陸前高田合宿レポート (9) 〜米崎りんご、仮設住宅の子どもたち

木村 (4回生)
1.米崎リンゴの作業(1日目午前)
 これから台風の季節到来ということもあり、りんごの木を風から守るためのネット張りの作業をした。

 ネットを張る作業は、ネットを伸ばして数か所止める、を繰り返していくものだったが、大人数で行ったため、スムーズに進んだ。

 リンゴの木の枝は上に伸びているのではなく先端が下の方へ下がっていた。

 菊池会長曰く、枝を手の力で下に抑えて勢いを弱めることでリンゴに栄養がいき、甘くなるそうだ。
 また、形の悪いもの(トマトのような、横に楕円形のものなど)は“ピン子”といって、小さいうちに獲ってしまうらしい。
 リンゴの木の下には、その“ピン子”がいくつか転がっていた。


 また、リンゴを赤く色付かせるために、リンゴに触れている葉を切り落とす作業も行ったが、これがなかなか難しいものだった。
 切り落としてもいい葉は最大3枚まで。
 葉を取り過ぎてもダメとのことだった。

 たくさんなっているリンゴを1つ1つ見ては葉を切っていく作業は根気のいるもので、リンゴを綺麗にくするためにこんなに作業があることを初めて知った。
 日本人は見た目をとても気にするため、全体を赤くしなければ良いリンゴとして認めてもらえないそうだ。
 この作業をしている時、昨年台風で多くのリンゴがダメになったということを思いだした。
 木を育て、ネットを張り、リンゴ1つ1つを見て丹精込めて育てたリンゴが一夜にして落ちてしまう、傷がついて売り物にならなくなってしまうことの悔しさはどれほどのものだったのだろうか。
 私ならば、「もう絶対やらない!もういい!」と投げ出すに違いないと思った。
 今年こそは綺麗に真っ赤になって化粧箱に入ってほしい。


2.歓迎会(1日目夜)
 菊池会長のお宅で、伊達ゼミ歓迎会を開いて下さった。
 気仙茶の会メンバーをはじめ、会長のお知り合いの方々も集まってくださり、海の幸を頬張り、キンキンに冷えたお酒を飲み、笑いながらいろいろなお話をした。

 私はIさんの隣に座り、恋愛や婿の選び方など、人生の先輩から多くのアドバイスをもらった。
 体はがっしりとされていながら優しさのある素敵な笑顔のIさんも、震災で長男を亡くされている。
「人間には切り替えが必要だ。」
とおっしゃっていた。
「いつまでも落ち込んでいてはダメだから」
と気持ちを切り替えて生きていこうとされていた。

 お孫さんの成長を嬉しそうに話してくださった。


 Iさんの奥さんは、「切り替える」なんてことはまだまだ難しいようだった。
「男と女は違う。腹を痛めて産んだ子だから、母ちゃんは切り替えれんみたいだ。」
とIさんはおっしゃっていた。

 わたしたちの前では、
「飯炊き女は、いつもの通り、前だ〜!」と、奥さん同士で話しながら明るい笑顔で一番前に座り、一緒に写真を撮ってくださったが、悲しみや苦しみを背負っておられるのだと思うと、私も辛かった。
 大切な息子を亡くされた悲しみを「切り替える」ということは、男でも女でも、できるものではない。
 たくさんの葛藤があって、「切り替える」という言葉を他人に口にすることだけはできるようになった(自分の心の中では「切り替える」ことはできない)、という意味なのかもしれないと思った。

 
「結婚したら、絶対オラに紹介しに来い!」
と、Iさんは言ってくださった。
 その時がきたなら、必ず約束を守りたいと思う。







3.仮設住宅での再会(2日目)
 初めて陸前高田に行った時からの友達に会うことができた。
 1年でとても成長して、お姉さんらしくなっていた。
 みんなでミサンガを作ろう!と、刺繍糸でそれぞれが好きな色の糸を選んでミサンガを作った。
 最初のうちはみんな集中して静かだったが、慣れてくると、話しながら作り進めていっていた。
 学校のことや、好きな人の話、最近あったことなど、たくさんのことを教えてくれて、かわいい妹ができたような気分だった。
 完成するととてもうれしそうに足や腕に着けていた。
 1本作るのもなかなか集中力と時間がかかるが、プレゼントの分まで作っていて、子供の集中力に驚かされた。

 その後は、縄跳びや倒立の練習など体を使って遊び、夕方までたくさん遊ぶことができた。
 私たちが帰るときには、
「また来てね!!」
といいながら、手を振って笑顔で見送ってくれた。
さよならがとても寂しかった。


 ミサンガ作りのときには、仮設にお住まいの裁縫の得意なあ母さん2人も参加してくださり、さすがの器用さで、売り物のようなミサンガを完成されていた。
 その後も話に花が咲き、旅行先の写真や、今まで来られた神戸大のボランティアの方との写真などを見せてくださり、一緒に写真も撮ってくださった。
 そのお母さんは、私たちの帰り際に、アツアツの芋ごはんをくださり、我慢できずにすぐ一口食べてしまった。
 ほくほくのサツマイモが入ったご飯は本当においしく、お母さんの温かさを感じた。


4.車屋酒場さん(2日目 夜)
 車屋さんで、幸運にも陸前高田市長にお会いし、話しをさせていただいた。
 戸羽市長さんの体験は、とても辛く、自然と涙が出てくるものだった。
 震災当日、市長ご自身、津波が防潮堤を越えることは想定外で、津波の威力も凄まじいものだったそうだ。
 市役所の階段を必死に駆け上がり、2階に着いて後ろを見ると、水がきており、さらに3階へ上がって後ろを見ると、まだ水がきていた。
 4階を越え屋上に上がり周りを見ると、家も人も ものすごい勢いで流されていくのが見えた。
 ほんの5メートル先に、
「助けてくれえ…」
と叫びながら、流れていく人の姿があった。
 手を伸ばせば届きそうな距離だったが、でも助けることができない。
 その時、言葉に表せないほどの、自分の無力さを思い知らされた。
 そうおっしゃっていた。

 市長の奥様も震災でお亡くなりになり、学生の息子さん2人と暮らしておられる。
 市長と言えど、家に帰れば父親なので、毎朝息子のお弁当を作っているそうだ。
 「陸前高田の今をもっと多くの人に知ってほしい。実際に見て伝えてほしい。以前、学生さんから『フリーマーケットを開いて、その売り上げ20万を寄付したい』という話をいただいた。気持ちはとてもうれしいし、お金もとてもありがたい。しかし、もしそのお金を学生さん自身が使うことができるのであれば、1人でも2人でもいいから、実際に陸前高田に来て、見たもの感じたことを周りの人に伝えていってほしい。」
とおっしゃっていた。
 それは本当に私としてはうれしい言葉だった。
 
陸前高田にボランティアに行く」
と、友人やバイト先の人に話すと、
「今ごろボランティアってなにするの?」、
「その交通費や宿泊費を送ったほうがいいんじゃない?」
と言われることがあり、そう言われると私自身も、
『私が行ってどれほど役に立てているんだろう』
と思う時があった。
 しかし、見たこと、感じたこと、現状を伝えることは私にもできる。
 私が陸前高田に行く価値はあると思えた。
 ニュースに取り上げられることも、世間の関心も薄れだしている現在、陸前高田の復興の状況や、陸前高田に日々頑張っている方がおられることを、身近な人に、またSNSでさらに多くの人に伝えていくことが、少しでも陸前高田のためになると思うと、本当に来てよかったと思えた。


 車屋の大将ともたくさんお話させていただいた。
 市長と熊谷さんとの会話で印象的だったのは、被災者の危機感の低下だった。
 熊谷さんは消防団員なので、余震で津波の危険があると、夜でもサイレンを鳴らして住民に危険を呼びかけているが、震災から3年半という月日が経ち、住民から、
「サイレンの音がうるさい」
「何時だと思っているんだ」
と、苦情が来るようになったそうだ。
 3年半前に津波で多くの人が亡くなったにも関わらず。

 熊谷さんは、
「どんなに苦情が来たとしても、オオカミ少年と呼ばれたとしても、津波の危険は知らせていかなければならない。あの時も、あんな津波が来ることは予想できなかったのだから。」
とおっしゃっていた。
 あの悲劇を繰り返さないためにも、震災のことをしっかりと伝え、恐怖感が薄れて危機感が低下していくことを食い止めないと、と思った。

 熊谷さんはハイボールを飲みながら、
 「ここに来たのも何かの縁だと思って、卒業してからも、何年後かにまた来てくれよ。その頃は高田の町も綺麗になって、車屋の超高層ビルが建ってるかもしれんからな。車屋ヒルズだな!!60階建にしよう!!」
と冗談も交えつつ、未来の陸前高田を語ってくださった。

 数年後また、この車屋酒場で、大将やゼミ生たちとハイボールを口にしながら、大学時代のボランティア合宿のこと、陸前高田のこと、いろいろなことを話せるといいなと思う。


5.最後に
 今回の合宿は、仮設住宅で大きな催しはできなかったり、高田第一中学校の仮設にいけなかったり、鈴木先生に会えなかったり、いつもとちがう少し寂しいところはあったものの、今までで一番充実していた。

 いつも感じることは、本当に陸前高田はいい人が多く、ボランティアに行っているのに帰るときは、陸前高田の方々への感謝の気持ちでいっぱいになることだ。
 この感謝を忘れずに、恩返しをしていきたい、
 そして、就職しても、機会を作って、陸前高田でお世話になった方々に会いに行きたいと思う。