陸前高田 小友浦

 気仙茶の会のOさんが「小友浦 夕日ツアー」に連れて行ってくださいました。

 津波の爪跡がまだまだ残る小友浦。


 よく見ると、枯木に漁具が引っかかっています。

 養殖イカダがもっともっと増えますように。


 小友浦干拓地の方面をのぞむ

 小友浦周辺で進められている干潟再生計画についてはこちら(岩手日報2014年2月28日付)を参照。
 震災後に実施された干潟再生の可能性調査については、こちらの吉野真史・伊藤靖・千葉達「東日本大震災地盤沈下区域における干潟の再生と生物多様性の検討」(漁港漁場漁村総合研究所『平成24年度 調査研究論文集』No.23)を参照。


【参考(1)】

下の写真は2012年2月に撮影


下の写真は2013年7月に撮影

下の赤い部分が、東日本大震災による津波の浸水地域。

両側から津波が押し寄せぶつかり、小友町は甚大な被害を受けました。国土地理院「浸水範囲概況図」より転載。

 戦後の歴史をみると、ノリ養殖→県が干拓地造成工事・堤防建設工事→チリ地震津波で浸水→堤防復旧工事→稲作生産組合を結成し開墾・耕作→広田湾開発計画(小友浦を埋立て、工業コンビナート建設)とその頓挫→市が用地買い取り→レジャーランド構想→東日本大震災で浸水→ 引き堤と干潟再生、後背農地の再生を計画....。
 時代の変遷とともに、かなりの紆余曲折を経て来た小友町三日市周辺。
 津波や国策、時代状況に翻弄された三陸沿岸の地域経済の歩みを凝縮したような場所だと思いました。


【参考(2)】
 小友町の三日市には「気仙茶の会」が再生をすすめている茶園があります(こちらのブログ記事を参照)。また、小友の漁師さんとも日頃から懇意にさせていただいておりますし、両替には正徳寺さんという浄土真宗の寺院もあり(境内には茶の樹もある!)、腕の良い気仙大工をたくさん輩出してきた地域なので、「昔の小友村は、どんな地域だったのか」と、前から気になっていました。
 そこで、今回、一橋大学経済研究所に所蔵されている巖手県農会「巖手県気仙郡小友村々是調査 大正三年九月」を入手し、小友村について少しだけ調べてみました。


 この「村々是調査」に所収されている100年前の小友村の略図。地図の上が南で広田方面、下が北で箱根山方面です。

(クリックすると大きく表示できます。)
 当時は「三日市浦」と呼ばれていたのですね。反対側は「只出浜」。
(出所)巖手県農会「巖手県気仙郡小友村々是調査 大正三年九月」(一橋大学経済研究所附属社会科学統計情報研究センター所蔵、書誌情報や複写方法はこちら)

 この「小友村々是調査」の「第一部 総説」「四、土質及水利」には、下記の記述があります。


 「南面セル北部ノ大部分ハ 砂質壌土ニシテ 北面セル南部及中央部ノ田地ハ 悉ク腐植質壌土ヨリ成ル
 水田反別ハ 百三十一町歩餘ニシテ 水源ニ乏シク 全反別全々天水ニ俟ツノ外ナキカ故ニ 従来村内十九ヶ所ニ溜池ヲ築設シ(村有ニシテ面積六町八反二畝廿八歩)辛フシテ耕作シツツアリト雖モ 旱天十日ニ及ヘハ惣チ田面ニ亀裂ヲ生シ 収穫ニ多大ノ影響ヲ蒙ルコトアリ」(p.4)


 「第二部 経済」の「(甲) 総収入」には、下記の統計表があります。

(pp.21-34より作成)

 出稼職工が持ち帰る賃金収入額を反映している(と思われる)「工業労働収入」、中でも「大工」の収入は、注目に値します。「水産収入」全体よりも、「大工」の収入のほうが大きいです。
 また、この「村々是」の統計は、大工の収入が小友村の総収入に占める割合を知ることができる貴重なデータです。
 「村々是」は、ほぼ統一的な調査項目・集計法にもとづいて作成されているので、他村とも比較可能です。今日の「村民所得」みたいなものだと言えます。

 この資料には、大工の数は「168戸」、木挽「17戸」、左官「15戸」と記されています。大正二年の小友村の原籍戸数は「417戸」、現在戸数が「381戸」ですから、同村には、多くの世帯に大工が存在していたことがわかります(p.4)。

 また、「労働収入」の漁業出稼をみると、「大網稼」の数は「40人」、「鰹船稼」が「20人」、「遠洋漁船雇」が「5人」です(p.30)。
 なお、「水産収入」のベスト3を書き出すと、「鰛 2,250円」、「鰹 1,554円」、「鮫 1,032円」です(pp.27-28)。
 (今後、上の表を完成させていきます)



 「第三部 産業社会状態」「二、産業状態」「(イ)、各業種配合ノ状況並ニ其変遷」には下記の記述があります。


 「次二 各職業別戸数ノ変遷ヲ見ルニ 専業漁業者ト商業者ハ 著シク減少セリ
 海嘯以前ハ 相当ノ漁獲物モアリ 従テ海岸部落ニ於テハ 経済豊カニシテ 商業亦相当営マレタリシカト 海嘯以来衰退甚シク 漁業者爲メニ農業ヲ専業トスルニ至リ 商業亦廃業ノ止ムナキニ至レルモノアリ
 其後 村ノ中央ヲ県道貫通シ 沿道所々ニ商店ヲ見ルモ 産業組合ノ設立ニ依リ漸次閉店者ヲ生ジツツアリ
 出稼職工ハ 従前 出稼区域至ッテ狭ク 東磐井郡宮城県地方ニ止マリ 相当ノ収入ヲ得テ 一年二回帰郷スルヲ例トシ 経済従テ豊カナリシト雖モ 労働区域頗ル廣ク 南ハ臺灣ヨリ北ハ樺太二及ヒ 現時 其爲メニ帰郷者減少スルニ至リ 収入多シトスルモ 一家ノ収入ハ甚シク減少セリ
 之ヲ要スルニ 本村ノ状態ハ 耕地面積ノ割合ニ人口多キヲ以テ 男子ノ職工出稼多キハ 蓋シ 自然ノ然ラシムラ所ナルベシト雖モ 本村ノ基礎タル農業ハ爲ニ婦女子ノ手ニ依リテ営マルルガ故ニ 之ガ改良頗ル至難ノ業ニ属セリ」(pp.46-47)

 「海嘯」(津波)とは、明治三陸津波(1896年、明治29年)のことを指すでしょうか。
 津波の以前の小友村では、漁業が盛んで相当の漁獲物があり、経済的に豊だったが、津波後には漁業者が著しく減少した、と書かれています。
 また、(大工など)出稼ぎ職工は、以前は、出稼ぎ範囲も狭く東磐井郡宮城県内にとどまっていて、1年に2度は帰郷していたため家計も経済的に豊かだったが、最近では、出稼ぎ地域は南は台湾、北は樺太にまで及んでいたため、帰郷者が減少するようになり、村の家計収入はかなり減少したようです。


 気仙大工出稼研究のパイオニア的労作である川本忠平「気仙大工出稼の移動範囲と距離的性格の一考察」(岩手大学学芸学部年報第3巻、1952年、pdfはこちら)によれば、大正年間は「気仙大工出稼の最盛期」です。東北本線開通、戦争とそれによる好景気、関東大震災からの復興需要などにより、新たな労働需要が生まれ、気仙大工出稼の移動範囲が広域に拡大しました。
 また、氏によれば、大正3年9月には、小友村にて建築講習会が始められ、毎年8月か2月に、大工養成の研究会が行われていました(pp.113-114)。



 第三部「四、社会状態」「(五)、貧富ノ懸隔 並ニ 其ノ変遷理由」には下記の記述があります。


「本村農家ヲ上中下ノ三級二区分シテ其状況ヲ調査スルニ 上級農家ハ多少会社ノ株券等ヲ所有シ土地以外ノ収入アルヲ以テ年次発展シ行クカ如シト雖モ 中級農家単ニ土地ノ収穫物ニ依リテ総テノ費用ヲ支払シ平年ニアリテハ其不足ヲ見ズ現状維持シ得ルモ 凶年ニ際スレハ公課並ニ其他義務支出ハ之ヲ借金ニ仰グ者アリ
 下級農家ニ於ケル男子ハ 多分大工、木挽、左官其他ノ労働出稼二従事シ 年二回多少ノ賃金ヲ得テ帰来スルカ故ニ 特種窮民ヲ除クノ外ハ 却テ 家政 中農ニ比シ安ラカナリ
 是レヲ要スルニ 本村農家ハ 其員数ニ於テ 上級下級ハ減ジテ 中位ニ集中スルノ傾向アリ 然レトモ 其中農家ハ 公課及義務支出カ総テ土地本位ナルト 雇傭者ハ賃金高キコト 並ニ 近年頻々タル凶作トニ依リ 現状維持ニ困難ヲ感スルコト多キカ如シ」(p.58)
 下級農家の男子の多くは、大工、木挽、左官など出稼に従事し、年2回、そこで得られた賃金をもって帰郷するので、下級農家の家計状態は、中級農家の状態に比べて、安定していた、と記されています。



 また、「村是」の「第一 生産的方面」「八、三日市浦ノ利用」には、下記の提言があります。


「水産養殖並二埋立地トシテ三日市浦ヲ利用スルコト
 而シテ 十ヶ年後二於テハ 年々少クトモ一千圓ノ利益ヲ上クルコト」(p.62)。


 「気仙郡小友村々是調査」は全66頁からなり、これを読むと、100年前の小友村の経済社会の状況がよくわかります。複写したものが手元にありますので、閲覧希望の方はご連絡ください。

 なお、岩手県農村の村々是調査については、三浦黎明「大正初期岩手県農村の分析―『岩手県江刺郡藤里村々是調査』を中心に―」(東北学院大学『経済学論集』第177号、2011年)が詳しい(こちら).