『朝日くらしの風土記 くつろぎの茶』の中の気仙茶

 1982年(昭和57年)に朝日新聞社が発行した『朝日くらしの風土記 くつろぎの茶〜こんなに深い日常茶の世界』を入手しました!

 陸前高田で「気仙茶の会」の菊池会長に見せていただいてから、ずっと探し求めていたのですが、ようやく手ごろな値段の中古品をアマゾンで見つけたので、早速購入 !

 本の中にはさまっていた『出版だより』を見ると、この「くつろぎの茶」が『朝日くらしの風土記』シリーズの記念すべき第1巻だということ、宣伝文句が「自分で選び自分で作る 気楽な茶の楽しみ方」だったことがわかります。

 一番気がかりだったのは、こういう「日常茶」に光を当てた素晴らしい本を監修した人は誰なのだろう、ということでした。

 監修は、「常茶」研究家の小川八重子氏(京都・西陣生まれ)でした。
 


 「自然の茶」、「肌で感じ、のどで味わった感覚をたいせつに」、「ありのままの日本の茶の姿」。一つ一つの言葉が、今でも(今だから)とても新鮮に響いてきます。


 「茶の最前線(1)」は、なんと「主婦が手づくりに挑戦」で、最前線(2)は「苗木の入手ルートと三坪栽培法―国立茶原種農場長にきく」。気合が入っています。
 (3)は「二十杯目も変わらぬ香味―三方原で幻の茶を追う男」、(4)は「茶の本性に根ざす萎凋香」、(5)は「最高峰・藤川の茶てんぐたち」、(6)は「水車が回る、無農薬茶の谷」、そして
 (7)が「北限の茶は手づくりだった―これがふるさとの味、という実感涌く」。新潟県村上市の「村上茶」、秋田県能代市の「檜山茶」、岩手県陸前高田市大船渡市の「気仙茶」が詳しく紹介されています。
 この本は、気仙茶を全国的に「有名」にするキッカケになった、と言うことができます。

 右下の写真。吉田隆さん(米崎町)の茶畑や、熊谷丈一さん(米崎町樋の口)宅に残るカメと茶壺。脇之沢港から仙台大町の「御茶所 亀谷万吉」へ茶を船で輸送しときに使用されたもの。千葉勝司さん(大船渡市猪川町富岡)、千葉勝治郎さん(小友町)のお話も載っています。
 栽培農家の戸数や作付面積については、「陸前高田705戸、大船渡850戸と多いが、作付面積はそれぞれ、9.8ヘクタール、10ヘクタール([昭和]54年度)」だったと記されています。

 上の写真は、千葉勝司さんご夫妻、その下は陸前高田農協の製茶工場。「昭和54年に新しい機械を入れた」とあります。小友町の工場ですかね。加工賃は「生葉1キロ240円」だったと書かれています(荒茶に換算すると、重さは5分の1になるので、200グラム240円→100グラム120円となりますね)。

 「北国の茶摘みは遅い。気仙茶は別名『百五の茶』といわれる。八十八夜より十七日遅いという意味だ。そしてその日、朝の四時ごろから人々は畑に出かける。弁当代わりに『茶摘み餅』と呼ばれる大きな草餅を持って....。/ 明るい海を望む丘の畑。茶摘みの手を止めて餅をほうばる。裏山にキジの声がひびき、ホトトギスが鳴いて通る。あぜですする気仙の茶は、まさに"自然の中"の味だ」(58頁)

 「百五の茶」。この呼称は、IBC岩手放送「いわてアーカイブの旅」の中でも使われていたのを思い出しました。



 日本食ブームのせいなのか、京都にいるせいなのか、ちょっとやりすぎでは?と思えるほど、「旨味」(あるいはUMAMI)ばかりがもてはやされる今日このごろ。なんか偏ってませんか?

 30年以上も前に出版されたこの本をよく読み、もう一度、原点に立ち返って、お茶を味わいたいと思いました。



 が、経済学徒としては、ここで終わらせるわけにはいきません。「昔のお茶は美味しかった」などということを言いたいわけでは全然ありません。

 1982年に『朝日くらしの風土記』が刊行される時代背景を考えてみたいです。1970年代末から1980年代初め。高度成長期の自然破壊や公害、2度の石油危機を経て、自らの生活・消費スタイルを見直そうとする機運が高まっていたのだと思います。(私はというと、1982年は東京で大学生をしていました 笑)
 どのような生活・消費スタイルの時代だったのか、三浦展『第四の消費〜つながりを生み出す社会へ』(朝日新書、2012年)の年表から、特徴的な出来事をひろってみると、
 1976年: 東急ハンズ1号店が神奈川県藤沢市に誕生
 1977年: 東急ハンズ二子玉川店 開店
 1978年: 東京・渋谷に「東急ハンズ」が開店
 1979年: ソニーウォークマン発売
 1980年: 西武百貨店 広告「じぶん 新発見。」
     :無印良品 発売開始
     :『なんとなく、クリスタル』が文藝賞受賞
 1982年:西武百貨店 広告「おいしい生活。」(〜83年)
 三浦氏は、「消費の単位が家族から個人へと変化し始めた」時期だと指摘しています。重要な指摘です。

 (東急・西武系に偏ってはいますが)この三浦氏の解釈をもとに消費者サイドから見てみると、『朝日くらしの風土記』の「くつろぎの茶」特集は、自然志向の高まりを背景に、「自分自身」(個人)の「くつろぎの茶」を「探す」(他人と差別化する)ための本ではないか、また、「ブランド志向」や「カタログ消費文化」と通じるものがあるのではないか、と考えています。


 が、下の図に見られるように、岩手県の茶生産量や栽培面積は、皮肉なことに、1982年の『朝日くらしの風土記』の刊行年のあたりに大きく減少し、その後も減少の一途をたどります。
 せっかく陸前高田市農協が製茶機械を更新したというのに、とても残念です。





(注)1890年の東北本線の開通以前は、岩手県内陸部でも茶の栽培が行われていましたが、鉄道開通後は、他県からの茶の移入が増え、茶の栽培面積も生産量も減少します。その後は、ほとんどが気仙郡になります。こちらのブログ記事を参照。
(出所)戦前は『岩手県統計書』、戦後は農水省『作物統計』などより作成.

 なぜ気仙地域の自家用茶の生産は減少したのでしょうか。生産者サイドから「陸前高田市農協が、80年代後半以降の全国的な一村一品ブーム※(注)の波に乗れず、特産品化に成功しなかった」とか、あるいは地元の消費者サイドから「農協に加工賃を支払って製茶してもらうよりも、スーパーで静岡茶を買った方が安くて美味しい」という解釈も可能でしょう。(私は以前はそのような観点を強調して解釈していました。)
 が、もっと重要なことが、自家用茶の衰退の背景に潜んでいるのではないか、と最近は考えています。
 それは、岩手県気仙地域においても、「自家用茶」の生産・消費基盤(担い手)となる「家族」が解体し始めたのではないか、(農山漁村的・自給的な生活様式の担い手)農林水産業の就業者の減少を反映しているのではないか、ということです。
 
※(注)「80年代後半以降の全国的な一村一品ブーム」については、こちらのブログ記事にも書きましたが、西武百貨店『日本の101村展』(1985年)を参照してください。高知県馬路村の柚子ドリンク「ごっくん馬路村」も、もとをただせば、1980年代初め頃から、農協の営農販売課長さんがリーダーシップをとって、(高知県出身者の多い)京阪神の百貨店の物産展にコツコツと足を運び続けたことが、今日の大ヒットにつながっています。そして、1988年の西武池袋店の「日本の101村展」で、ポン酢しょうゆ「ゆずの村」が金賞を受賞し、爆発的ヒットをとげます。ちなみに、この時の第2位は、徳島県上勝町のつまもの「いろどり」です。ぜひ、陸前高田の「北限のユズ」や「椿油」も、気長に地道に取り組んでいただきたいです。

 
 下の図は、陸前高田市の産業別の就業構成(1950年〜2010年)です。

(出所)「国勢調査」各年版より作成.

 陸前高田市において、第1次産業(農林水産業)の就業者数は、1980年に第3次産業の就業者数を下回り、1990年に第2次産業の就業者数を下回っています。1980年代以降、農林水産業は市のメインの産業ではなくなり、農山漁村的・自給的な生活様式も変容するようになった、と考えられます。


 あるいは、第1次産業の就業者数(農山漁村生活様式の人々)と「第2次と第3次産業の就業者数の合計」(都市的生活様式の人々)とを比べてみると、下の図のようになります。

 (出所) 同上

 高度経済成長を経て、1970年には、第1次産業の就業者数は、「第2次と第3次産業の就業者数の合計」を下回り、都市的生活様式の就業者数が、農山漁村生活様式の就業者数を上回ります。
 このことは、戦後の岩手県の製茶生産量のピークが1960年代末だったことと整合的です。



 また、農家でも、自給的な生活様式が急激に変容します。高度成長期、「消費革命」と呼ばれるように、農家にも、冷蔵庫、洗濯機、白黒TVなど耐久消費財(アメリカ的生活様式)が普及するようになると、農家の「現金支出」が増えます。
 岩手県の農家でも、1960年代になると、「現金支出」が急速に増大し、「現物消費」つまり自給的暮らしが解体していきます。

(注) 「現物消費」とは、もし貨幣で購入したらいくらになるかという具合に推定したもの。
(出所) 農林省『農業経済累年統計 第2巻 農家経済調査[都道府県別]』1975年より作成。


 敗戦後の「価値観の大転換」とそれに続く高度経済成長は、「家族」や「農山漁村生活様式」をはじめ様々なものを変容・解体させ、様々な出来事を忘却させたのではないでしょうか。戦争(大量殺戮)、学徒動員、特攻隊、大空襲、艦砲射撃、沖縄戦、広島と長崎に投下された原子爆弾。その結果としての大量の死者・行方不明者、被爆者、PTSD、飢餓、孤児、バラック、「復興」の困難さ、そして大地震や大津波の経験も。
 来年は「戦後70年」。戦争の悲惨さ、悲しみや苦しみ、「復興」の困難さを語ってくれる人は、私の周りではとても少なくなってしまいました。
「悲惨な経験をした人でないと、本当のことはわからない」。本当にそうだと思います。が、しかし、その考え方を突き詰めていくと、「悲惨な経験をしたことがない若者には、それを語る資格がない」という極論に陥ってしまわないでしょうか。そして、やがて誰も戦争を語らなくなってしまうのではないでしょうか。阪神・淡路大震災東日本大震災も同様なのではないでしょうか。


[余談]

 瀬戸内寂聴さん(若い ! )と小川八重子さん。

 「山茶のよさは浄福の香気」
 「荒畑寒村先生も、山の茶しか飲まなかった。たしか九州のお茶でしたね」(寂聴)
 「荒畑寒村先生」って....。1887年(明治20年)生〜1981年(昭和56年)没
 寂聴先生は、いったい何歳になられたのだろう。