがわかります。

 中国・韓国からの輸入量(生原藻換算)、国内生産量(天然と養殖の合計)、国内生産比率(国内生産量÷国内需要量[=国内生産量+輸入量])は、下記のとおりです。

(注1) 輸入量については、食料タイムス社の換算率(塩蔵については歩留まり20%、乾燥については歩留まり4%)で生原藻換算(西澤一俊監修『新わかめ入門』日本食糧新聞社、2010年、p.102)。
(注2) HSコード 121220135, "Wakame (Undaria Pinnatifida), Fresh, Preserved in Normal Temperature, Chilled Or Frozen"、HSコード 121220133, "Wakame (Undaria Pinnatifida), Dried"
(出所) 財務省「貿易統計」、Global Trade Atlas、農水省「漁業・養殖業生産統計年報」各年版より作成.
[作りかけにつき、転載はご遠慮ください]



 生(湯通し塩蔵)ワカメについては、1970年代初めころから韓国からの輸入が始まりますが、やがて下火になり、代わって中国からの輸入が増え始めます。1995年に中国からの輸入量が、韓国からの輸入量を上回っています。しかし、輸入量全体は、1990年代に入ってから、年々減少しています。
 乾燥ワカメについては、1997年に、中国からの輸入量が、韓国からの輸入量を上回り、以降、年々増大しています。
 その結果、国内生産比率は、1975年以降急速に下落し始め、80年代になると50%を下回るようになります。震災前の2010年には17%にまで落ち込んでいます。


 中国への技術移転、現地での養殖、加工、そして日本への輸出を手がけるブレーヤーは、ほかならぬ日本企業の子会社で、「カットワカメ」で有名な理研食品です。
 理研食品は、大船渡をはじめ仙台や多賀城にも工場があり、三陸沿岸の地域経済の発展に大きく寄与してきました。(大船渡工場は東日本大震災で甚大な被害を受けました。)
 他方で、同社は、1990年代末に、中国の大連にも進出し、グローバルな生産分業体制を構築しています。(日本の消費者自身が、手軽で安価なカットワカメや、カットワカメ入りのインスタント食品を好み受容していたこともまた事実です。)


 1995年にマルハ(現マルハニチロホールディングス)との合弁で大連理研瑪魯哈食品有限公司を設立、
 2001年に大連西山理研食品有限公司を設立、
 2007年に理研食品(大連)有限公司を設立、
 2010年に大連理研瑪魯哈食品有限公司を大連理研海藻食品有限公司に社名変更。



6. 漁業就業者の動向
(1) 概況
 漁業就業者数の動向をみます。
 就業者数には、自営漁業も雇われも、両方を含まれています。
 大船渡市全体で1874人(うち男1446人、女428人)、陸前高田市全体で907人(うち男750人、女157人)です。
 下記の図は男子の就業者数をみたものです。
( )内の%は、65歳以上の就業者の割合を示しています。

(注)高田は字がつぶれてしまっていますが、漁業就業者数は9人で、65歳以上が7人。

 上の図で、男子就業者のうち、小友、広田、気仙地区では高齢者比率が45%と高く、確かに漁業存続の危機にあることがわかります。
 しかし、他方で、米崎地区の高齢者比率は28%と、相対的に低いと言えます。
全国平均は、33.7%です。大船渡市では、吉浜と綾里の高齢者比率が低い。
 注目に値すると思います。


(2) 年齢階層別の漁業就業者数 (男子)
 下の表は、1973年〜2008年までの陸前高田市の男子・漁業就業者数の推移を年齢階層別・地区別にみたものです。

 よく知られているように、戦後の男子就業者の人数は、敗戦直後の就業機会がなかった時期に自営漁業に従事した「昭和一桁世代」(1925年〜1934年生)が多数を占めてきました(加瀬和俊編著『わが国水産業の再編と新たな役割』農林統計協会)。
 陸前高田市においても同様の傾向が見てとれます。
 

 陸前高田市の1973年〜2008年までの30年間の就業者数の動向をみると、最も大幅に落ち込んだのは、1988年-93年のマイナス25%です。
 それ以降も、93-98年にマイナス15%、98-2003年にマイナス14%と落ち込んでいます。

 2008年の男子・漁業就業者数は、03年とほぼ同数。
 65歳以上の割合は、03年の40%から08年の45%に上昇。
 働き盛りの40-59歳の割合は、03年の34%から08年の29%に下落。
 若手層の15-39歳の割合は、03年の12%から08年の8%に下落。

 今後公表される2013年の漁業センサスでは、「団塊の世代」も引退年齢にさしかかり、東日本大震災の甚大な被害や廃業の影響もあり、漁業就業者は劇的に減少すると思われます。<広田地区>
 最も大幅に落ち込んだのは、1988年-93年のマイナス25%。
 それ以降も、93-98年にマイナス18%、98-2003年にマイナス17%と落ち込んでいます。03-08年は19%増加しています。
 65歳以上の割合は、08年の45%に上昇しました。
 40-59歳の割合は、03年の34%から08年の29%に下落しました。
 15-39歳の割合は、03年の9%から08年の7%に下落しました。<小友地区>
 小友地区の動向をみると、最も大幅に落ち込んだのは、1988年-93年のマイナス20%。
 それ以降も、93-98年にマイナス10%、98-2003年にマイナス9%と落ち込んでいます。03-08年は7%増加しています。
 65歳以上の割合は、03年の41%から、08年の45%に上昇しました。
 40-59歳の割合は、03年の27%から、08年の35%に上昇し、市平均よりも高い。
 若手層の15-39歳の割合は、03年の16%から、08年の8%に下落しました。<米崎地区>
 米崎地区の動向をみると、1983-88年から減少が始まっています。5年毎に10〜20%減少していることがわかります。03-08年はマイナス22%と大幅に減少しています。
 65歳以上の就業者数は、高齢層の引退が進行したため、03年の29人から08年の15人に減少し、その結果、65歳以上の割合は、03年の42%から08年の28%に下落しました。市内他地区と比べて最も低いです。
 40-59歳の就業者数は、03年の21人から08年の23人に増大し、40-59歳の割合も、03年の30%から08年の43%に上昇しました。市内他地区と比べて最も高いです。
 また、15-39歳の割合も、03年の17%から、08年の19%に上昇しました。<気仙地区>
 気仙地区の動向をみると、1978-83年から減少が始まっています。93-98年はマイナス28%と、大幅に減少しています。それ以降も減少が続き、03年-08年にはマイナス20%となっています。
 65歳以上の就業者の割合は、93年以降上昇し、08年に48%になりました。市内他地区と比べて最も高いです。
 40-59歳の就業者数は、03年の53人から08年の26人に半減し、割合も21%に下落しました。市内他地区と比べて最も低いです。
 また、15-39歳の割合も、08年は6%であり、かなり低いと言えます。




(2) 自営漁業・雇われ別に見る漁業就業者 (男女計)

 陸前高田市全体を見ると、「雇われのみ」の就業者数は、1988年の522人から93年の301人に急速に減少しています。


 気仙地区(長部地区)においては、1970〜80年代、「自営漁業のみ」の就業者よりも「雇われのみ」の就業者数のほうが多かったことがわかります。
 1973年のオイルショック、1977年の200海里体制の定着により、資源多消費型の漁船漁業が経営不振に陥り、「雇われのみ」の就業者数は、次第に減少していきます。とりわけ、1988年→93年以降、急速に減少しています。
 広田・長部漁港に大規模なまき網船団基地が置かれ、同地区にあったまき網漁業会社が廃業してしまうことに起因すると思われます。

(3) 沖合・遠洋漁業の就業者数
 陸前高田市の沖合・遠洋漁業の就業者数(男女)を地区別に見てみます。

 とくに1988-93年には、沖合・遠洋漁業の就業者数は、気仙・広田の両地区で大幅に減少しています。
 まき網漁業会社の廃業が大きく影響していると思われます。


 国勢調査で、陸前高田市の就業構造をみます。


 1970年まで漁業就業者数は増大しています。


7. まき網漁船団
 まき網船団は、陸前高田市の「栄華盛衰」を語る上でも避けて通れないテーマなので、『岩手縣漁港三十年史』から以下引用します。
 「桜前線の北上が漸く岩手に到達する春4月、長部漁港を根拠地にする吾が気仙町旋網船団が、其の真白な船体に大漁旗を掲げ、埠頭には乗組員の家族と地元関係者数百人の見送りを受けて一斉に港を後に出漁する様は、私にとって正に絵巻である。
 汽笛一斉軍艦マーチも勇ましく五色のテープをなびかせて出漁する光景は、本当に気持のいいものである。
 『今年も大漁して来いよー』『身体に気を付けて頑張って来るんだよー』、見送る人皆が心の中で祈り乍ら船影が遠く灯台の沖に見えなくなるまで手を振って見送るのである。
 ・・・・ここ長部漁港に所属する大型旋網船団6ヵ統30隻は、戦前戦後を通じて幾多の変遷を経て今日に至っているが、地域にこの漁業が創められたのは遠く明治年間で、広田湾に回遊する鰯を捕ることから現在の鰹鮪にまで発展した、漁業の中では最も近代化された漁業といっても過言ではなく・・・・。・・・長部漁港の将来を展望するとき、私は是非とも現在の生産中心の基地港から付加価値を高め、雇用機会の増大が図られる水揚港への進展が必要であって、生産、加工、流通に亘るバランスのとれた長部港に一日も早く成ることを希って筆を擱きます。」
(出所) 菅野昌雄(気仙町漁業協同組合)「長部漁港のこと」『岩手縣漁港三十年史』1982年、pp.207-208.
※長部漁港では、1977年からの第六次漁港整備計画で水産加工団地の建設が進められる(『岩手県漁業史』1984年、p.786)



 次に、『陸前高田市史 第9卷(産業編 上)』(1997年)の記述を要約します。

 陸前高田市はかつて、日本を代表する県内最大のカツオ・マグロまき網船団基地として、その地位を誇ってきた。船団は、春から夏にかけてカツオやマグロを追って、青森県から千葉県沖の北部太平洋を操業地域として活躍していた。
 1970年代の後半から末には、市内のまき網漁業会社は10社、11ヵ統を数え、最盛期の水揚げ高は100億円にも達し、市の経済に大きく貢献してきた。
 しかし、1973年、79年の石油危機による重油の値上がり、77年に世界各国が打ち出した二百海里規制の動きは、まき網漁業を苦境に陥れた。
 まき網漁業は、一般的に、網船と魚群探知機船各1隻、運搬船2〜3隻で1ヵ統を形成し、乗組員は1ヵ統に50人が必要とされ、操業コストはもともと高かった。
 1982年には佐大商店、86年に臼井漁業などが廃業し、広田町からまき網船団の姿が消えた。
 日本有数の規模を誇ったまき網船団の基地・長部漁港でも、1984年に中野漁業部が、1982年弥満平漁業が経営不振に陥り、同社を引き継いで設立された勝栄漁業も1987年に廃業。89年には、業界大手の川尻漁業も廃業した。その後、気仙施網漁業も廃業し、最後に残った辻ケ花漁業も92年、ついに廃業に追い込まれた。
 こうして、陸前高田市の経済に大きく寄与してきたまき網船団は市内の漁業から姿を消した。(『陸前高田市史』第9卷、pp.800-802)


 『全国まき網漁業協会 拾年史』(1980年)に所収されている「北部太平洋まき網漁業協同組合連合会名簿」によれば、各社の所在地は下記の通り。
 臼井漁業(株): 広田町字泊
 (代)弥満平漁業(株): 気仙町字福伏 
 川尻漁業(株): 気仙町字古谷
 気仙施網漁業(株): 気仙町字湊
 辻ケ花漁業(株): 気仙町字要谷
 小袖漁業(株): 長内町


 岩手県におけるまき網漁業の生産高は下記の通りです。

(注)生産量については、1951年〜56年は属地統計。1957年以降は属人統計。1976年以降は、「漁業・養殖業生産統計年報」、それ以前は、「水産業累年統計」。経営体数は、「農林水産累年統計 岩手県」の数値。
(出所)農林省水産業累年統計 第3巻 都道府県別統計」、「漁業・養殖業生産統計年報」各年版、「農林水産累年統計 岩手県」1980年。

 岩手県のまき網の生産高のピークは、1986年の15.6万トンです。
 


8. 養殖業の生産動向
 陸前高田市の主要な養殖品目であるワカメ、ホタテガイ、カキをとりあげ、それらを「営んだ」経営体数を見ます。

 
 上記の3品目について、陸前高田市全体の生産額と、1経営体あたりの生産額をみます。

 ワカメ養殖の生産金額は、1988年~93年に大幅に減少し、2003年には、88年の半分以下の水準に落ち込んでしまいます。その結果、2003年、カキ養殖の生産金額がワカメ養殖の生産金額を上回っています。
 カキ養殖の1経営体あたりの生産金額をみると、1993年に、ワカメ養殖の生産金額を上回り、それ以降も増加しています。
 ワカメ養殖についても、生産金額や経営体数は大幅に減少していますが、残った経営体は規模拡大をはかり、その結果、1経営体あたりの生産金額は、1998年以降、増大しています。



 1経営体あたりの生産額が伸びているカキ養殖の事例を分析します。(ホタテガイ養殖は、2003年〜05年に大量のへい死が発生したので、分析しづらいです)。
 『陸前高田の水産』から施設台数や漁業権行使者数の地区別データをひろって、漁業権行使者1人あたりの生産額を地区毎に見てみます。


 米崎地区の値が抜きん出ていることがわかります。



 米崎地区は、経営体数や就業者数の点では小規模で、年々その数も減少してきましたが、後継者がいる漁家が多く高齢者比率も低い、一人あたりの生産金額が大きいという特徴を有しています。
 同地区における養殖の営みの中に、陸前高田の漁業の未来を指し示すヒントがあるのではないでしょうか。少なくとも、十把一絡げに「単なる復旧は無意味だ」とか「従来の漁業は衰退の一途」などとは言えないように思います。



 東日本震災で陸前高田の漁業は壊滅的な打撃を被りました。
 漁業被害について、陸前高田市のHPには下記のような一覧表が掲げられています。

(出所) 陸前高田市役所


 米崎地区でも、漁業再生に人生を捧げてきた方も亡くなられました。

 2011年、脇の沢の漁港を見たとき、あまりの被害の大きさに、ただ絶句することしかできませんでした。

 何か結論めいたことなど、今はとても言えません。


 今後とも分析を続けていきます。


追記
 2014年3月5日、農水省は、「被被災3県における漁業経営体数の推移(平成25年11月1日現在)」を公表しました。こちらです。
 この調査は、岩手県宮城県及び福島県の沿岸部の市町村を対象に、2013年漁業センサスの海面漁業調査、漁業経営体調査の調査対象となった漁業経営体の名簿を活用し概数を集計したものです。
 

 これで、ようやく、データをもとにした漁業再生策を議論できます。

 この調査にもとづけば、宮城県では、2008年の漁業センサス調査時点に4,006あった漁業経営体のうち、2013年11月時点では、継続2,074(51.8%)、廃業986(24.6%)、1年間の海上作業30日未満が762(19.0%)、操業自粛等が184(4.6%)であり、経営体数は43.2%減少し2276となった(新規は202)。

 岩手県では、2008年に5,313あった漁業経営体のうち、2013年時点で継続は2,886(54.3%)、廃業1447(27.2%)、海上作業30日未満912(17.2%)、操業自粛等68(1.3%)であり、経営体数は3,368となり36.6%減少した(新規482)。

 陸前高田市では、2008年に489あった経営体数のうち継続は237(48.5%)、廃業129(26.4%)、海上作業30日未満120(24.5%)、操業自粛等3であり、2013年時点では48.3%減少し253になった(新規16)。
 漁業存続の危機に瀕していると言っても過言ではない。

続く