陸前高田合宿レポート (10) 〜あの日

中川[翔] (3回生)
 9月11日2時46分の黙祷の前後に、ある被災者(Aさん、としておきます)から伺ったお話をここに書き記しておこうと思います。
 まだまだ、記憶ちがい、聞きまちがいの部分があるかもしれません。(例えば、「消防団員」か「消防署員」かを聞き取れませんでしたので、「消防の人」にしてあります)。お許しください。


※※※※※
 Aさんは、左足が悪く、医師に切断を宣告されましたが、
「まだ私は歩ける。絶対に諦めない。」
と思い、手術やリハビリの末、今は歩けるようになりました。
 僕は、
「Aさん、ほんとによく頑張りましたね〜。今度、一緒に散歩に行きましょうよ」
などと話していました。

 そして、2時46分になりました。

 静かに手を合わせ、黙祷をしました。


 黙祷を終えた後、少し静かな時間が過ぎ、Aさんが、優しい、でもどこか悲しげな表情で、僕に、
 「私は、津波で足を悪くしたの…」
とおっしゃいました。

 僕は、心が苦しくて、ただ、Aさんの眼を見ることしかできませんでした。

 何も言えない僕に、Aさんは、あの日のことを静かに話してくれました。



 「私は、避難命令が出たとき、体育館に逃げたの。
 体育館に着いて、体育館のちょうど真ん中のほうで床に座った時は、津波が来るなんて思ってもみなかった…。
 少しすると、片方のドアのところで、消防の人が、
津波が来るぞ‼ 市役所のほうに逃げろ‼ 』
って叫んだの。
 私も、すぐに逃げようとしたんだけどね…。
 立つのが遅れて、100人くらいの人に左足を踏まれたの…。
 私が、すぐに立ち上がれないからよね…。
 でも、私は、何とか歩いて市役所に着いたの…。


 体育館に取り残された人や消防の人は、天井に掴まって津波に流されないようにして救助を待っていたそうよ…。
 でも、力尽きて流されてしまう人がいてね…。
 子どもが、
『お父さん、お母さん、ごめんなさい』
と言って、力尽きて手を放してしまったり、
『妻よ、息子よ、ありがとう』
と言って亡くなった人が多くいたの。

 救助を待って生き残った人は、消防の人をいれて3人だけだったの…。


 私は、なんとか市役所について、窓の外を見たの。
 そしたらね、おばあちゃんと、たぶん、お孫さんね…。
 二人で市役所のほうに歩いて来るのが見えたの。
 私は、ドアを開けて中に入れてあげようとしたの…。
 そしたらね、
『こんバカヤロウ!!津波が中に入ってきたらどうする!!』
って、中の人に怒られたの。
 そしたらいつの間にか、おばあちゃんとお孫さんは見えなくなってしまって…。



 市役所の中にも水が入ってきてね、4時間ずっと水の中に体の半分以上が浸かったまま救助を待ったの。
 寒くてね…、怖くてね…。


 そしたらね、消防の人がね、
『今からお前を屋上に投げるから!!そこで、意識があったら“生き残った”と思え。』
って言われて、屋上に投げられたの。
 背中をガーーンって打ち付けられてね。
 でも、そこで、
『あっ、生き残ったんだ。』
って思ったの。


 それから、市役所の屋上で、ストーブ一つ囲んでね、乾パン2個だけ食べて、ずっと救助を待ったの…。
 水なんて一切なくてね…。


 このことを、ずっと言えなくてね…。
 ずっと誰にも話せなかったの…。
 翔太君、来てくれて、話を聞いてくれて、本当にありがとう。また来てね」
 
 ※※※※※

 僕は、もう、頭の中がいっぱいで、目に涙を浮かべながら、ただAさんの手を握って、
「また来ますから。絶対に来ますから。待っててください。」
と言うことしかできませんでした。

 僕は、絶対にまた来ます。

 Aさんに、
「ただいま!!」
と言って、また会いに来ます。


 Aさんが、お手紙と555円を私にくださいました。
「なんで555円なのですか?」
と伺うと、
「ご縁がありますように。5円と50円、そして穴の開いていない500円。ずっとご縁があるように、つながっていたいの。これを、翔太君に持っていてほしいの。」
と言われ、僕の手の中にくださいました。
 うれしすぎて泣きそうになりました。
 これは僕の一生の宝物です。


 Aさんに手紙を書こうと思います。
 手紙に555円と足のお守りを添えて。
 ずっとつながっていきたいから。
 
 
 必ず高田に行きます。

 お話してくださって、本当にありがとうございました。



 今回の合宿で、津波の恐ろしさ、僕たちが想像も出来ない恐怖や悲しみの深さというものを感じました。

 被災者の心の中からそれが消えることはありません。

 たとえその人が笑顔でも、心の片隅のどこかには必ずある。

 僕は、絶対に忘れません。



 僕は、ただ話を聞くことしか、手を握ることしかできないかもしれない。

 それでも僕は、一人ひとりの方と心から繋がれるようになりたい。



 自分に出来ることはまだまだあります。

 行ける限り、足を運びます。

 冬に、またこの最高のゼミメンバーで訪れます。

 陸前高田の皆さん、本当にありがとうございました。

 必ずまた行きます。

【中川による追記】
 陸前高田を訪れ、多くの話をしました。
 本当に皆さん優しくて、笑顔が絶えません。
 私が仲良くなった、Aさんもいつもニコニコしておられます。
 私が、「何か困っていることはありますか?」と聞いても、笑顔で、私と話をするのが楽しい、と言われます。
 Aさんは私に津波の話をして下さいました。
 今まで、ずっと人に言えなかったことを、話して下さいました。
 本当に辛かったと思います。
 人に話をするということは、その時のことを思い出しながら話さなければいけないからです。
 正直、私は怖かったです。
 話を聞くのが怖かったのではなく、話をしているAさんが壊れてしまいそうで怖かったです。
 もし、今、自分が何か質問などをしてしまえば、少しずつ開いていく心に、また、Aさんが閉じこもってしまうように感じたからです。
 Aさんの話が終わって、Aさんの顔を見て、私は涙が出ました。
 今まで見せていてくれた笑顔とは違う、優しくて温かい笑顔でした。
 私は、少しでもAさんの心によりそえ、心を楽にさせてあげられたのでしょうか。
 街の復興などもありますが、心の復興、一人一人に寄り添うことこそが大切だと思いました。


【伊達による追記】

 文中に登場する市民体育館や市役所庁舎では、多くの尊い命が犠牲になりました。
 私たちは、今後、ゼミ生一人一人が「陸前高田市東日本大震災検証報告書」を熟読し、この事実について考えていきたいと思います。


陸前高田市役所 (2012年4月に撮影)



市民会館



市役所脇のスーパー・マイヤ


(2011年4月30日に撮影)


 被災者の方々にとっては、見るのも辛い写真かもしれません。申し訳ありません。
 「陸前高田の人はいい人たちだ」「温かい人たちだ」という学生レポートをたくさん読み続けていると、「陸前高田の方々が、なぜ、今、たくさんの悲しみを抱えながら、仮設住宅に住み続けているのか」という肝心要のことを学生は理解していないのではないか、という焦燥に駆られることが何度もあります。

 また、高田の市街地自体も津波の痕跡がだんだんなくなってきているので、巨大ベルトコンベアだけ見ていると、何でこんなことになっているのか、私自身もわからなくなる時があります。高田に足を運べば運ぶほど、目の前の風景に自分の目も慣れてきてしまっているせいもあると思います。
 私たちの「関心の継続」のために、写真の掲載をお許しください。