河北新報「挽歌の宛先 祈りと震災〜それで心満ちるなら」

 河北新報の長期連載記事「挽歌の宛先 祈りと震災(19)〜それで心満ちるなら」。こちらです。
 仮設住宅で傾聴ボランティアを続けている浄土真宗本願寺派 僧侶・金沢 豊氏の言葉。
 「死者の声を封じ込めてはいけない。亡き人の存在を縁(よすが)として生きる、残された人たちの言葉を聞く」。
 (※金沢さんらの活動については、「他力本願net. ボランティア僧侶日誌」を参照してください。) 

 気仙沼市曹洞宗 僧侶・千葉裕一氏の言葉。「幽霊が見えるとか、亡くなった人の声がするから弔ってという話が、震災から1年が近づくにつれ、日に日に増えていった」。

 「多くの命を奪った海は、恵みの海でもある。自然や神仏を畏れ敬い、日常が死者と共にある気持ちが、東北には根付いていると感じる。『そうした精神性が、さまざまな形となって人々の前に現れるのだろう』と千葉さんは言う。悲しみのうずめ方はそれぞれにある。生と死の姿に触れる宗教者は、寄る辺ない人々の声に耳をそばだてる。」

 上の引用文のうち、どこからが千葉氏の言葉なのかは不明ですが、《そうなのかもしれない》という気持ちと、《そんなふうにまとめてしまっていいのだうか》という気持ち。


 「東北」の被災者ではない、「東北」の住人でもない、《他力本願》《無常》《いのちの不思議さ》を説く「宗教者」でもない私は、何をどう考え、何をすればよいのだろうか。

 亡き人の存在を縁として生きる・残された人たちの言葉を聴く、とはどのような行為なのだろうか。


 
 「悲しみは単に失われた経験ではなく、自分が何を生きていたのかを告げ知らせてくれる経験です。/大切な人を喪い、悲しむとき、人は、自分は独りだ、誰も自分の悲しみをわかってくれないと感じる。しかし、そのとき同時に人は、喪ったはずの人を自分の近くに感じることがある。悲しみの涙は、過ぎ去った出来事に秘められていた意味を洗い出す。悲しみを感じるとき人は、かつては感じることができなかった幸福が、たしかに存在していたことに気がつく。さらにいえば、それは今も、姿を変えて自分のなかに生きていることを知る。この世における不在は、実在の確かな証であるとすら言えると思うのです。」
 (若松英輔「民衆と美〜柳宗悦南無阿弥陀仏』『美の法門』を読む」若松英輔中島岳志『現代の超克〜本当の「読む」を取り戻す』ミシマ社、2014年、36頁)

 
 悲しみを感じるとき人は、かつては感じることができなかった幸福が、たしかに存在していたことに気がつく

 それは今も、姿を変えて自分のなかに生きている

 不在は実在の確かな証


 そんなふうに考えていくことはできないか。


【参考】
 若松 英輔「呼びかける死者と見えざる悲しみ」(2013年3月13日)