陸前高田から京都に戻りました

 2月7日(金)〜10日(月)、岩手県陸前高田市でゼミ合宿を行いました。

 格安ですが不便な時間帯に飛ぶピーチを利用したので、実際には、6日夜と10日夜は関空泊になってしまった学生も大勢いました。やはり、京都から岩手県沿岸部へは、バスでも飛行機でも費用と時間がかかることを痛感させられました。




 高田一中の仮設団地の裏山から高田松原方面をのぞむ。

 陸前高田市でも記録的な大雪でした。


 相変わらず廃墟のような市街地。


 ちょうど1年前に同じ場所から撮った写真。
 震災から2年11か月。自分が読んできた「岩手日報」の記憶をたどって、思い出す限り書き出してみます。
 がれきの撤去・処理、仮設住宅や仮設店舗の設置、復興計画の策定、建物の解体、今泉地区の山林での宅地造成、そこから出る大量の土を運ぶジェットコースターのような巨大ベルトコンベアの設置、ホテルの再建、災害公営住宅の盛り土工事、防潮堤の工事、高田道路の工事、米崎町へのイオン出店計画決定、竹駒町でのマイヤ本設計画の決定、同町でのコンビニ出店ラッシュ、建設業での人手不足、建設資材や人件費の高騰、工事入札の不調、復興事業を待てない方々による住宅自力再建、そして人口流出。
 あとは何が「進んだ」のでしょうか。
 


 高田一中の坂を下りて、市街地に行ってみました。

 津波で多くの方々が亡くなられた高田町。


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 約3年の歳月がたったからでしょうか、それとも雪で区画がわからなくなっているからでしょうか、正直、自分でも、「高田の街が津波で流されたから、一中グランドで仮設暮らしを余儀なくされているのだ」という<原点の因果関係>を思い起こすのがだんだん難しくなってきました。
 真っ白な雪の中に、お供えされて間もない献花を見つけてはじめて、ようやく、ここで多くの方々が暮らしておられて、その方々は津波で亡くなられたのだということに気づかされます。



 仮設住宅での人びとの暮らしは、「何も変わっていない」どころか、「悪化している」ことを痛感した合宿でした。


 もちろん、「悪化」を感じさせないように、毎日、懸命に、仮設住宅での暮らしをサポートする方々がいることを忘れてはいけません。
 大雪の日、市の社会福祉協議会の方々は、午前も午後も、仮設住民が雪で不自由されていないかどうか、見まわっておられました。 
 仮設住宅連絡会の方は、仮設住宅でのコミュニティ活動が円滑に進むよう、尽力されています。
 
 今まさに、こういう人材が10倍も100倍も必要とされています。
 「インフラの復興」に投入されている、信じられないような巨額の資金を、ほんの少しでいいから「人間の復興」に回してほしい。




 高田一中グランドのバックネットに貼ってある「忍耐」の文字。
 ここが一中野球部のグランドだった頃に貼られたものだと思います。

 「忍耐」も、ある程度は必要なのでしょうが....

 「3年はなんとか我慢できたけど、『もう3年まて』と言われると、さすがにきつい」。

 「(復興工事をさらに遅らせる)東京オリンピックは、素直に喜べないし、都知事選もまったく興味がない。ため息しか出ない」。


 仮設住宅の皆さんの率直な声です。


 「忍耐」も、もう限界に来ているのではないでしょうか。

 
 「震災復興のための土木工事がまず最優先」「それまではガマン」。
 行政からそう言われ続け、自分にも言い聞かせ続けているうちに、
足元での「二次災害」
が生じてしまっているのではないでしょうか。


 「少しずつ前を向いて歩きだそう、ポジティブに生きていこう」。
 私達よそ者も含め、東京発の新聞記事でもSNSでも、多くの人びとが(善意で)そんなふうにステレオタイプに大合唱しているうちに、いつのまにか、足元の「二次災害」に気づきにくい環境や雰囲気が被災地につくりだされてしまっているのではないでしょうか。


 ポジティブになれない自分を情けなく思ったり、自分に何か問題があると思い込んだり、罪悪感を感じてしまうような環境や雰囲気が被災地で醸成されているのではないでしょうか。



 人は、そんなに、アメリカ人みたいにポジティブになれるのでしょうか。


 少しくらい、後ろや、今の足元を、振り返ってもいいんじゃないでしょうか。


 そうしないと、肝心要の
復興の担い手その人が、疲れて倒れてしまう
のではないでしょうか。


 大雪だったせいかもしれませんが、今回の訪問で強く感じました。
 



 「雪すげ〜っ♪」と、笑いころげながら雪道を歩いていく高田一中の生徒たち。


 震災の時に中学3年生だった子たちは、この春からはもう、都会の大学・短大・専門学校に進学したり就職したりで、この街を去って行ってしまいます。

 彼ら・彼女らは、震災後、ここでどんな青春時代を過ごしたのでしょうか。

 あまりに過酷な現実を目の当たりにし、また、それと格闘・葛藤する親の背中を見ながら、声を出せなかったのではないでしょうか。

 大人でさえも逃げ出したくなるような状況の中で、そして「一家の大黒柱」が失業・廃業・就職活動に直面し、「大黒柱」性を子供に思うように示すことができないような状況の中で、子供たちは自分の感情・欲求をどう表現したらよいのかわからず、大人の邪魔にならないように、1人で思い悩んでいたのではないでしょうか。

 彼ら・彼女ら(=復興の担い手)は、気仙川のサケのように再び故郷に還ってきてくれるのでしょうか。

 下の図は、1歳きざみの年齢別人口です。

(参考) 清水睦美・堀健志・松田洋介『「復興」と学校』岩波書店、2013年.←陸前高田市の「復興と学校」を描いた労作です。教職課程を履修している大学生にぜひ読んでほしいです。


 19歳がいない街。それが陸前高田




 陸前高田未来商店街の鶴亀鮨さんから、事前にアドバイスをいただきました。
 「仮設住宅の方々に、『がんばれ』ではなく、『皆さん、よくがんばってますね』と、言ってあげてください」。



 皆さん、よくがんばってますね


 これが今回の合宿のキーワードだったように思います。


 昨年2月の合宿のキーワードは、小谷園さんからいただいた言葉。
 「がんばらない」「体を壊したら元も子もない」「でもあきらめない」
でした。(こちらの記事を参照)



 震災後、8回目となった陸前高田でのゼミ合宿。
 毎回、陸前高田の方々から受け取るものは絶大で、私たちが提供できたものはほんの少しだけ。大幅な「貿易黒字」。
 
 ここに通えば通うほど、いろいろな方々の3.11を知れば知るほど、その都度、あの津波が奪い去っていったものの大きさを、そして自分の認識の浅さを思い知らされます。

 自分たちはなんて微力なんだろう。

 毎回、そう感じ、「また来ます」と言いにきているだけなような気がして、「地域経済の再生」を研究する私たちとしても、
「この街の再生って?」
「コンパクト・シティ??」
「『子どもたちから高齢者まで、誰もが安全と安心を実感できる多重防災型のまちづくり』???」
「はぁ〜」とため息がでてしまいます。



 震災後、「座右の銘」にしてきた本があります。
 宮地尚子『震災トラウマと復興ストレス』(岩波ブックレット、2011年)です。
 宮地氏は、「環状島」という、真ん中に内海がある島のモデルを用い、
声をあげられない犠牲者が沈む<内海>、
声を出せる生還者のいる<内斜面>、
支援者がいる<外斜面>、
傍観者や無感心層のいる<外海>
といった形で、被災者のトラウマをめぐる様々な人々の立ち位置、相互の関係性、役割を明らかにしています。
 自分がどうすればよいのかわからなくなった時にいつも読み返しているのは、次の言葉です。
 「<水位>に影響するのは、社会のエトス、周りの人たちの感受能力、応答能力である。人生はいつどんな不幸や災厄が襲いかかるかわからないという認識や、人は誰も災厄に深く傷つくものだという理解が共有されている社会、他者の痛みへの感受性や優しさに高い価値がおかれている社会であれば、<水位>は低くなるだろう。ジェンダーや民族、階級などに関する平等思想も<水位>を下げるだろう。
 逆に、競争が重視され、弱肉強食や『自己責任』の思想が強い社会、残虐さに人びとが慣れている社会、人を序列化し階層化する社会であれば、<水位>は上がってしまうだろう」(pp.48-49)」
 上の引用文に登場する<水位>とは、被災者のトラウマに対する社会の否認や無理解度をあらわします。
 「<水位>が下がれば、トラウマを語る声が聞き届けられやすくなり、支援者も増えます。<水位>が上がれば、今まで被害者と認められていた人も不可視の存在となり、必死で声をあげなければ支援を得られない状況になります」(p.10)
※宮地氏の「環状島モデル」については、言葉で伝えるのがとても難しいのですが、こちらのページ(東京都人権啓発センター)にわかりやすい図解があります。ご参考までに。


 いつか私たちの活動が〈外海の水位〉を下げるような活動になるよう、そして陸前高田再生の日が必ずやってくることを信じて、高田で見たこと・聞いたこと・感じたこと・やったこと・できなかったことを、アップしていきたいと思います。

 震災直後の「他者救済への使命感」で満ち溢れた学生レポートと比べると、これから登場するレポートは、読み手にかえって「風化」を実感させてしまうような、ステレオタイプで「自己満足」なものもたくさんあるとは思います。
 が、それはそれで、本人にとっては何かの意味はあるでしょうし、震災から3年たった20歳の学生達の「思いのカタチ」の率直な表明、そして私自身の未熟さのあらわれだと、真摯に受け止めたいと思います。

 今の大学生は、阪神・淡路大震災を知りません。もうすぐ20年の歳月がたちます。
 東日本大震災についても、そういう時がやって来るのは避けられません。


 とにかく続けること。

 最近、そのことの大切さを痛感します。


(文責:伊達)