本年もよろしくお願いいたします

 あけましておめでとうございます。
 本年もどうぞよろしくお願いいたします。

※この年賀状は、陸前高田高田活版さんにお願いしました。丁寧なお仕事で、とても気に入っております(うちのかみさんも、これにしました)。来年用の年賀状には、「designed & printed by Takata Kappan (Rikuzentakata City)」 とか「デザイン・印刷: 岩手県陸前高田市 (有)高田活版」とプリントしてもらおうと思います。「活版」という社名、漢字も、とても素敵ですね。


[全ゼミ卒業生+現役生へ: OB・OG会のお知らせ]
 1995年4月の龍大着任から2015年まで、ゼミ生は、卒業生・現役生を合計すると、なんと、17期、340人もいます。
 (1997年度・98年度は伊達が米国 University of California Berkeleyの客員研究員、99年度はスリランカ Colombo Universityの客員教授だったためゼミ募集がなかったのですが、帰国後の2000年度から募集を再開しそれ以降はコンスタントに毎年20名程度の学生がゼミで学んできました)
 で、一度、全員に呼びかけ、集めてみようということになりました。
 現役生の就活対策はもちろん、卒業生の転職対策、結婚相談、子育てや介護、お葬式の情報交換など、様々なシーンで強力な「人的ネットワーク」「社会関係資本」「インフラ」になると確信しております。
 記念すべき第1期生(1994年入学組)はもう40才にさしかかります。現役生の方々は、ぜひ、自分の「ロールモデル」を見つけてほしいと思います。

 万障お繰り合わせのうえ、ぜひ、ご参集ください。

日時 1月10日(土)12:30 受付開始 13:00開始
場所 龍谷大学 深草学舎 22号館2階201教室

※ 子連れ、夫婦その他各種パートナーとの同伴、大歓迎です。今から申し込んでいただいても全然OKです。

 現在、120名以上の参加を見込んでおります。
 「日本経済論〜社会人向けSpecial Version: 資本主義社会の中でより善く生きるために(仮題)」のミニ講義もあります(笑)。
小瀬一 経済学部長のご挨拶も(小瀬ゼミはうちのゼミの永遠のライバル?でしたし。)

[3回ゼミ生へ]
 1月8日(木)の年明け最初のゼミに、龍谷大付属平安高校の3年生が伊達ゼミを訪問してくださいます。境野くん(リーダー)、山口くん(副リーダー)、中村くん、片平くん、上杉くんの5名です。
 で、《龍谷大学×平安高校》の新春Special合同ゼミにしたいと思います。
 彼らは皆、4月から本学経済学部に入学予定で、かつ「東日本大震災のことを学びたい」と思っている子たちです。

 昨年、平安高校生向けの募集要項には下のように書きました。


 東日本大震災から3年9か月の歳月がたとうとしています。私のゼミでは、震災直後から年に2回、津波で甚大な被害を受けた岩手県陸前高田市仮設住宅や漁港、農地などを訪れ、ボランティアや交流を続けてきました。訪れるたびに、復興がほとんど進んでいないことを実感します。「住宅再建まであと5年かかる」と言われています。私たちは、ボランティアを通じて被災者と交流しながら、「なぜ復興が進まないのか」、「そもそも復興とはどのような状態なのか」、「地域経済をゼロから再生できるのか」、「経済学では震災や復興をどう考えるのか」、「私たちは何ができるか」等々について討論し考えてきました。「受け身」ではなく、「積極的な人」あるいは「これから積極的な人間になりたい」と思っている生徒さんを求めています。

 3回生ゼミの皆さん、昨年のゼミ研究報告のプレゼンを「見本」として見せてあげてください。

1. 「現代社会」の教科書の中のアダム・スミス: 「利己心」が社会に秩序をもたらす?
 さしあたり、当日の合同ゼミの出発点は、生徒さん一人ひとりの問題意識を確認した後、高校の『現代社会』の教科書にある、経済学の父・アダムスミスに関する以下の記述を問題にしたいと考えています。


 「『国富論』をあらわしたアダム・スミスは、市場経済を、神の『見えざる手』に導かれる『予定調和』の秩序とみた。なぜなら、人々が利己心につき動かされて生産活動をおこなっても、社会は混乱におちいるどころか、かえって調和と繁栄に導かれる、と考えたからである。」
(高等学校公民科用、文部科学省検定済教科書『現代社会』東京書籍)
 平安高校の皆さん、もしこのブログを見ていたら、合同ゼミが始まるまでに、高校で使われている「現代社会」の教科書の該当箇所を確認してみてください。(索引で「アダム・スミス」を引いてみてください。)

 各個人が「利己心」を発揮すれば、「神の見えざる手」(市場メカニズムとか価格機構と言われているもの)に導かれて、社会は「調和と繁栄」に導かれる。
 この意見が正しいとすれば、平安高校の皆さんは、龍谷大学経済学部で、《利己心の発揮の仕方》や《自己の利益を最大化する方法》、《神の見えざる手の内容》を学ぶことが重要だ、ということになりそうですが、どうでしょうか。
 また、そういうノリのゼミが他にあったにもかかわらず、どうして震災をテーマとするゼミを選択したのでしょうか。まずは、皆さんに問いかけたいと思います。

 ちなみに、経済学部2年生の多くは「被災地でボランティアをしてみたい」「困っている人を助けたい」などと言ってうちのゼミを志望してきますが、皆さんはどうでしょうか。
 もし仮にそうだとしたら、「なぜ、自分は、被災地でボランティアをしてみたい、と考えたのか」を考えてみてください。「利己心」だけでは説明がつかないのではないでしょうか。他人を思いやる「利他心」のような感情も人間には存在するのではないでしょうか。そして、そういう感情は、経済学とは無関係なのでしょうか。

※「ボランティアをしています」という若者に対しては、ダメ出し(ばかり)が得意な・オジサンたちから、「それって自己満足じゃないの?」、「結局は自己利益の追求なんじゃないの?」というウザいツッコミが入りがちだということも忘れないでください。こういうオジさんは世の中にたくさんいます。皆さんはなんと答えますか。また、「ボランティア」という言葉も、自分なりに日本語で説明できるようにしてきてください。一度、英語の意味も辞書で引いてみてください。うちのゼミでは、定義なしにカタカナ語を使うと怒られます。「ケア」というカタカナ語も同様です。

 うちのゼミは「ボランティア活動を目的とするゼミ」ではありません。「ボランティアを通じて東北の被災者と出来るだけ同じ目線に立って、震災後の日本や地域の『社会』や『政府』そして『個人』のより善いあり方や関係について学ぶゼミ」だと私は思っています。


 「現代社会」の教科書に戻ります。上の教科書記述のようなスミス解釈に対しては、今日では、研究者たちによって大きな疑問が投げかけられています。
 その代表格が、ノーベル経済学賞を受賞したアマルティア・センです。彼は、インドのベンガル州出身の経済学者です。
 長くなりますが、センがアダム・スミスのもう一つの主著『道徳感情論』の序文に寄せた言葉を引用したいと思います。(序文の日本語訳の全文は、日経ビジネスOn Lineでも読むことができます。登録が必要ですが、無料です。)


 だが実際には『道徳感情論』は次の一文から始まる。
 『人間というものをどれほど利己的とみなすとしても、なおその生まれ持った性質の中には他の人のことを心に懸けずにはいられない何らかの働きがあり、他人の幸福を目にする快さ以外に何も得るものがなくとも、その人たちの幸福を自分にとってなくてはならないと感じさせる。他人の不幸を目にしたり、状況を生々しく聞き知ったりしたときに感じる憐憫や同情も、同じ種類のものである。他人が悲しんでいるとこちらもつい悲しくなるのは、じつにあたりまえのことだから、例を挙げて説明するまでもあるまい。悲しみは、人間に生来備わっている他の情念同様、けっして気高い人や情け深い人だけが抱くものではない。こうした人たちはとりわけ鋭く感じとるのかもしれないが、社会の掟をことごとく犯すような極悪人であっても、悲しみとまったく無縁ということはない。』
 人間は、あるいは卑賤に生まれつき(born small)、あるいはさしたることも成し遂げない(some achive smallness)。だがスミスはあきらかに、そうした卑小なこと(much smallness)に焦点を合わせていた。
 市場における経済的交換の動機を説明するにあたり、自己利益の追求以外のいかなる目的も抱く必要はないとスミスが論じたことはよく知られている。『国富論』からひんぱんに引用されるあの有名な一節には、こう書かれている。
 『われわれが食事ができるのは、肉屋や酒屋やパン屋の主人が博愛心を発揮するからではなく、彼らが自分の利益を追求するからである。人は相手の善意に訴えるのではなく、利己心に訴えるのである』。
 自己利益の追求すなわち利己心(スミスはこの言葉にけっして称賛を込めていたわけではない)の教祖としてスミスを解釈する伝統においては、その著作は残念ながらどうやらこの数行しか読まれていなかったらしい。
 しかしこの部分はきわめて限られた問題、すなわち分配や生産ではなく交換に限られており、その中でも、通常の交換を維持可能にする当事者間の信用や信頼ではなく、交換を促す動機に限られているのである。他の箇所や他の著作では、人間の行動やふるまいに影響をおよぼすこれ以外の動機の役割が広範に論じられている。
 スミスは、広くは経済のシステム、狭くは市場の機能が利己心以外の動機にいかに大きく依存するかを論じている。スミスの主張は大きく2つに分けられる。
 第1は認識論的な主張で、人間は自己の利益にのみ導かれるのではないし、思慮にのみ導かれるものでもないという事実に基づいている。
 第2は現実的な主張で、剥き出しの利己心にせよ世慣れた思慮にせよ、いずれも自己の利益に資するものだが、倫理的あるいは実際的に考えれば、それ以外の動機に促される理由は十分にあるとする。事実、スミスは「思慮」を「自分にとって最も役立つ徳」とみなす一方で、「他人にとってたいへん有用なのは、慈悲、正義、寛容、公共心といった資質」だと述べている。
これら2点をはっきりと主張しているにもかかわらず、残念ながら現代の経済学の大半は、スミスの解釈においてどちらも正しく理解していない。
 (「アマルティア・センが読む『道徳感情論』 経済は「利己心」だけで動くのではない」日経ビジネス On Line 2014年4月23日←登録が必要です。アダム・スミス道徳感情論』村井章子・北川知子訳、日経BP、9〜11頁)
 

 まず、センが引用している『道徳感情論』の冒頭の言葉を何度も読んでいただきたいです。私がとても大好きな言葉です。
 人間は、他人のことを心に懸けずにはいられない存在ですし、他人の幸福を自分にとってなくてはならないと感じる存在です。また、他人の不幸を目にしたり、状況を生々しく聞き知ったりしたときには憐みや同情を感じ、他人が悲しんでいるとこちらも悲しくなるような存在です。
 「道徳」というと、学校の「道徳」の授業と同様、説教めいていてウサン臭く感じたり、難しそうに思えてしまいますが、アダム・スミスは、こういうフツーの人間がフツーに感じる感情を問題にしています。
 私自身の思いですが、このような人間像をベースに経済学を再構成できないか、と考えています。「経済学=モノやカネの流れを取り扱う学問」という一般的な理解から脱却したいです。このような理解では、人間がどこにいるのかわかりません。自己利益を最大化しようとする合理的な人間像が前提され、人間の存在が消えてしまっているように思います。
 『道徳感情論』の原題は、The Theory of Moral Sentimentsで、「感情 Sentiments」は複数形になっています。直訳すると「道徳感情論」になります。アダム・スミスは、利己心だけではなく、日常生活における人間の様々な感情を取り扱っていると言えます。
 また、『道徳感情論』の副題は、「人間がまず隣人の、次に自分自身の行為や特徴を、自然に判断する際の原動力を分析するための論考」です。ここで、「まず隣人の、次に自分自身の」となっていることに注意してください。「隣人」が先で「自分」は後です。他人との関係の中で自分が存在する、という考え方に基づいています。「自己チュー」みたいな感情についても『道徳感情論』の中で取り扱われていますが、スミスのメインの主張ではないと思います。

 アダム・スミスは、『道徳感情論』でこう述べています。


 「もっとも完全な徳の保有者、つまり我々が生まれつきもっとも愛し、尊敬する人物とは、他者の元来の気質と、同情的な気持ちの両方に対するもっとも繊細な感覚を、自分自分の本来的で利己的な気持ちに対する、もっとも完全な抑制力に結びつける人物のことである。・・・他者の喜びや悲しみをもっともよく感じ取る人間が、自分自身の喜びや悲哀のもっとも完璧な制御を確保する最高の能力を持っている。」
(アダム・スミス道徳感情論』村井・北川訳、日経BP、339頁)
 ここで述べられているように、アダム・スミスは、「自分自分の本来的で利己的な気持ち」=利己心を「抑制」するのが望ましい、と考えていました。
 そうだとすれば、アダム・スミスの言葉とその解釈は、『現代社会』の根幹に関わるので、教科書記述は書き換えられなければならないと思います。


2. 東日本大震災で発揮された「東北人の我慢強さ」?
 ここで終わってしまっては、東日本大震災の入口にすら立てていないので、書き足します。
 昨年、ゼミ生たちの頭を悩ませてきた問題があります(こちらのブログ記事を参照)。
 東日本大震災では、被災者の自己抑制がマイナスに作用したのではないか、という問題です。

 
 東日本大震災の直後、略奪も暴動も起こさない東北の人びとの冷静沈着な行動が世界から称賛されました。
 私自身も、震災直後は、同じように考え、称賛していました。「東北人の我慢強さ」を素晴らしいと考え、「日本人の誇り」だと感じていました。
 時には、視点を変えて、「東北人の我慢強さは、中央から虐げられてきた歴史の産物にほかならない」などと考えてみたりして、さも、わかったようなつもりになっていました。

 しかし、2011年4月末以降、学生たちとともに岩手県陸前高田市を訪れるにつれ、津波が奪いとっていったあまりにも多くの命のことを知るにつれて、被災者の「冷静沈着」な振る舞いの内面には、大きな悲しみや後悔の念、そして、大きな「罪悪感」が存在していることに気づかされるようになりました。
 震災から1年くらい経ってからでしょうか。下のアダム・スミスの言葉が私自身に重くのしかかってくるようになりました。


 「隣人が不運に見舞われたとき、その悲哀に同情するように促す、まさにその原動力や本能が、我々自身が不運に見舞われた際に、卑屈で悲惨な声で身の悲哀を嘆くことなく抑制するように我々を促す」
(アダム・スミス道徳感情論』村井・北川訳、日経BP、339頁)
 隣人の悲哀に同情しようとするがゆえに、自らの悲嘆を抑制する人間の本性。
 この、平時ではプラスに評価しうる人間本性=自己抑制が、東日本大震災では大きくマイナス方向に作用したのではないか。
 津波は、被災者の「隣人」にも、被災者「自身」にも、同時に襲いかかりました。「隣人」の家族や親せき、友人も亡くなられ、「自身」の家族や親せき、友人も亡くなられました。
 岩手県陸前高田市では、死者は1,601名、行方不明者は207名(2014年11月末時点)で、市の人口24,246名(2011年3月時点)の7.5%の方が津波の犠牲になりました。とてもたくさんの犠牲者数です。家族・親せき・友人を亡くしていない市民はいない、と言っても過言ではないと思います。


 私たちがゼミ合宿でお話を伺った陸前高田被災者は、
 「3月11日の夜、暗くて寒い避難所で、海のほうから『助けてくれ』という叫び声が聞こえたが、停電で何もできなかった。申し訳ない」
 「妻と一緒に津波から逃げる時、妻の手を放してしまった。なぜ、あの時、手を放してしまったのか。自分のほうが流されればよかったのに」
 「なんで私なんかが生き残って、あの人が死んでしまったのか」
と、助けられなかった多くの命のことを悔やんでおられました。
 臨床心理のカウンセラーの方からは、「『あの日の朝、お母さんとケンカしちゃったから、お母さんは津波に流されちゃったんだ。ケンカなんかしなければよかった』と思っている子供もいる」と伺いました。
 また、「私なんかより、もっと気の毒な方がたくさんいらっしゃるので、そちらを優先してください」
と、自身の悲嘆を抑制されていました。
 
 生き残った人びとの心の奥底には、後悔の念や「罪悪感」という暗い「闇」が宿っているのではないか。生きていること自体が苦しいのではないか。
 このような心の中の「闇」は、復興を進めていく際の重しになっていくのではないか。被災者は「前を向こう」という気分にはなかなかなれないのではないか。時計の針を進めるには、長い時間がかかるのではないか。しばらくの間は、「こんな街にしたい」「こんな家に住みたい」と前向きに復興計画の議論に参加する気にはなれないのではないか。
 被災者のお話を伺ってから、そんなふうに考えるようになりました。

 アダム・スミスが社会に調和をもたらすと考えた「共感」や「自己抑制」という人間の本性は、東日本大震災においてマイナスに作用し、「後悔」や「罪悪感」にまで達してしまったのではないか。

 臨床心理学や精神医学の分野で「サバイバー・ギルト」と呼ばれる「生き残った者が抱く罪悪感」について、宮地尚子一橋大学大学院社会学研究科教授(精神科医)も、次のように述べられています。


 「罪悪感は、人間的で道徳的な感情と捉えられ、プラスの評価さえされがちですが、悪循環をもたらしやすいという意味では、トラウマがもたらす最も深い闇の一つかもしれません」
(『トラウマ』岩波新書、2013年、75頁)

 たくさんの失われた命、そして、生き残った人びとの、たくさんの悲しみ、後悔、そして「罪悪感」の存在。

 それが真実だとしたら、「東北人の我慢強さ」は美徳で「日本人の誇り」だという言説は、(誰に向けられているのかよくわからない)「がんばれ日本 ! 」のかけ声と同様、被災者の心理からかなりズレていて、的外れだったのではないか。(そんなに被災者は「(我慢)強い」のだろうか。)
 いや、もしも、そうした周囲からの言説が、被災者の悲嘆をさらに抑制するように作用したとすれば、むしろ罪深い言説だったのではないか。
 自分を恥じました。

[追記]
 「長くなりそうなので、このあたりで終わりにします」と一度は書いたのですが、思い直しました。
 その理由の一つは、ゼミの目的である「個人と社会、そして政府のより善い在り方・関係」の話はどうなったのか、という疑問にまだ答えていないからです。
 私は、「罪悪感」をはじめとする被災者の心の問題を個人の心理の問題や、カウンセリングの問題に還元できるとは考えていません。臨床心理学や精神医学の問題でもあることは確かですが、それだけに還元することはできないと思っています。
 たくさんの被災者がそうした心境に陥っているとすれば、それは、社会や政府の問題でもあります。
 被災者の生活環境の整備・改善は、社会や政府が積極的に取り組み、手を差し伸べていかなければならない重大な課題だと捉えています。
 まず被災者個人と政府との関係について。自らが責任を問われるいわれのない不遇な状況に置かれた被災者は救済されるべきです。被災者個人は、その境遇を改善する措置を政府に求める権利を持っているし、政府はそうした措置を行う義務を負っていると考えます。災害対策基本法を参照してください。
 「自然災害」、「想定外」という言葉で、政府はその義務を回避することはできないと思います。


 暗い話ばかりを書いてきましたが、被災地に希望はないのでしょうか。被災地は絶望の地なのでしょうか。
 私はそうではないと思っています。若い人には、ぜひ、希望を抱いて被災地に行っていただきたいです。
 では、どこに希望を見い出せばよいのでしょうか。
 急いで手短に言うと、宮地氏の以下の言葉がヒントになると私は考えています。


「人間はみな、利己的で競争的な生存本能をもっています。同時に利他性や共感能力(これも本能としてあるようです)ももっています。共感能力があるからこそ、代理外傷や共感疲労に苦しみます。みんな、弱さと強さを抱え、良心とずるさを抱え、善良さと冷淡さを両方持って生きています。両方を備えているからこそ、罪悪感は生まれます。きわめて人間的な感情だと言えるでしょう」(宮地尚子『震災トラウマと復興ストレス』岩波ブックレットNo.815、47頁)
 「罪悪感」は、人間(被災者)が「強さ」と「弱さ」の両方を備えているからこそ生まれる「きわめて人間的な感情」だ、という認識。他人の悲しみに深く共感する能力があるからこそ生まれる「きわめて人間的な感情」だ、という認識が重要です。以上は、被災者に関すること。
 もう一つ。それは被災者以外の「他人」に関すること。例えば、被災地でボランティア活動をしている人びと、被災地には行けないが震災に関心を持っている人びと。
 これら「他人」も、被災者と同様に「強さ」と「弱さ」の両面を持っているし、被災者の悲しみに共感する能力をもっています。また、被災者の悲しみに寄り添いたいと願っている人もたくさんいます。
 被災者個人とそれ以外の個人との関係です。震災前は、お互いに見知らぬ他人同士だった個人と個人の関係です。ここに、いよいよ、「社会」が登場します。

 「社会」と「個人」については、戦後、日本の社会科学の研究者たちは、それはそれは、ものすごく悩んできました。ので、まずは、その代表的な主張を引用します。


 「明治10年(1877年)頃に society の訳語として社会という言葉がつくられた。そして同17年頃に individual の訳語として個人という言葉が定着した。それ以前はわが国には社会という言葉も個人という言葉もなかったのである。ということは、わが国にはそれ以前には、現在のような意味合いの社会という概念も個人という概念もなかったことを意味している。では現在の社会に当たる言葉がなかったのかと問えばそうではない。世の中、世、世間という言葉があり、時代によって意味は異なるが、時には現在の社会に近い意味で用いられることもあったのである。
 明治以降社会という言葉が通用するようになってから、私達は本来欧米でつくられたこの言葉を使ってわが国の現象を説明するようになり、そのためにその概念が本来もっていた意味とわが国の実状との間の乖離が無視される傾向が出てきたのである。
 欧米の社会という言葉は、本来、個人がつくる社会を意味しており、個人が前提であった。」
(出所) 阿部勤也「『世間』とは何か」(講談社現代新書、1995年、26-27頁)
(まだまだ続きそうです)
 

[参考ブログ記事(過去1年間のみ)]
神戸新聞「阪神・淡路大震災20年 こころの復興とは」(7)
神戸新聞「阪神・淡路大震災20年 こころの復興とは」(6)
神戸新聞「阪神・淡路大震災20年 こころの復興とは」(5)
神戸新聞「阪神・淡路大震災20年 こころの復興とは」(2)
『消防団の見た巨大津波』のDVD
リスボン地震1755年 (ノート)
被災者にラベルを貼っていないか
クローアップ現代「人間のための経済学」
陸前高田市の災害公営住宅・土地区画整理事業の進捗状況
陸前高田合宿レポート (10) 〜あの日
陸前高田合宿レポート (2)〜米崎りんご、仮設住宅の子どもたち
陸前高田合宿レポート (1)〜仮設住宅
『つなみ 被災地のこども80人の作文集』を読んで
陸前高田の巨大ベルトコンベア
陸前高田から京都に戻りました
被災地の僧侶たちの苦悩


 カリフォルニア州バークレーに行っている板谷元幹事長も Skype や FaceTime 等で特別参加できないでしょうか?==>板谷くんへ。
 日本時間の午後3時〜(時差に注意)ですが、どうでしょう。後輩たちに何か言ってあげてくれませんか。そういえば、板谷くんとも入学前からのメール付き合いでしたよね。

 準備をよろしくお願いします。


[2回ゼミ生]
 年明け最初のゼミは、ひきつづき、今年2月の陸前高田ゼミ合宿の「練習」をしましょう。
 仮設住宅の方々を喜ばせ、楽しませる練習、相手の立場に立つ練習。


前回は、餅つきの練習をしました !


いただきます。