『広益国産考』 『農業全書』の製茶に関する記述

 「北限の茶を守る 気仙茶の会」は、岩手県陸前高田市大船渡市で連綿と続けられてきた手もみ製茶の技術や自家用茶の文化を、後世に伝える活動を精力的に展開しています。

 金野静一氏が監修された『陸前高田市史』によれば、気仙地域と呼ばれるこの地域では、徳川時代から茶栽培が行われています。寛永19年(1642年)の検地帳にも、小友村や勝木田村(現・米崎町)に茶畑があったことが記されています。気仙茶の歴史の参考文献はこちらです。


 徳川時代や明治・大正時代に、気仙地域の庶民がどのようなお茶づくりをしていたのかは、『陸前高田市史』によって、ある程度は知ることができます。気仙地域では、湯通しする製茶法と蒸す製茶法の2種類があったようです。
 『市史 第5巻 民俗編』(1993年) 第1章「衣・食・住の民俗」には、以下のように、湯通し製法に関する記述があります。


 「気仙地方は、東北地方でも珍しい茶の産地であり、営業として生産する家もかつては少なくなかった。しかし、多くの農家では『湯通し』と称する簡易な製法により自家製茶をつくり、これを用いていた。摘んだ茶の葉をザルに入れ、煮立った湯の中に入れた後、すぐにとりあげ水気を取る。次いでムシロの上で、よくもみながら広げていく。そして火にかけた『じょたん』に入れて、水気を渇かしながらもむ。こうして乾燥した後、箱などに密閉して貯蔵する。」(p.117)
 湯通しする製法では、ムシロでよく揉み、さらに「じょたん(助炭)」で乾かしながら揉んだことがわかります。


 また、同 第9巻 産業編(1997年) 第1章「農業」には、蒸し製法に関する記述があります。


 「近世には、ほぼ盛岡の線が北限になっていたので、温暖な気仙地方は産地と呼ぶことができ、畑栽培をして企業的に製茶をする農家もあった。ただし、茶畑は上々畑の何倍という斗代のため、多くは畑境の空地などに垣根作りして自家用とした。これは無税だった。製法は一番茶を摘んで『蒸籠』で蒸し、板に細縄を固く巻きつけた『揉み台』で充分に揉みあげ、こたつやぐらの上にかけた乾燥箱で、まんべんなく炭火で乾燥させた。乾燥箱は、底に何枚もの和紙を張り合わせた平たい箱で、乾かしながら手のひらで軽く揉むのが仕上りをよくするコツだった」(pp.215〜216)。
 蒸し製法では、「蒸籠」で蒸し、板に細縄を巻きつけた「揉み台」で充分に揉み、「こたつやぐらの上にかけた乾燥箱」(底に和紙が何枚も貼りあわせてある)で乾かしながら軽く揉んでいたようです。
 湯通し製法では助炭が登場しているので、ほい炉も使われたと思われますが、蒸し製法では、「こたつやぐらの上にかけた乾燥箱」が、助炭+ほい炉の代わりに使われているように読めます。
 

 自家用茶の習慣は今日まで続いています。震災前の状況については、『市史』に以下の記述があります。執筆時点(1990年代?)の状況の描写でしょうか。


 「『北限の茶』で知られる本市の茶は、小友町、赤崎町を中心として市内各町に栽培されている。栽培農家は500戸で、面積はおよそ5ヘクタール程といわれている。収穫時期になると、若葉を摘みとり、陸前高田市農業協同組合製茶工場に集荷し、製品化され、製品のほとんどが自家消費用として、あるいは贈答用に使われてきた。茶樹の7割以上は在来種で、畑地の畦畔を利用して栽培されているが、気候風土によく適しているので樹勢が強く、害虫におかされることもなく、無農薬栽培が可能である。また、肥料も鶏ふんなどを使用する有機栽培であるから、安全な健康飲料といえる。品質の面では、渋みと味に優れていると評価されている。」(p.355)


 現在、気仙茶の会メンバーは、「自家用茶」の文化と技術を後世に伝えようと、各家庭の倉庫に保存されている昔の製茶用具を発掘し、80〜90歳代の年配者からの聞き取りによって、昔のお茶づくりを再現しようと試みています。

 気仙茶の会メンバーが行ってきた聞き取り活動によって、1950年代後半に気仙地域で機械式製茶工場が設置される前までは、各家庭の「せいろう」「もみ板」「ほい炉」「助炭」などの用具を用い、湯通し製法や蒸し製法で、手もみ製茶されてきたことが次第に明らかになってきました。
 また、そうして手づくりされた気仙茶は、「香りがよく、とても美味しかった」こともわかってきました。気仙茶は、いったいどのような味・香り・水色だったのでしょうか。どのような作り方をしていたのでしょうか。
 高度経済成長によるライフスタイルの激変、機械製茶工場の設置によって次第に行われなくなっていった「手もみ気仙茶」のわざと文化を、年配者からの聞き取りをベースに復元し現代に甦らせ、後世に伝える。気仙茶の会は今、このようなことを目指して活動しています。

 
 (Readyforより転載)

 上の写真は、昨年6月、気仙茶の会の主催で、大船渡三陸町綾里の「大小迫 つむぎの家]」において行われた手もみ製茶の講習会の一コマです。
 この日の講師は、大船渡市日頃市で、数十年前まで手もみで気仙茶づくりをされてきた平山さんご夫婦です。
 板に縄を巻いた「もみ板」で荒もみをしています。詳細は、2013年6月26日のブログを参照してください。
 この講習会で使われた製茶用具は、つむぎの家で先祖代々保存されてきたものです(こちらを参照)。


 手もみ講習会の会場「大小迫 つむぎの家」。
 「大小迫」は「おおこばさま」と読むのだそうです。
 つむぎの家は、築140年以上と言われる古民家で、綾里地域の里山保全や環境教育の活動拠点になっています。
 活動の詳細は、つむぎの家のブログをご覧ください。子供たちののびのびした姿がとても印象的です。マムシにかまれてしまった犬のヤマトも(笑)。
 それにしても、陸前高田大船渡は、手もみ製茶を行うインフラがかなり充実してますね〜。(大茶産地ならば、お茶博物館の類の施設を建設してしまいそうですが)
 気仙大工・左官伝承館しかり、つむぎの家しかり、そして、昔の製茶道具がきちんと保存されていることも素晴らしいです。ビックリです。
 気仙人は古いものをとても大切にする人びとだ、ということがよくわかりました。津波が奪ったものの大きさ、人びとの悔しさや喪失感も、あらためて痛感させられました。

 「つむぎの家」の裏手には里山があり、そこに茶の樹が植えられています。
丁寧に手で摘みとります。

 蔵から焙炉(ほいろ)を運び出し、土間に移動させています。

 私も運搬をお手伝いさせていただきましたが、とっても重たいです !

 炭で火をおこします。

 蒸籠でさっと蒸します。


 広げて冷まします。

 もみ板の上で、葉を軽〜く転がすように、荒もみ。ゴシゴシ揉むのではありません!

 助炭(じょたん)をほい炉の上にのせます。
気仙地域では「ジョーダン」と呼ばれていたようです。
和紙を幾重にも張り合わせ、柿渋が塗られています。

 ていねいに手もみします。

 ほい炉の側面。




 下の写真は、先日、6月2日、「気仙茶の会」の主催で、陸前高田市小友町の気仙大工・左官伝承館において、地元の仮設住宅にお住まいの方むけに行われた、気仙茶の手もみ体験会の様子です。詳細は、6月5日のブログを参照してください。

 もみ板、助炭、ほい炉などは、つむぎの家で保存されてきた製茶道具をモデルにして、気仙茶の会が、地元の大工、左官職人さんらに依頼して復元したものです。
(職人さんによる復元作業の様子は、こちら(Readyfor)を参照してください。ほいろの作り方など、今日では見ることのできない貴重な写真がたくさん掲載されています !)

 やはり、現物があると、皆さん、「オラのうちでは、こう蒸した、こう揉んだ」など、ワイワイと話がはずみ、昔の記憶がよみがえってきます。しかも、その記憶はかなり鮮明なので驚きました。
 (認知症が社会問題化している昨今。自分が80歳を過ぎた時、若い頃の記憶をこんなにも鮮明に語れるのだろうか? そもそも何か語るようなことはあるのか?、と、不安になってしまいました。)


 6月6日には、気仙茶の会は、復元した製茶道具を使い、大船渡東高校・農芸科学科3年生が地元の年配者から手もみ製茶を教わる講習会を開催しました。(於 気仙大工・左官伝承館。)
 その時の記録映像です。
 盛岡の映像制作会社「フロムいわて」さん撮影です。貴重な記録映像です!

(制作: フロムいわて)
 
 被災地の伝統技術・文化を若い世代に継承していく大切な活動だなと思いました。

 普段はペットボトル茶ばかり飲んでいるのであろう女子高生たちの感想も、とても新鮮です !
 「意外と飲めるかも。あ イケる のめるのめる お〜 ! おいしい むっちゃ おいしい ! お茶味する」
 もみ板で手もみしながらの会話も、泣けてきます。
 「結婚したらこっち帰ってくるの?」
 「絶対こっち戻ってきたい。だって子供を田舎で遊ばせたいじゃん。『山に行ってこい!』とか...」


 さて、前置きが長くなってしまいましたが、本題に移ります。
 徳川時代、全国でどのようなお茶づくりがなされていたのかは、『農業全書』(1697年)や『広益国産考』(1859年)などの農書によって知ることができます。


大蔵永常『広益国産考』(1859年)
徳川時代を代表する農学者・大蔵永常の『広益国産考』には、茶栽培や製茶に関する記述があります。
 『広益国産考』は、全部で八巻ありますが、刊行完了は1859年です。

 「六之巻」の「茶」の中に、「刈茶」という、茶の木を小枝ごと刈り取って製茶する、番茶の製茶法に関する記述があります。
 

 岩波文庫[土屋喬雄校訂]版と日本農書全集版があります。


 原文(翻刻)


 「扨刈取たる茶の木ハ家に持かへり、大半切桶を水を入洗ふべし。河ある所にてハ河にて洗ふべし。然して木葉ともに押切にて三寸位に伐べし。それを羽すりの大鍋にて煎べし。かきまハしかきまハしすれバ葉ハ茹たるごとくなり。木も和らかに成ころ揚てに入、其莚をかぶせもむべし。其時木のぢくハ撚出すなり。細くやハらかなる軸ハ其儘茶に交置くべし。
 又法あり。大鍋に湯をわかし、其中へ刻みたる葉を入れかき廻し、すぐに揚げに入れもむよし。又もむには 此ごとく縄もてこしらへたる上にてもむもあり。
 扨揉みたるは琉球やうのものに入れさまし、又の中に入れかき廻し廻しして、又莚に入れ、初のごとく凉しては鍋に入れかき廻し、又莚に入れ凉し、又鍋に入る事五六度すれば、さつぱり湿気なきゆう成りたるを度として仕あげとし、渋紙やうのものにひろげ一日さまして俵に入るべし。」(岩波文庫、262-264頁)

 現代語訳


 「さて、刈り取った茶の葉は家に持ち帰り、大きな半切桶に水を入れて洗う。川のあるところなら、川で洗う。それから、木も葉も、押切で三寸くらいに切る。切った茶の木や葉は、羽すりの大鍋で煎る。かきまわしかきまわししていると、葉はゆでたようになり、木もやわらかになるので、そのころ鍋からあげてに広げ、その莚をかぶせて揉むのである。そのとき、木の軸は、よって取り出す。細くやわらかな軸は、そのまま茶に混ぜてよい。
 別の製法もある。大鍋に湯をわかし、その中に刻んだ葉を入れてかきまわし、すぐにあげてに広げ、それをんでもよい。
 揉むばあい、 このように縄でこしらえた莚の上で揉むこともある。
 そして揉んだ茶は琉球のようなものに広げてさまし、それを鍋の中に入れてかきまわし、また莚の中に広げて、初めのとおりにしてさます。これを五、六度くりかえすと、すっかり湿気がなくなったようになるので、それをめやすに仕上げとし、渋紙などに広げ、一日ほどさまして俵に入れる。」
 (日本農書全書14『広益国産考』大蔵永常、農山漁村文協会、1978年、313-314頁)

 莚でもむ方法が記されています。


 「刈茶製法場の図
 さし渡し一尺八寸位
 莚をつかミ、力をいれもミおす」(同上、315頁)

 


 この『広益国産考』に登場する「縄もてこしらへたる」
に注目しているのは、中村羊一郎『番茶と日本人』(吉川弘文館、1998年)です。
 中村氏のこの著作は、それまで、〈庶民が飲む、粗末な製法で作られた粗末なお茶〉のように解されてきた「番茶」を、「各地各様の伝統的製法によって作られた非商品としての日常の茶」と定義し、地域の独特な伝統技術や庶民の日常生活の観点から再評価したパイオニア的労作です。
 中村氏は、「番茶から煎茶へ」の章の「北限の茶に宇治の製茶技術を見る」という節の中で、秋田県能代市の檜山茶に注目しています。
 著者によれば、檜山茶の栽培が始まったのは、享保15年(1730年)頃で、秋田藩の家老でこの地域の領主であった多賀谷峰経が、家中の者を京都にのぼらせ、宇治の茶園から種を持ち帰ったのが始まりだと伝えられています。また、その後、宇治から茶師を招き、製茶法も導入したようです。
 また、著者は、現在も檜山茶づくりを続けているお宅での製茶作業の様子を詳しく紹介されています。
 その中で、私が特に注目したいのは、「宇治の製茶技術」の伝播・普及のほうではなく、以下のような、檜山茶づくりに使用されてきた「カマス」や「揉み盤」に関する記述です。
 「現在はカマス※の上で茶を揉むが、以前は板に荒縄をびっしり巻いた上で茶を揉んだ。その道具も茶小屋[ほい炉を置いた作業小屋−引用者]の梁の上に無造作に置かれていた。これは、近世の『広益国産考』に出てくるものと同じ形態であり、西日本各地の釜炒り茶を作っている所の一部で今も見ることができる。」(154頁)。
※カマス 「蒲簀」の意。ワラムシロを二つ折りにし、縁を縫いとじた袋(デジタル大辞林)。

 「揉み盤」の写真も掲載されています(153頁)。
 その上で、以下のように結論付けておられます。

 「檜山の茶が天保時代そのままの姿であるとは言い切れないが、すくなくともその時代の製茶法を濃厚に残している可能性は高い。・・(中略)・・宇治茶の新技術とはいっても、すべての面で最新の工程と用具が導入されたのではなく、在来の方法や地元の嗜好なども生かした形で、その土地に定着したらしいことがわかる。檜山茶の製法は、現在の煎茶製茶につながる技術発展過程の過渡的な面をまだ残している貴重な技術である」(155頁)。

 (「揉み盤」を「現在の煎茶製茶につながる技術発展過程の過渡」とする、単線的な技術発達史観にたいしては疑問を感じますが、ここではそのことは置いておきます)

 檜山茶の製茶法は今どうなっているのか、気になりました。
 「檜山茶フェスティバル」というイベントが毎年開催されていますね。参加してみたいです !
 こちらのサイトを見ると、宇治式?静岡式?になってしまったようにも見えます。(「能代市上町はかり屋はるちゃんのまちなか歳時記」のブログより)

 個人的には、使われなくなった「揉み盤」も復活させていただきたいな、と思います。

 また、もし、青森県の黒石茶、秋田県の檜山茶、岩手県の気仙茶、宮城県の桃生茶、富谷茶、新潟県の村上茶などの保存会の方々が協力して、「寒冷地の茶サミット」「北限の茶サミット」などを開催していただけたら、絶対に駆けつけるんですが !


宮崎安貞『農業全書』(1697年)
 『広益国産考』の「茶」の末尾には、下記のように記されています。現代語訳を掲げます。


 「茶の植え育て方、製法については、『農業全書』に詳しいので、ここでは、国産として多く育て利益を得ることについて、要点だけを記した。詳しくは、『農業全書』をごらんねがいたい」(日本農書全書14『広益国産考』大蔵永常、農山漁村文協会、1978年、318頁)
 『農業全書』は、宮崎安貞(1623〜1697年)の編録、貝原益軒(1630〜1714年)の刷補で、元禄10年(1697年)に刊行されました。
 巻7「四木之類」「茶」に、茶の栽培法・製茶法に関する記述があり、「上茶」、「湯びく茶」、「煎じ茶」、「唐茶」(釜炒り茶)の製法が詳細に記されています。

 国立国会図書館近代デジタルライブラリーこちら(1882年の改訂版)です。

 『農業全書』の記述は、「番茶」と呼ばれてきた地方茶の歴史を理解する上で、とても重要です。
 気仙地域の先人たちが守り伝え続けてきた気仙茶の技術や文化の意味を解き明かし継承するためにも、また、それを土台に、未来に向かって新たに発展させるためにも、『農業全書』は導きの糸を与えてくれるのではないでしょうか。宮崎安貞も喜んでくれるのではないでしょうか。

 さらに、宇治製法(青製煎茶製法)の歴史を再解釈する意味でも『農業全書』は重要です。「新芽を蒸して焙炉で揉む宇治製法は、1738年、宇治田原の永谷宗円によって発明された」というのが、京都府京都府茶業会議所、そして日本茶・宇治茶の世界文化遺産登録検討委員会「公認」の通説のようですが、1697年に刊行された『農業全書』は、1738年の「発明」以前の製茶法を解明する上で、避けて通ることのできない最重要文献です。
※誤解のないように一言付け加えておきたいと思いますが、私自身は、永谷宗円の偉業を否定しようという意図はまったくありません。従来、「伝説」のように語られてきた宗円の革新性を、日本農業史・経済史の基本文献に基づいて、きちっと捉え直したいと考えています。もっと大きな宗円の革新性が隠れている可能性もあるからです。むしろ、追跡可能な根拠史料も示さず、「永谷宗円」が「1738年」に「青製煎茶製法」を「発明」したことを文書(公的文書を含む)に記載し続けていくほうが、学術的にも行政的にも不誠実な態度ではないかと私は考えています。



 では、『農業全書』の「上茶」、「湯びく茶」、「煎じ茶」、「唐茶」の記述を順に引用していきます。以下、日本農書全書13『農業全書 巻六〜十 巻十一附録』宮崎安貞・貝原楽軒、農山漁村文化協会、1978年、78-91頁を用います。


「上茶」の製茶法
 原文(翻刻)


上茶をこしらゆる法。凡三月の節に入て、つミはじむるを早しとするなり。
 摘様の事。心葉いまだ皆ひらかざる時新葉の分残らずつミ取て、上葉と下葉を二段にゑり分るなり。
 さて、蒸様に半分すぎ水を入れなる程たぎらかし、蒸籠に葉をうすく、一重ならびに入れ、先釜の口にわらにてくミたる輪をあて、其上に籠を置、板のふたをして蒸上、甑の中に湯気の廻りて葉しほれ、箸にひたひたと付時を、揚る時分とするなり。過たるもまだしきも、宜しからず。此かげんをしる事一入大事なり。さて甑より上げ、箕のごとき、竹籠の縁少ある物に、薄くひろげ置、団にてあふぎさまし。
 ほいろにかくる事。いろりのふかさ一尺四五寸、長一間ならバ、横四通りに、炭をおこし、上にわらをたきて衣とし、竹のすをわたし、高野紙など厚紙をのりにて二重に合せ、いろりぶちまで、とくとかかる程広くして、竹すの上に敷、右のあふぎ冷したる葉を、一重ならびに、ひろげ、やがてねんと云て、竹を指二つのはば、長三尺ばかりなるを、さきを五六寸も二つにわり、其所を少ため、そりをなして、わりたる所を、なハにてあミ、末ひろがりなるを以て、其そりたる所にて、さらさらと葉のおれ、くだけぬ様にさがし、しばしして、返すべし。
 かくのごとくしてしし干の時、又此方に、ねりぼいろとて、ぬるきほいろを別にしをき、是に移して、時々返し置なり。葉よくはしやぎて後ハさがす事なし。上る時分ハしめり気少もなくなりたる時、はり籠に上、葉の善悪を二段にゑり分、ここにても、若なをしめり気あらバ、ぬるぼいろにかけはしやがして、其後だんだんとをしに四番までかけ、さて折敷のうらにて、羽ゑりをして、段々にしわけ、其後又とをしにかくる事一二段なり。
 其後鷹の爪よりだんだん袋に十匁宛入るなり。袋にならざる分ハ極詰、同じく粉などとて、上壺の詰になるなり。
 同じく火いろ、火加減の事。の上に手ををきて見るに、しバししてあつさを覚る程をよしとするなり。
 ぬるぼいろハ、是よりハはるかにぬるし。」

 現代語訳


上茶製造法。茶の葉の摘みはじるはおよそ三月の節に入ってから行うのを早いほうとする。
 摘み方は、心葉がまだ開かないうちに、新葉だけを残らず摘みとって、上葉と下葉との二段に選別する。
 葉の蒸し方は次のようにする。に半分より少し多めに水を入れ、できるだけ煮え立たせる。蒸籠(せいろう)に葉を一重に並ぶ程度に薄く入れる。まず、釜の口にわらで編んだ輪をあて、その上に、せいろうをのせて板で蓋をして蒸し上げる。せいろうの中に湯気が充満して葉がしおれ、箸でかき混ぜると箸にひたひたつくときが、せいろうをとり上げる頃合いである。蒸しすぎても蒸し足りなくてもよろしくない。この加減を知ることがきわめて重要である。さて、せいろうから茶の葉を引き上げ、縁付きの箕のような竹籠に薄くひろげておき、うちわであおいで冷やすのである。
 この茶の葉をほいろにかけて乾かすには、いろりを利用する。深さ一尺四、五寸、長さ一間のいろりならば、横四列に炭をおこし、その上でわらを焚いてその灰を衣とする。いろりには竹の簀をわたし、糊で二重に合わせた高野紙などの厚紙を、いろりの縁まで充分にかかるほど広げて、竹簀の上に敷いておく。その上にうちわであおぎさました葉を一重に並べて広げ、しばらくして『ねん』という竹製の道具で、さらさらと葉が折れ砕けないようにかき広げ、また返すのである。この『ねん』というのは、幅が指二つばかりの竹を三尺くらいの長さに切り、先を五、六寸ばかり二つに割り、そこを少したわめてそりをつけ、割れ目に縄を通して網み、竹の先が末広がりになるようにしたものである。そのそりかえった先のところで、茶の葉をかきまぜるのである。
 このようにして半乾きになったとき、別にねりぼいろといってぬるい温度のほいろを用意しておいて、これにその葉を移して、ときどきかき混ぜて返しておく。葉がよく乾いてからは、かき広げることはしない。そして少しの湿り気もなくなったとき、はり籠に上げ、葉のよしあしによって二段に選り分けるのであるが、もしなお湿り気があれば、もう一度ぬるぼいろにかけて乾かす。その後、に四回かけて選別する。それから折敷の裏にのせて羽選りをし、品質によって等級に仕分ける。その後、また篩にかける。回数は前後一二回に及ぶ。
 こうして品質によって極上品の『鷹の爪』(注1)から十匁ずつだんだんに袋に入れる。袋に入れることをしない極上品は『極詰』(注2)、同じくその粉(抹茶)などといって上等の壺に詰めることになる。
 ほいろの火加減については、ほいろ紙の上に手をおいてみて、しばらくして熱さを感じる程度がよい。」

 日本農書全書版『農業全書』の翻刻・現代語訳を担当した山田龍雄・九州大学教授は、人見必大『本朝食鑑』(1697年)に基づいて、下記のような注をつけています。
注1 「鷹の爪 宇治茶の極上品、抹茶にも煎茶にもこの名がある(人見必大著、島田勇雄訳注『本朝食鑑』(元禄五年[1692年]自序、同十年[1697年]刊、東洋文庫2)」(日本農書全書13『農業全書』、91頁)
注2 「極詰  茶の新芽(で製したもの−山田)の極上を白といい、その次を極詰といい、別儀詰めといい、極揃といい、別儀揃という。上揃というのは下品の部類で、最も下品なものは煎茶という(『本朝食鑑』117頁)」(日本農書全書13『農業全書』、同上)


 以上、『農業全書』の「上茶」の記述を見てみると、「新葉」「蒸し」「蒸籠」「ほいろ」「ほいろ紙」など、宇治製法の要素技術の多くは、『農業全書』が書かれた元禄年間にすでに登場していると言えます。

 『農業全書』の「上茶」の記述について、従来、宇治茶の歴史研究者たちは、ほとんど言及しないか、もしくは、碾茶(抹茶)の製法だと解してきました。
 『農業全書』に言及される時は、たいていの場合、永谷宗円による青製の「発明」を際立たせるために?、後述の「煎じ茶」や「湯びく茶」の製法の記述でした。
 林屋辰三郎・藤岡謙二郎編『宇治市史』は、『農業全書』の「上茶」の記述を「碾茶(抹茶)の製造」だと解釈しています(『宇治市史』3、1976年、p.394)。
 好川海堂『日本喫茶史要 日本煎茶創始者 永谷翁』も、碾茶(抹茶)製法と解しています(喫茶の友社、大正12年、pp.94-96)。好川海堂は、宇治田原の妙楽寺の住職で、永谷宗円を「日本煎茶創始者」と位置づけています。この本も、国立国会図書館近代デジタルライブラリーで読むことができます。こちらです。

 しかしながら、この「上茶」の中の「鷹の爪」について、山田龍雄教授が注釈されているように、『本朝食鑑』(1697年)は「宇治茶の極上品、抹茶にも煎茶にもこの名がある」と指摘しています。「上茶」とは、宇治の碾茶(抹茶)と煎茶との両方を指している可能性がありそうです。

 この「上茶」問題に関する代表的な先行研究は、大石貞男『日本茶業発達史』(2004年、初出は1983年、農文協)です。茶業関係者によく読まれてきた研究書です。
 大石氏は、『農業全書』の「上茶」の記述について、以下のように論じています。
 「これは普通は碾茶−抹茶の製法と解されていたが※、挽茶とせず上茶とした理由は、人見の『本朝食鑑』を読んではじめて氷解した次第である。これはあくまで上茶であって、抹茶と煎茶両方の製法なので、選別によって上下に分け、粉にすれば抹茶、葉のままならば淹し茶、煎じ茶にすれば煎茶なのである」。
 その上で、氏は次のように結論づけています。「本格的な蒸し製煎茶の起源を少なくとも『本朝食鑑』『農業全書』の時代、つまり元禄年間[1688年〜1704年−引用者]と考える」(278頁)。
 大石氏の解釈は、『農業全書』や『本朝食鑑』(後述)の記述にもとづく限り、妥当な解釈だと言えると思います。
 ただし、「本格的な蒸し製煎茶の起源」かどうかまではわかりません。

 ちなみに、1600年前後の宇治茶の栽培や製造の状況が描かれていると言われるジョアン・ロドリゲス日本教会史』にも「新しい葉」、「湯気の中で・・・蒸す」、「木製の焜炉か竈の類 [焙炉]」、「厚い紙 [焙炉紙]」などはすでに登場しています(岩波書店、p.570、[ ]内は訳者による補注)。
 従来、ロドリゲスのこの記述は、あまり注目されてきませんでした。訳注を担当された林屋辰三郎氏も、「ここに説明されている製法は、元文三[1738]年 宇治田原町湯屋谷の人、永谷三之丞が新煎茶法を発明するまで、一般に行われていた釜炒りによる製法である。永谷の新煎茶法は、茶葉を釜の代りに蒸甑(せいろう)で蒸し、揉捻して乾燥させるのである。」(同上、p.571)と注釈しています。
 ロドリゲスの原文を確認していませんので正解はよくわかりませんが、もし釜炒り製法ならば、なぜ「湯気の中・・・で蒸す」という言葉が登場するのかがわからなくなります。



「湯びく茶」の摘採・製茶法
原文(翻刻)


 「湯びく茶の事。葉漸くふとりて、若葉の分残らずつミとり、に湯をにやしをき、手の付たるにて、生葉を半分入れ、熱湯<にへゆ>の中に入れ、箸にて上下かきまぜ、箸にひたひたと付時、半切に清水<よきミず>を入れをきて、ゆびきたるを、水の中に入れ、冷やしてよくしぼり、少しかハかし、やがてほいろにかくべし。右の極よりハ、火をつよくするなり。又早稲わらのあく、山灰のあくにて、ゆびくもよし。さ湯の時ハ、かき灰を少、湯に入れれバ、色青し。湯いかにもよくたぎらざれば、茶の出来よからず。色もあしし。籠二つにて取替取替湯の中に漬る間、一二三と常の拍子にかぞへて、上るを先定るしほとハするなり。茶のわかきと、老たるによりて、少のさし引ハあるべし。ほいろにかけ上て、とをしにかくる事、四五へんなるべし。」(日本農書全書13『農業全書』、86頁)

現代語訳


 「湯びき茶の製造法・・・・・若葉がようやく大きくなってから、若葉を残らず摘みとり、に湯をたぎらせておいて、柄のついた二つに生葉を半分ほど入れ、まず一つを熱湯の中に浸す。箸で上下にかき混ぜて、葉がひたひたと箸につくとき、浅いにきれいな水を入れておいて、ゆがいた生葉をこの水に入れて冷やすのである。これをよくしぼって少し乾かして、やがてほいろにかける。この場合は、蒸し茶の極上の場合よりは火を強くする。また、早稲わらのあくや木炭のあくでゆがくのもよい。何も入れない白湯のときは、かまどの灰を少し入れると、葉が青くなる。湯はできるだけよく煮立っていないと、茶の出来ばえがよくないし、色も悪い。籠二つを互いにとりかえとりかえして湯に漬けるのであるが、その時間は普通の調子で、ひい、ふう、みいと数えてから上げるのを一応定まった漬け加減としている。ほいろにかけて干しあげてから、四、五回もにかければよい。」(日本農書全書13、同上)


「煎じ茶」の摘採・製茶法
 原文(翻刻)


 「煎じ茶わか葉、古葉残らずつミ取て、あくにてざつと湯がき、是も冷水にてひやし、よくしぼりあげ、莚に広げ干し、少汁のかハきたる時、莚の上にてもミ、或縄莚を作り、其上にて、あらくもむ事、三遍ばかり、さらさらと干たる時、とをしにかけをくもあり。つよきほいろにて、あげ火を一遍取たるハ猶よし。其後俵に入れ、収めをくべし。たて一本と云ハ、六貫目なり。一斤ハ、弐百五十目也。凡一本の価銀廿目。是中分のねだんなり。大抵の茶園一段に三十本ある事、是中分なり。しかれバたて三十本の代、五六百目程ありと知べし。」(日本農書全書13『農業全書』、87頁)


現代語訳


 「煎じ茶の製造法・・・・・今年出た若葉古い葉も残らず摘み取って、あくを入れてざっと湯がき、冷水で冷やしてからよくしぼり上げて莚に広げて乾かす。少し乾いたとき莚の上でもみ、あるいは縄莚を作ってその上で三度ばかり荒くもみ、さらさらに乾いたときに篩にかける方法もあるが、よりよい方法としては、もんだ後に強火のほいろで一度あげ火にかけることである。その後、俵に入れ納めておく。この俵にしてたて一本というのは一俵のことで、六貫入りである。この場合、一斤は二百五十匁である。一本(俵)の値段は銀二十匁というのが普通である。たいていの茶園では一反に三十本(俵)の収量はある。これも普通の収量である。したがって三十俵の代金は銀五、六百匁くらいはあると思ってよい。」(日本農書全書13『農業全書』、87頁)
 この「煎じ茶」の記述は重要です。なぜなら、まず、湯がいて「莚」や「縄莚」で荒く揉む製法や、その後「ほいろ」にかける製法が登場しているからです。
 『陸前高田市史』に記述されている気仙茶の製法の一つ、つまり、湯がいて莚でよく揉み助炭で乾かしながら揉む製法とも似ていますね。若葉も古葉も摘んだ時に、この製法が用いられたのでしょうか。

 先に引用した中村羊一郎『番茶と日本人』の「北限の茶に宇治の製茶技術を見る」の節では、檜山茶で使用されていた「もみ盤」の歴史的意義を考証する際、『広益国産考』(1859年)の「刈茶」の「大鍋で煎」った後に「縄もてこしらへたる上にてもむ」という記述を参照していました。しかし、この『農業全書』(1697年)の「煎じ茶」の記述については、「縄莚」が登場しているにもかかわらず、中村氏はふれていません。『広益国産考』の著者自身が「茶の植え育て方、製法については、『農業全書』に詳しいので、・・・・ごらんねがいたい」と注意書きをしているにもかかわらず、です。なぜなのでしょうか。
 また、『番茶と日本人』では、「北限の茶に宇治の製茶技術を見る」の節だけではなく、全体を見わたしても、『農業全書』の「湯びく茶」と「唐茶」についてはごく簡単に参照していますが、永谷宗円以前の元禄時代の「宇治の製茶技術」の水準を記していると考えられる「上茶」については参照していません。




「唐茶」の摘採・製茶法
 原文(翻刻)


 「唐茶をこしらゆる事。異なる事なし。唐なべ取分よし。へついを、うしろ高にぬりすへ、土壇の上をバ紙にてはり、さてつミたる生葉を、なべの大小にしたがひて、一二升其上にても入れ、いかにも火をぬるくして、ひたと手をとめずなで廻し、鍋のはだに、なで付つけ、なで返して、しなしなとなりたる時、ござか、ふくい莚手嶋など和らかにて茶のくだけぬ物の上にて、そろそろともミ、よき程もめたる時、又に入て、前のごとく、手をとめず、なで廻し、しばしにて上て、莚の上にてもむ事、以上五六遍。鍋に入る事、七八度なり。四五度煎てハ、葉はしやぎ、くだくるゆへ、もむ事ハ大方四五遍にてやむべし。煎事ハ、いかにもぬるき火にて、度数いりたるかにほひもよく、湯に入れたる時、よく出る物なり。火のぬるきほど茶もへらず。
 さて、上中ともかくにかくのごとくよく煎て、壺に入れをく事宇治茶とかハる事なし。唐茶もよく肥たるさかりの園にて、わか葉の別儀以上の葉をつミて仕立たるが、風味<あじ>香ひまでも各別よし。痩地のこやし疎かなるを煎たるハ、出し茶にハ取分宜しからず。春早く巻葉の時つミたるハ、煎て雀の舌のごとく、又針のごとし。是唐茶の極なり。唐人も甑にて蒸すとあれば、煎ばかりにてハなく、挽茶を用ゆる事もありと見えたり。」

現代語訳


 「唐茶の製造法・・・・・葉を摘みとるまでは前記と別に変わったことはないが、製茶にはを使用する。銅鍋は特によい。まず、後ろを高めに塗ったかまどを作り、肩の土面に紙をはっておく。そうして摘みとった生葉を鍋の大小に応じて一、二升あるいはそれ以上入れ、できるだけ火をぬるくして、手をとめないで、茶の葉をぴったりと鍋の肌になでつけなでかえしているうちに、葉がしなしなとなったときにひき上げて、ござシチトウ莚てしま莚など柔らかで茶の葉が砕けないものの上でそろそろともむ。よい具合にもめたときに、またに入れて前のように手を休めないでなでまわし、しばらくしてに上げてもむ。これを五、六度くりかえす。鍋に入れるのは七、八回になる。もっとも、鍋で四、五度も煎ると葉が乾いて砕けるので、もむのは普通は四、五度でやめるのがよい。煎るさいなるべくぬるい火で回数を多くかけたものが香りもよく、湯に入れたときに茶の出がよいものである。また、火がぬるいと葉の量も減ることが少ない。
 こうして、上茶、中茶ともによく煎って壺に入れておくことは、宇治茶と同様である。唐茶も、よく肥えた生育盛りの園で、『別儀』になりそうな葉以上のよい若葉を摘んで精製したものは、風味や香りも格別によい。痩せ地で、しかも肥料を充分やっていない園の葉を煎ったものは、煎茶としては特によくない。早春に、まだ若葉がまだ巻いているときに摘んだものは、煎ると雀の舌のように、また針のように細くなるが、これが唐茶の極上のものである。
 唐人も『甑にて蒸す』と記しているので、煎るばかりではなく(蒸して)挽茶にすることもあると思われる。」

 当時の唐茶=釜炒り茶は、味や香りも格別によく、高級品だったことがわかります。


 最後に、『農業全書』の「上茶」の理解のために、人見必大『本朝食鑑』(1697年刊)を引用しておきます。元禄年間の宇治茶やその製法を把握するためには、欠かすことのできない必読文献です。
人見必大『本朝食鑑』(1697年刊)


 「芽茶を造る法に、まず新芽を摘み、板の上に攤(ひろ)げ、上下の二品に撰別し、上を極とし、下を煎茶とする上下を同じく蒸す。先ず稲草(わら)で輪を作っての口に設置し、この草輪(わらのわ)の上に竹の篩を置き、甑(こしき)とする。篩目の大きさは米篩の目くらいにする。その篩の中に摘んだ茶の芽を入れ、芽が重ならぬようにして、釜の中の沸いた湯の気で蒸す。竈の火が少ないと、釜の湯は沸かずに、茶の芽が焦げる。竈の火が強過ぎると、釜の湯が涌き溢れて、これもまた佳くない。但(ただ)釜の湯は沸いて溢れず、竈の火は熾えて烈しからずという状態が好い。蒸す折は、時計で度を量る。あるいは、物の数を計えて度を量る。したがって、造茶の家では、その蒸す度を深く秘めて、漫(みだり)に伝えないのである。
 芽を蒸しおえると、木の盆に放げて、団扇で舒々に煽いで冷ます。芽が冷めおわると、焙籠(ほいろ)を用意し、を敷き、芽が重ならぬようにして、火の上で焙り、手で攤(よじ)る。火かげんは、慢(とろ)くなく烈しくなく、二回ほど手で攤ってみて熱を覚える程度にする。少頃(しばらく)そうして後、籠の中の一処に芽を聚(あつ)め、竹の箸で静かに攤り、芽がほど好くなった時、慢火(とろび)の上の焙籠に移し、静かに攤る。こうして芽を焙(あぶ)りおえると、箕で簸って塵芥や焦色の破損た芽を除去き、その好い芽だけを取って、またさらに竹の箸で好い芽の中にまじった悪い芽を除去く。芽を簸いおえると、九種類の篩で次第に篩っていく。第九品の篩になると、篩目は極めて細かく、これで芽を破砕さぬように篩う。篩目を落ちないものは、軽く手で摺り落とす。こうして芽を篩いおえてから、再び馬の尾の篩で粉末を飛ばし去り、雉の羽を択んで、七品を分定する。七品とは、鷹の爪・柳葉・浅黄葉・薄葉・金葉 焦芽である・骨・蛍の尾(以上、茶の種類名)のことである。」
(人見必大・島田勇雄訳注『本朝食鑑2』東洋文庫312、平凡社、120-121頁)

 大石貞男『日本茶業発達史』(2004年、農文協)は、以下のように解しています。
 「これは元禄時代の蒸製芽茶(碾茶、煎茶)のほとんど完ぺきな記述である。彼によれば、芽を上下に分け、上を極(抹茶)とし、下を煎茶とするのである。しかも、九つの篩を使い製品を七品に分け、下のほうは金葉、焦茶、骨、蛍の尾などにするところをみると、番茶から茎茶などまで分けるようである。そして末にするものが抹茶であり、煎じて飲むか、淹し茶にするものが煎茶・番茶なのであろう。しかも、焙籠に紙を敷き、火の上で手でよじるとある。これは形も煎茶に近くなるが、ただ近代の精巧な手揉みとはちがうだけである。」(p.270)



 今回のブログのテーマの範囲を超えてはいますが、『本朝食鑑』は、茶の銘柄ランキング別の施肥量について、詳しく述べています。元禄時代すでに、高級な宇治茶であればあるほど「人糞」を多投して栽培されていたことを示す興味深い記述です。以下、引用します。


 「苗が一尺にあまるころ、初めて茶の根に糞(こえ)をする。糞は馬糞・夏草の類である。根の辺の土を発(はら)って糞を入れる。後一日経ってから土を覆う。苗が長くなってから三・四年経って芽を摘むわけであるが、その摘芽の歳になると、人糞で培養(そだ)てる。その糞は、先ず大きな磁の甕の中に人糞を入れ、次に水を合えてかきまぜ、また油滓・乾鰯をも合えて、一日に二・三回しきりに撹拌ぜる。十四・五日経(お)いて、これを腐熟(くさら)せ、すっかり熟(くさ)ったら使用する。茶の新芽の極上を白といい、その次を極詰(ごくつめ)といい、別儀詰(べちぎつめ)といい、極揃(ごくぞろえ)といい、別儀揃(べちぎぞろえ)という。上揃というのは下品の部類で、最も下品なものは煎茶という。
 白芽の茶園では、糞は秋・冬のうち、春になるまでに七・八回、臘月(十二月)に最も多く糞をやって培養てる。極詰・別儀詰の茶園では、糞をやるのは四・五回。極揃・別儀揃の茶園では、糞をやるのは二・三回。上揃・煎茶の園では、糞をやるのは一回である。
 大抵、茶園は春の霜・余寒の気を警戒する。そのため、葦蘆を編んで箔(すだれ)を作り、それを緻密にして、日影を漏らさぬよう注意する。節分の後四十八日めに、箔で茶の樹の上を覆うのであるが、屋簷(いえひさし)の形のようにして、霜・雪・風・雨および八十八夜の気を避ける。既に八十八夜を過ごせば、覆箔を除去く。・・・・」
(人見必大・島田勇雄訳注『本朝食鑑2』東洋文庫312、平凡社、117-118頁)
 それにしても、宇治茶は<贅沢>な茶です。従来、宇治茶の歴史研究者たちは、覆下茶園の起源に焦点を当ててきましたが、宇治茶が多量の「人糞で培養てる」茶だったことはもっと強調されてよいと思われます。もちろん、今日では、「人糞」ではなく、有機肥料ですが。
 なお、覆いは、「霜・雪・風・雨および八十八夜の気を避ける」ことを目的に設置されたと書いてあります。


(続く)