被災者にラベルを貼っていないか

 いつもお世話になっている浄土真宗本願寺派総合研究所・研究員の金澤豊さんから、『本願寺新報』に掲載された以下の文章をいただいたので、ご紹介いたします。
 

(金澤さんの連載シリーズはこちらで読めます。)

 「『災害公営住宅に住んでいる人』『住宅再建をした人』『仮設にお住いの人』というラベルを貼って人々の気持ちを画一的に理解していないか」
 
 この文章を読んで、私自身もハッとさせられました。
 
 社会科学分野の研究者は、おうおうにして、『災害公営住宅に住んでいる人』『住宅再建をした人』『仮設にお住いの人』というラベルごとに、復興に対する意識はどのような差異があるか、また、復興事業に対する満足度はどのような差異があるか、などという住民アンケート調査を実施したり、あるいは、そのデータをもとに、「科学性」をもたせるために、「有意な差がある・ない」などの統計分析をやってしまいがちです(せいぜい、年齢、性別、家族構成、地域などの属性を加味する程度で)。

 この「ラベル」自体、もともと、行政の復興事業の進捗度のちがいによって人為的に作り出されたものです。

 苦しみや悲しみ、喪失感や罪悪感は、被災者一人ひとり ちがっています。
 「復興」や「満足」の意味も、一人ひとり ちがっています。
 それゆえ、「復興」や「満足」の度合いは、本来、「一人ひとりが価値をおく(おいていた)人生」「一人ひとりのよき生 (well-being)」(アマルティア・セン)との関わりで、語られなければならないはずです。

 そう考えていきたいと思います。 


 一日も早い復興のために日夜がんばっておられる県庁職員の方々には大変申し訳ないのですが、「被災者一人ひとりに寄り添う『人間本位の復興』の観点から」、岩手県が実施している「岩手県の東日本大震災津波からの復興に関する意識調査」には疑問を感じます。
(多数の県民を相手にしなければならない行政機関としてはそうせざるをえないこと、この調査から判明することもたくさんあること、県民税を重点配分し国からの補助も得て復興施策を充実させるためにはこのような調査が必要であること、は重々認識しつつ....)

 と同時に、自分は安全なところにいて、行政ばかりを悪者にしたてあげるのもダメな態度で、民間やヨソ者も、行政ができない部分を補完するよう皆で力を出し合う必要があると痛感しています。


【対案】
 陸前高田にボランティアに通っておられるNPOの方々や全国の大学生・研究者が、仮設住宅を巡回し居室訪問を行っている社協職員さんらと連携をして、被災者「一人ひとりが価値をおく人生」「一人ひとりのよき生 (well-being)」を理解・尊重した上で、「一人ひとりの復興指標」を作り、それを定期的に更新しながら、被災者一人ひとりの復興を見守り続けていくことはできないだろうか。

 誤解を恐れずに、思い切って、「一人ひとりの復興指標」を例示してみると―、
・「好きな時にスーパー・マイヤで買い物をすることができる」、
・「畑で農作業をすることができる」、
・「自分の周囲の人々に対して愛情を持つことができる」、
・「愛犬と散歩をすることができる」、
・「(子どもが)自転車を自由に乗り回すことができる」、
・「友達とキャッチボールをすることができる」、
・「お手製のがんづき、お茶っこで他人をもてなすことができる」、
・「踊りの練習に毎週参加できる」
等々。
 これらの「機会(機能)」を個人ごとに「集合」の形で表現したものを、アマルティア・センは「潜在能力(capabilities)」と呼んでいる。


 「一人ひとりの復興指標」は、被災者をはじめ、彼/彼女をよく知る周囲の人、社協職員、医療・看護・介護の専門家、ボランティアなどの「公共的討議」(セン)を通じて作成され、評価される。(もちろん、プライバシー保護の観点から、守秘義務を課す)

 この復興指標は、月当たりの回数、それに費やした時間等々で計測可能なので、岩手県の「満足度」や「復興が進んでいる/いない」などの主観的指標に比べて、客観的な指標となりうるし、個人ごとに時系列で比較することも可能だ。

 また、このような「一人ひとりの復興指標」を作成・更新する活動自体が、たとえ住まいが仮設住宅から災害公営住宅に変わったとしても、被災者一人ひとりに声をかけ続け、心配し続け、関心をもち続け、見守り続ける活動にもなるだろう。


 最近、そんなことを考えている。


(文責: 伊達浩憲)