◆中村(4回生)
ついに、ゼミ合宿も最後になった。
3回生の春、はじめて陸前高田に行くことになったときの「ボランティアをするぞ!」という意気込みは、回数を重ねるごとになくなっていた。
どちらかというと、車屋酒場の熊谷さん、仮設の子どもたち、菊池会長、今まで会った人々が、これまでと変わらずに元気でやっておられるかどうかの方が気になって、「また会いたい」とか、「お店に行きたい」とか、そんな気持ちでいっぱいだった。
一日目の飛行機、バスを乗り継いで陸前高田市役所前に着いたとき、なんだか懐かしく、そしてほっとした気持ちになった。
たぶん、今まで、この土地の人たちに暖かく向かい入れてもらい、お世話になったからだと思う。
しかし、少し考え込むこともあった。
それはバスの中から見えた沿岸部に張り巡らされたベルトコンベアだ。
景観も考えずに効率のみ重視した結果なのだろう、威圧感のある人工物になっていた。
このベルトコンベアのおかげで10年以上かかる作業が3年半でできるらしい。
良いことなのか悪いことなのか、私が判断できることではない。
でも、復興を成し遂げるためには途方もなく長い道のりが待っていることだけは、私にもわかった。
まだまだ長い期間、大型トラックが通るのか・・・
以前来たときと変わらず、子ども達は外で自由に遊べないだろうなぁと思いながら鈴木旅館へ向かった。
-米崎りんご-
次の日、私のグループは、菊池会長のところでリンゴ農園のお手伝いをすることになっていた。
楽しみにしながらいくと、リンゴ園の脇にネットをつけていく作業が待っていた。
非常に簡単な作業だったのですんなりとできたが、いつもは少人数であの作業をやっていると考えると多大な労力を使う作業だと思った。
後で聞いた話だが、このネットは風(主に台風)でリンゴが落ちてしまう被害を少なくするために行う作業らしい。
またその流れで、リンゴに被っている葉を取り除く作業をした。
葉が被っているところ以外がきれいな赤色をしており、葉が被っているところが緑のままだった。
なので、葉を取り除くことにより、光を浴びさせ、色を付ける。
だが、何も考えず、葉を取り除けばいいという訳でもない。
なぜならば、葉を取り除くと甘くなくなり渋くなっていくからだ。
また、いきなり実全体に光を浴びるように葉を取り除いてしまうと、日焼けするらしく、その調整が難しかった。
りんご、ひとつひとつの世話をしていくのは本当に大変なことだと思った。
これで午前の作業が終わり、午後からは、夜に行われる気仙茶の会主催・伊達ゼミ歓迎会の買い出しに車で行った。
目的地は気仙沼だ。
市場でカツオを買う。
道は山道だったが、走っていると、津波の到達点が示された看板がいくつかあった。
防災の意味、後世に伝える意味で設置されているのだと思うが、これを見る度に被災者は複雑な気持ちになるだろう。
気仙沼に着くと、景色がきれいな漁港が広がっていた。
漁船も所狭しと並んでおり、賑やかそうな感じがした。
でも、反対側に目をやると、震災当時からほとんど変わっていないであろう建物の土台が残っていた。
それでも、市場はとても活気があった。
購入したカツオも、店員さんが電話対応におわれ、中々会計をできなかったぐらいだった。
カツオを買ったあと、菊池会長が、旧市場を案内してくださった。
震災の影響で10店舗以上が市場から姿を消したらしい。
市場に入ると、大きな声が聞こえてきた。
鮮魚を売っているお店だ。
ほかにもお土産物屋、軽食を売るお店など数店舗あった。
しかし、お店の数が少ないこともあり、旧市場はとても広く感じたし、奥に進むと人気がなく静かだった。
旧市場の見学が終わると、菊池会長宅に戻り、BBQの準備をはじめた。
ホタテやイカなどが届き始めた。
まさに「海の幸」。
BBQが始まると、ホタテを届けてくださったSさんが、ホタテを誇らしげに焼いていた。
それを見て気づいたことがあった。
陸前高田田で、一度も「海のことが嫌いだ」という人に会ったことがない。
海があるから、地震も起こるし津波も来る。
あれだけの生命・財産を奪っていった津波だ。
私なら、一生海を見たくなくなるだろうし、その場を離れて生活するだろう。
しかし、陸前高田の海は「海の幸」を恵んでくれるし、美しい景色を形づくってくれている。
小さなころからここに暮らしてきた地元の人にとっては、いろいろな思いがあるだろう。
そう考えると、まさに、この地域では、人びとと海とは「共生」して生きてきたんだなぁと感じた。
-仮設住宅-
翌日、仮設住宅班の一員として、活動した。
私は、男一人ということもあり、非常に不安だったが、「仮設に男の子がたくさん来てくれたら問題ない」と言い聞かせながら、向かった。
仮設住宅の集会場で、女の子たちとミサンガを作るらしい。
そこで、私は、「今日は俺の出る幕がないなぁ」と悟った。
仮設に着くと、集会所で住民の方々が料理教室をされていた。
私たちはその間に集会所の前で、ミサンガづくりの下準備をしていた。
すると、料理教室に参加されていたSさんとYさんが、
「一緒にミサンガを作りたい」
と言ってこられた。
もちろん、参加してもらうことになった。
子どもたちも予定の時間になると集会所に集まってきて、ミサンガ作りが始まった。
私はミサンガの作り方がわからないので、一緒に説明を聞きながらやった。
すると、意外と面白かった。
だが、子どもたちはすぐに飽きてしまって、集会所で走り始めた。
放置されたミサンガを見て、Yさんが「続きを作らせて」と言われ、その流れでYさんとの会話が始まった。
たわいもない会話から始まり、
「今日は来てくれてありがとう。子どもたちと遊んでくれて、本当に助かる」
と仰っていただいた。
私は、たいしたことをしてないだけに、とてもその言葉で助けられた。
Yさんは裁縫や料理が好きなのだそう。
私たちに、お手製のヒマワリとイチゴのブローチをくださった。
Yさんは、とつぜん私に、
「震災当時は何をしてたの?」
と聞いてこられた。
私は、疑問に思いながらも、ありきたりのことを答えた。
「へぇー」とYさんがおっしゃった後、「なぜ、僕の3月11日なのですか?」と質問すると、
「震災自体なかったほうがよかったことはもちろんだけど、震災以前は何の接点もなかった人たちがここでこうして出会うのは奇跡的なことだし、とても嬉しい。だから、最近、出会った人に、『震災当時は何をしていたの』と聞いているの」
と仰っていた。
今はとても前向きな方だが、震災直後は、やはり、ひどく落ち込んでいたらしい。
しかし、神戸の被災者がこの仮設住宅で講演をされて、
「神戸の人の話を聞いて、勇気をもらったの」
と仰っていた。
この神戸の被災者は、崩れた高速道路から半分身を乗り出していたバスの乗客の方だ。
被災者だからこそ、お互いの気持ちがわかるのだろう。
わたしはただただ聞くしかできなかった。
Yさんは、私たちが仮設から帰るときには、全員分のおにぎりを作って持ってきてくださった。
おいしかった。
いつも私は、被災地でお力になれることがあればと思ってゼミの合宿にいくが、毎回もらって帰ってくるものの方が多い。
でも、だからこそ、また恩返しに陸前高田に行きたいと思うのだろう。