滋賀県茶業史 ノート

(「ノート」なので、ちょこちょこ書き足したり、修正したりしていきます。信用しないでください。ご了承ください)

 龍谷大学では、本年度より5年間、「琵琶湖を中心とする循環型自然・社会・文化環境の総合研究−Satoyamaモデルによる地域・循環政策の新展開−」という研究プロジェクトを実施することになり、私も、末席で、「滋賀県茶業の経済学的研究」を担当させていただくことになりました。
 「里山」との関連の中で、「安政6年(1859年)の開港以降の茶の輸出ブームが滋賀県茶産地にもたらした影響」について、少しずつ研究を進めていきたいと思います。

1. 横浜開港と茶の輸出
 よく知られているように、安政6年6月の横浜開港以来、茶は生糸に次ぐ重要な輸出商品でした。下の表を見ると、明治前期の日本の経済発展における在来産業の役割の大きさに、あらためて驚かされます。
【また、ここでは立ち入りませんが、《生糸と茶の輸出》という貿易パターンは、中国と「かぶっている」(競合している)ことを忘れてはならないと思います。一国史観にとらわれて「日本史」だけを見ていると、欧米列強の「自由貿易帝国主義」の影響や、英米市場をめぐる中国・インド・セイロンの熾烈な「アジア間競争」を見落とすことになります。日本の茶や生糸は、中国製品の「安価な代用品」の側面もあったと思います。】

横浜港からの生糸と茶の輸出 1860〜1884年(ドルベース)

(注) 原資料は、『英国領事報告』(Commercial Repor from Her Majesty's Consuls in Japan. Presented by Command of Her Majesty to both Houses of Parliament)
(出所) 『横浜市史 第2巻』1959年、『横浜市史 資料編2 日本貿易統計』1962年より作成
 
 開港以降、茶の輸出は急速に伸長していきます。その国際的要因は、1) 1860年、中国における太平天国の乱の影響で上海の貿易の停止、2) 1865年、米国における南北戦争の終結、3) 1867年、米国の太平洋郵船会社(Pacific Mail Steamship Co.)がサンフランシスコ、横浜、香港間の定期航路の開設、その支線として横浜・神戸・長崎航路の開設、4) 1872年、米国における(産地から直送された)茶の輸入税の廃止、などによる日本茶の需要の高まりです。
 ライバル中国の弱体化、米国における輸送革命、米国市場による日本製品の吸引。


 輸出総額に占める茶の価額の占める割合は、明治8(1875)年に37.6%になります。
 
 

図 茶の輸出数量(左軸)と価額(右軸) 1860〜1884年

(出所) 『横浜市史 第2巻』1959年、『横浜市史 資料編2 日本貿易統計』1962年より作成
 青色の棒が数量(左目盛)です。


図 茶の輸出数量(右軸)と平均単価(左軸) 1860〜1884年

(出所) 『横浜市史 第2巻』1959年、『横浜市史 資料編2 日本貿易統計』1962年より作成

 茶の輸出単価は、明治7(1874)年の40ドルをピークに、それ以降は下落します。


図 茶の輸出価額(右軸)と平均単価(左軸) 1860〜1884年

(出所) 『横浜市史 第2巻』1959年、『横浜市史 資料編2 日本貿易統計』1962年より作成


横浜港からの「緑茶」の輸出 1868〜1884年(円ベース)

 下の図は、横浜港からの「緑茶」の輸出数量・輸出金額の推移です。

(出所) 『横浜市史 資料編2 日本貿易統計』1962年、62頁より作成
 輸出数量は、明治1年の865万斤から、8年には1,344万斤に増大し、13年には1,577万斤に達します。
 輸出金額は、明治1年、2年は120万円前後で推移し、その後、3年の277万円から7年の485万円まで大幅に増大します。
 その後は、明治11年まで減少し250万円まで落ち込みます。12年には450万円まで回復しますが、停滞気味で、16年には350万円まで減少します。


 下の図は、横浜港からの「緑茶」の輸出数量と輸出価格の推移です。

(出所) 『横浜市史 資料編2 日本貿易統計』1962年、62頁より作成
 緑茶1斤あたりの輸出価格は、明治1年の0.14円から7年の0.4円まで大幅に上昇しますが、8年以降は下落し、11年には0.2円となります。その後、0.3円前後で横ばいに推移します。

 下の図は、横浜港からの「緑茶」の輸出金額と輸出価格の推移です。

(出所) 『横浜市史 資料編2 日本貿易統計』1962年、62頁より作成



外国商館と売込商人


 「横浜開港とともに開始された貿易は、いわゆる『居留地貿易』であった。すなわち、わが貿易商人は、居留地に設置された外国商館を相手として、輸出商品の売込あるいは輸入商品の引取を行っていたにすぎず、直接外国市場とむすびついて取引することはなかった。したがって、居留地に進出してきた外国商人は、領事裁判権や関税率の協定制にみられるような通商条約上の特権を背景とし、優越した経済力をもって、わが輸出入に関する商権を容易かつ全面的ににぎることができた。」
「アメリカのスミス=ベーカー商会 Smith, Baker & Co.に雇われていた大谷嘉兵衛は、慶応3年9月から12月まで、商会主の命令で上方へおもむき大坂に宿を定めて、山城宇治をはじめとする近畿方面の茶70万斤を26万8000両の資金で買付けた。」
(出所) 『横浜市史 第2巻』1959年、pp.706-710

安政6年当時の輸出茶の産地・数量・価格


 「安政6未年6月横浜を開港せられし以来の沿革を陳んに当時輸出に向けし製茶産地は、山城、近江、伊勢、駿河の4ヶ国にして、斤量も多からず、・・・・同年中茶の輸出せし斤量僅かに30万斤にして、価い上等20弗下等7弗なりしと当時1弗は我銀貨1分銀3個に換算せるを以て、即ち45匁なり故に20弗は我15両に7弗は5両1分程なり」
(出所) 村山鎮『茶業通鑑』明治33年、273-274頁

神戸港からの輸出
 兵庫県の茶の売込商・山本亀太郎は、1883年の製茶集談会の席上、次のように述べています。


 「神戸に於て始めて茶を外商に売込みたるは明治元年(慶応四年)四月なり.....当時神戸居留の外商人は未た再製場を設けさりしゆえ買入たる茶は横浜へ輸送し同港にて再製せし後海外へ輸出せり故に本港にて茶を買取る外商は横浜外商の支店に異ならす因て本港貿易茶商及ひ京坂の茶商人に於ても横浜神戸両港市場の景況を謀り神戸にて売込を為させすして横浜へ輸送し同港にて売込みして往々之あり....
 神戸へ輸送せる茶の産地は山城、近江、伊賀、大和、紀伊丹波、伊予、筑後の八国なり。
 明治二年に至り神戸居留外国茶商二三の商館に於て再製場を設けて海外へ輸出するものと猶横浜に送りて再製するものと区々なりしか同三年に至り各外商館に於て茶を買取るものは皆本港に再製場を設けて横浜に輸送せす」
(出所) 農務局『製茶集談会日誌』明治17年、370-371頁。



2.政府・県統計による滋賀県茶業の位置

"Report on the Production of the Tea in Japan. Presented to both Houses of Parliament by Command of Her Majesty. 1873" (英国領事報告)
 1872年(明治5年)12月12日付、神奈川に駐在する英国領事Rovertson氏のWatson卿宛ての報告書は、横浜港に茶を出す地域の生産量とその合計を推計している。

(出所) "Report on the production of the tea in Japan. Presented to both Houses of Parliament by Command of Her Majesty. 1873", p.15.
(参考) この報告書は、山口和雄「茶貿易の発達と製茶業」『日米文交渉史』第2巻、洋々社、1954年、『日本茶輸出100年史』1959年、角山栄『茶の世界史』中公新書、1980年にも引用されている。

 同報告によれば、駿河、伊勢、遠州、山城、江州、美濃などが輸出茶の主要産地となっています。
 ポンド(重量)を斤に換算して製茶数量を示すと、全体では1,179万斤、国別では、駿河240万斤、伊勢220万斤、遠州200万斤の順に多く、江州のそれは、山城の120万斤に続き、80万斤となっています。


明治7年(1874年)『府県物産表』(内務省勧業寮編)
 下の表は、明治7年(1874年)『府県物産表』(内務省勧業寮編)により、京都・滋賀・静岡・三重の主要茶産地における「製茶」の数量と価額を見たものです。
 表 明治7年『府県物産表』

(注) この分野のパイオニア的労作である古島敏雄『資本制生産の発展と地主制』(御茶の水書房、1963年)は、明治7年『府県物産表』においては滋賀県鹿児島県の調査不備が著しいと指摘している。


 滋賀県の製茶数量は158万斤で、京都府834万斤、静岡(静岡県と浜松県)の197万斤に続く位置を占めています。金額でみると、滋賀県は、静岡(静岡県と浜松県)を上回っています。

 まず、大きな問題から。京都府の数量834万斤について。全国シェア47%、平均単価は「0.054円」となっています。他県の動向と比較してみると、この京都府の数量は過大で、平均単価「0.054円」は過小だと考えられます。このような問題意識のもと、『府県物産表』の数値を修正してみます。
 京都府の製茶数量816万斤を1桁分調整し82万斤とし、番茶の17万斤と合算して99万斤とすると、平均単価は0.45円となり、妥当性が高まるように思われます。次に、この推測が正しいと仮定して、全国計の値を修正します。全国計1760万から京都府の過大計上分735万斤を差し引いて1,025万斤とします。
 下が修正表です。
 表 修正・明治7年『府県物産表』



明治10年(1877年)『全国農産表』(勧農局編)

 表 明治10年『全国農産表』

(注1) 近江国の数量・価額は、製茶と紅茶との合計。紅茶80,600斤を除いた場合、近江国全体の数量は730,128斤となる(紅茶の数量と価額が計上されているのは、近江国のみ。)
(注2) 全国順位表を作成する際には陸前国の取り扱いが問題となるが、浮田典良「明治10年『全国農産表』を通じてみた農産額構成」『歴史地理研究と都市研究(上)』1978年、大明堂、pp.444-445は、明治10年『全国農産表』の陸前国の「製茶」の数量・価額に過大計上があることを指摘している。このブログ(こちら)でも、陸前国の「製茶」の数量「959,165斤」と価額「201,291円」は過大計上の可能性があり、その原因の一つは、名取郡の「製茶」の数量が「920,800斤」と過大に計上されていることにある、と述べたことがある。名取郡の値を2ケタ分修正し「9,208斤」とすると、陸前国の「製茶」の数量は「47,573斤」、価額は「11,669円」となる。浮田氏も、陸前国の「製茶」の価額を「12,000円」と推計している。
(注3) 本表の「全国計」の数値は、注2で指摘した名取郡の過大計上分を差し引いた数量・金額。


3. 甲賀郡の茶業
 この明治10年『全国農産表』で郡別の生産量を見ると、下のようになります。

(注) 滋賀郡の紅茶80,600斤を除いた場合、近江全体の数量は730,128斤となる。


 近江では、甲賀郡の数量302,288斤、価額219,159円が突出しており、数量、価額いずれのベースでも、山城の久世郡、綴喜郡相楽郡の値を上回っています。
 ただし、甲賀郡の価額219,159円は、数量302,288斤×単価0.725円で計算しているのですが、この単価0.725円は、他郡の単価と比べても突出して高く、なんらかの過大評価が存在する可能性があります。(もし仮に、甲賀郡の単価が山城の綴喜郡相楽郡と同程度の0.23円であれば、価額も22万円から7万円に減少し、それにともない、近江国全体の価額についても31万円から16万円に大きく減少します。)


明治10年・11年・16年 滋賀県の製茶数量・価額の郡別比較

(注) 滋賀郡には紅茶80,600斤が含まれている。合計も同様。
(出所)明治10年『全国農産表』・明治11年『滋賀県物産誌』・明治16年『滋賀県統計全書』より作成。


 滋賀県全体の製茶数量は、明治10年(1877年)の81万斤、翌11年(1878年)の123万斤、5年後の16年(1883年)には136万斤となっています。
 郡別に見ると、甲賀郡では、明治10年の30万斤、翌11年の53万斤、16年は55万斤で推移しています。



土山村・朝宮村・小椋村の茶栽培面積・製茶数量・価額の推移

(出所) 農務局 『明治16年 第二回製茶共進会審査報告書』82-87頁に所収の滋賀県勧業課「滋賀県近江国製茶沿革考」より作成

 土山村の製茶数量を見ると、安政4年(1857年)が6,200斤、慶応3年(1867年)が14,000斤、明治5年(1872年)が36,000斤となっています。

 『滋賀県実業要覧』には、「甲賀郡土山村は 天和の頃 始めて植栽せしものにして安政年間迄は僅々2、3の製茶家なりしも、同6年 横浜開港に際し 製茶輸出の道開けしより 他に率先して茶樹を栽培するもの日に多く 明治8年の頃に至ては 全村殆んと茶を製せさる家なきに至る 而して明治10年の頃には其産額 慶応年間に比し殆んと10倍強の多きを加へたり」(滋賀県実業会『滋賀県実業要覧』明治32年、p.229-230)とあります。
 すなわち、土山村において、安政年間(1854〜60年)までは製茶家数は2〜3軒でしたが、安政6年(1859年)の横浜開港による茶の輸出ブームが到来し、明治8年(1875年)の頃には村のほとんどの農家が茶栽培や製茶を営むようになり、明治10年(1877年)の頃には、製茶の数量は、慶応年間(1865〜68年)に比べて約10倍になった、と指摘されています。

 『甲賀郡誌』には、「土山茶畑反別は安政4年には僅に3町余歩なりしが明治15年には51町余歩に及び、其産額も初は6,198斤なりしも15年には6万斤に及び其価額1万6,800円に達せりと云う。」「明治7 8年の頃には焙炉40個を築き製茶に着手するものあるに至り、茶園反別総計67町5反 製茶家220戸―南北土山合計―に及ぶ。此数年間は土山茶業全盛の時にして蚕業の起るに従ひ稍衰頽に傾けり。」と記されています(『甲賀郡誌』、大正15年、999-1000頁)。
 すなわち、安政4年(1857年)の土山村の茶畑反別は約3町歩。明治7〜8年(1874-75年)の南土山村、北土山村の茶園反別は67町5反、製茶家220軒。


甲賀郡北土山村・南土山村における安政5年以降の製茶業

(出所) 滋賀県勧業課『滋賀県管下 近江国六郡物産図説 三 甲賀郡[下]』(明治6年)に所収の「澳地利博覧会国産物品明細取調書上帳 甲賀郡 土山村」。

 明治6年(1873年)、オーストリア・ウィーン万国博覧会にあたり、前年5月、滋賀県勧業課の諭示にもとづき、朝宮・土山・前野村等の諸村から製茶を同会に出品することになり、その際、開園、製茶の沿革及び製造高、斤量、雇人員等27箇条からなる明細書が作成されました(甲賀郡誌、994頁)。
 そのうちの一つが「澳地利博覧会国産物品明細取調書上帳 甲賀郡 土山村」で、その中に、上記の表も掲載されています。作成は明治5年(1872年)と思われます。

 明細表で甲賀郡北土山村・南土山村の製茶数量を見てみると、安政5〜文久2年(1858-62年)の6,715斤、文久3〜慶応3年(1863-67年)の18,067斤、明治1〜5年(1868-72年)の39,674斤と激増しています。15年間で約6培の増です。
 茶園面積も、同期間に、5町→18町→52町と、15年間に10培に拡大しています。
 「一日雇夫」(摘娘、製造、仕上)を見ると、雇用者数も大きく増大しています。

 明治11年『滋賀県物産誌』は、北土山村・南土山村の茶業の動向について、下の表のように記しています。

 先述の『物産図説』の値とこの『物産誌』の値とを接続させてみると、土山村の製茶数量は、安政5〜文久2年(1858-62年)の6,715斤、文久3〜慶応3年(1863-67年)の18,067斤、明治1〜5年(1868-72年)の39,674斤、明治11年(1878年)の94,462斤と激増しています。20年間で14倍強に増大します。
 茶園面積も、同期間に、5町→18町→52町→68町に拡大します。20年間で15倍強の増大です。

 このように、甲賀郡の茶業は、安政6年(1859年)の開港とともに激変し、外国貿易の動向に大きく左右されるようになります。


明治11年(1878年) 甲賀郡内の主要な茶産地の概要

(出所) 明治11年『滋賀県物産誌』より作成

 上の表は、明治11年『滋賀県物産誌』を用いて、甲賀郡各村のうち、製茶数量が多い(5,000斤以上と仮定)村を抽出し、茶の栽培・製造・販売などの状況を示したものです。
 水口村、大野村(大野村、徳原村、前野村)、土山村(北土山村、南土山村)、朝宮村(上朝宮村、下麻宮村)の茶の売先が、「横浜港」「横浜」「東京」「神戸」となっています。これらの多くは輸出に向けられたと考えられます。


甲賀郡 油日村(五反田村)の茶園開拓の事例


「本村の南方なる代野(よの)は一曠原にして古来所属村落の草刈場なりしが、明治3年の頃旧旗下高木守典 立川金左衛門等相謀り之を開墾し茶樹を栽培し新に家屋を移す事10余戸、専ら力を培養に蓋したる結果能く繁茂したるを以て、上野水口に販路を広め漸次少なからざる利源を開く。同12年の頃には既に30町3段4畝の園圃を開き2万6,560斤の産額を収むるに至る。斯の如き事業を僅々数年間に経営したるは本郡中未だ會てあらざる所なり。爾来数10年を経て現今一部の地は苗圃となり、或は畑地林地となる等多少当時の盛況と異なる所無きにあらず。・・・大字和田に於ては立川金左衛門の計画にて安政年間所有地の一部を以て茶園に充て自家用を製すと云へど其他は大抵明治10年前後の植栽に係れり。当時油日の茶園24町8反歩にして製茶家10余戸に及び、他の大字亦茶圃を有せしも概ね2町余歩以下に止まり従つて産額亦多からず。」
(出所) 『甲賀郡誌』大正15年、1001-1002頁

 この立川氏と高木氏は、明治12年(1879年)に開催された「製茶共進会」において、一等賞を受賞している。


 「立川氏茶植栽に従事せしは維新の際に起れり 初め大津県に置かれし時 同県より県下近江国甲賀郡和田村及五反田両村に在る所の原野を開拓すへき旨を両村人民に説諭せるに 両村共に避陬の寒郷にして開拓を起す能わさるを以て己むを得すして 両村人民伊與助か父従と云ふものに依頼するに開拓の事を以てせり是に於て従父子大に奮発して家産を傾け開拓に従事せしは実に明治3年にして爾来父子非常の勉強を以て開拓すと雖も資本労力共に乏しきを告け困却の央に至て同志者高木守典なるもの與に共に資力を協せて此事に従へり 是に因て従父子も大に力を得て相共に勉励し従て開拓すれは従て茶種を蒔きしに地味瘦薄にして意外の肥培を要したれ共 遂に開拓の業を遂け満地茶樹を栽培し中間製茶所を建て漸く製茶に着手するに至れり 然れとも近年茶価の低落に際し殆んと困窮に及びしも更に屈せす□同心協力して前件の製茶を算出し幸ひに本年の茶価騰貴するに遭ひ積年の疲弊を回復するに至れり 然るに従は亦11年不幸にして病死すれとも伊與助は父の志を継き高木氏と輿に益其業務を勉励拡張せりと。」

「一等賞
 滋賀県近江国甲賀郡和田村 平民 立川伊與助
 同県下近江国甲賀郡五反田村 寄留士族 高木守典
・開墾地 近江国甲賀郡和田村五反田村間原野
・開墾着手及成業 明治3年8月着手 同5年成業
・現今植栽段別  52町余歩
・開墾其他費額  1万3,000余円
・本年製茶総額  2万6,250斤
・本年収穫の生葉 2万1,000貫目
・開墾地移住人  18戸」。
(出所) 『共進会報告 製茶の部』明治13年6月、10-12頁


明治初期における甲賀郡における紅茶製造の盛衰


 「明治9年[1876年]緑茶の価格 非常に下落せしも 紅茶の価格は却て騰貴せしを以て 三井物産会社は同郡水口 土山の両村に紅茶製造及買入れの業を開き而して其製造は支那人に托し 買入方は英人をして担任せしめたり
当時地方の製茶家は之れか擬製をなし 実に名状すへからさるの粗品を輸出し為に 紅茶の声価を失ひたり 其後12年[1879年]に至り 勧農局に於て紅茶伝習所を土山村に開き製法を伝習し卒業するもの数10人に至る 続て本県丁に於て 紅茶輸出取扱所を設け 併て其製法を伝習する等該業に熟達せしもの漸次増加せしを以て 幸に粗製濫造の弊を防きたりと雖とも 海外輸出販賈に至ては微かなる地方製造家の能く経営し能はさる処なるを以て 4、5年間引続き損害を被り為に 全く其製法を廃するに至れり」
(出所) 滋賀県実業会『滋賀県実業要覧』、明治32年、p.229-230.(『滋賀県市町村沿革史 第6巻』1963年、p.327)
(注)明治初期の滋賀県における紅茶製造については、滋賀県県政資料室「【展示】世界に挑んだ近江の茶―明治輸出奮闘記―」をご参照ください。


4. 粗製濫造ブーム
 明治初期の茶業を特徴づけるものは粗製乱造ブームです。滋賀県の茶業も同様でした。

 
 「維新後製茶は可成的若葉の原料を以て純乎たる揉切品を製し輸出して米国の賞讃を博さしが、明治10年日干製法流行し当[甲賀]郡製品も遂年之を混ずるに至り明治14,15年頃は日干製の最盛期とも謂うべき状態にして、輸出茶の品質は大に粗悪となれり。当時米国に於ては日本茶の粗製悪質なるを批難し遂に其の輸入を禁ずるに至れり。
 斯輸出茶の声価を失墜し悲境に陥れるを以て之を救済せんが為め、明治16年神戸に於て第2回日本製茶共進会の開催を期とし救済策を主務省に建議せり・同年4月本県の諭告に依り同年9月茶業有志会を開き組合を組織し専ら粗悪を防止し輸出品の声価を挽回せんとす。同17年3月農商務省令第四号茶業組合準則を発布せらるると同時に本県も亦、茶業組合準則を制定せられたるを以て之に基き会則を更正し組合取締所を大津市に設置」。
 「水口町 明治10年の頃紅茶流行と共に旧来の焙製一頓挫を来し其後再宇治製を用い声価を挽回するの端緒を開き遂年盛況を呈するに至る。」
 (出所)『甲賀郡誌』大正15年、987-997頁


5. 東小椋村の政所茶の歴史: 山村の茶
政所茶の歴史


 「愛知郡小椋村地方の茶は政所茶と称し 其創始の年歴未た詳かならすと雖も 土人の口碑に伝ふる所に拠れは 貞観年間 惟喬親王の采地となり 始て茶樹を栽植し 今に其奮園ありて字皇園と称せりと、而して旧時の製造法は紅茶(今の紅茶にあらす)のみなりしか天保7年[1836年]に至り 大に改良を加へ始メテ 炉揉を製出す 其法一種特別なるを以て政所茶と称せり、然るに 当時肥料乏しく 園圃自ら荒蕪に属せんとせしを以て同10年[1839年]の頃より 大に肥料を加へ 専ら栽培に注意せしにより其名天下に著はるゝに至れり
 信楽政所の製茶は其名夙に著はれ久しく大阪、江戸等へ輸出せしか、一朝海外貿易の開けしより 其需用益々多きを加へ為めに茶を植ゆる者陸続輩出し隨て其産額の増加と共に其製法を改良し一層声価を得るに至る、然れども其極遂に需用供給の度を失ひ 価格低落収支相償はすして 其業を廃するもの殆んと踵を接す、而も尚ほ依然として旧の如くなるものは特り信楽政所の両地とす 是れ其販路の海外にあらすして 内地にあるを以てなり」。
(出所) 滋賀県実業会『滋賀県実業要覧』、明治32年、p.228-229.(『滋賀県市町村沿革史 第6巻』1963年、p.327)
 『近江愛知郡誌』によれば、元和元年(1615)の茶の運上について、九居瀬1,041斤、黄和田770斤、政所1,650斤、箕川148斤、蛭谷115斤、君ケ畑271斤となっている。
 ちなみに、人見必大『本朝食鑑』(1692年)には、煎茶も「宇治の産が一番良い」が、「江州の政所、紀州の熊野、駿州の安部、予州の不動坊、および海西(中国から四国までの地方)・江東の所によって産する。」と述べられています(人見必大・島田勇雄訳注『本朝食鑑2』東洋文庫312、平凡社、119頁。)

政所町の周辺図

(出所) 地理院地図(電子国土WEB)


(出所) 地理院地図(電子国土WEB)

 
東小椋村の「政所茶」(明治11年『滋賀県物産誌』)

 政所村と九居瀬村、高野村の製茶数量・金額が大きい。
 『滋賀県物産誌』は、政所村の生業について、「傍らを製し及ひ炭焼採薪を事とし 或は蚊帳麻布織を事とするありて 尚此他 木挽を業とするもの多し」「播す処のものは及ひ菜蔬の類にして就中をもって多しとす」と記している。
 また、九居瀬村についても、「傍ら採薪を事とし 或は木挽を事とし 負担稼を事とするあり」と記している。
 君ケ畑村についても、「傍ら養蚕製糸製茶或は採薪炭木挽を事とするあり」「播すものは桑菜蔬の類にして其中多きは桑なり」と記している。
 「製茶」「炭焼採薪」「蚊帳」「麻布織」「木挽」がこの山村の生業となっていたことがわかります。


本居宣長『玉勝間』の中の政所茶(君ヶ畑村): 「秋田へくだる」政所茶
 本居宣長『玉勝間』第二編 六の巻の「近江国の君が畑といふところ」の項に、下記の記述があります。


「あふみの犬上ノ郡の山中に、君か畑村といふ有て、大公大明神といふ社あり、惟高親王をまつるといへり、村の民ども、かはるがはる一年づつ神主となる、まづ一とせの間ゆまはりて、さて一年神主を務めて、後又一年ゆまはる、これにあたれる者を、公殿といふ、家まずしくて、此公殿をえつとめずして老たるねのをば、犬といふ、又此村に、禅宗の寺有リて、其寺の内に、惟高法親王の廟といひて、塚もあり、此村は伊勢ノ国員弁(いなべ)ノ郡より越る堺の近き所にて、山深き里也とぞ、此村人ども、夏は茶を多くつくりて、出羽の秋田へくだし、冬は炭を焼て、国内にうるとぞ、その茶をもむ時の哥、こゝでもむ茶が、秋田へくだる、秋田女郎衆に、ふらりよかよ
(出所)本居宣長著[村岡典嗣校訂]『玉勝間 (上)』岩波文庫、247-248頁。
(注1)本居宣長は、享保15年(1730年)生〜享和元年(1801年)没。『玉勝間』の刊行は、寛政7年(1795年)〜文化9年(1812年)で、第一編は寛政7年、第二編は寛政9年。
(注2)本居宣長記念館のHP内「政所茶」の記事も参考にさせていただきました。


柳田國男が描いた政所茶と木地師
 本居宣長『玉勝間』に関連して、柳田國男『史料としての伝説』(初出は1957年)の中には、以下のようなとても興味深い記述があります。


 「木地屋は山中の樹を伐って、轆轤をもって椀類の木地を製作する特殊の工人のことである。その郷里は前に述ぶるごとく、近江愛知郡の伊勢に境した東小椋村であるが、その大部分は数百年以前から、郷里を離れて原料の豊かな諸国の山に、分散して住んでおり、あるいたって珍しい組織をもって、常に故郷の村との聯絡を保っていた。
 ・・・・・(中略)・・・・
 起源こそ不明であるが、近江の東小椋村もおそらくはその一例に他ならぬ。すなわち国境近くの広漠たる山であったが、木地原料は夙に足利時代に伐り尽して、ある者は他国の山を求めに出ると同時に、一半の残留者は跡地を経営して、焼畠を作りあるいは炭を製しまたは茶を製して、今日に及んでいる。茶は日本中部以西の山嶺に、到る所に野生しておって、今なお無尽蔵に採取せられている。これを支那から輸入したというのは、単に用法の輸入を意味するか、しからざれば誤りである。小椋のいわゆる政所茶は、これも六ヶ畑の野生であったのを、次第に培養して後には玉露までを産出した。木地師の往来のついでを利用すること、あたかも中世の鋳物師が米麦などの取引に携わったのと同じ事情であったか、この地の茶は遠国までも売りに出された本居宣長翁が採録した君ヶ畑の茶もみ歌は、
 ここで揉む茶が秋田へくだる、秋田女郎衆にふらりよかよ。
 ふるというのは茶筅を用いて、番茶の泡を立てて飲むことを意味する。そう言う時代から、茶でも作ろうかと言う土地労作者であった。同じ漂白の生活でも、傀儡師・梭かき・箕直しなどとは、全然習性を異にしていたのである。」
 (出所) 柳田國男『史料としての伝説』(『柳田國男全集 4ちくま文庫、1989年)268頁、279-280頁.

 「木地師」と「茶業」「炭焼」「焼畠」とが結びついてこの山村の生業が形成されています。とても興味深いです。


 木地師については、公益財団法人滋賀県文化財保護協会「新近江名所圖会 第157回 木地師の村 その1」「その2」もご参照ください。


宮本常一が描いた木地師焼畑


 「木地屋はその初めは、ただろくろを使用して木地物をつくるだけであったようだが、定住をはじめると多くは焼畑をおこなって食料自給をはかった。小椋村焼畑耕作中心にして定住したもののようである。南畑・北畑とよぶ呼称がこれを示しており、南畑はさらに六畑にわかれており、君ガ畑もその一つだったのである。焼畑でつくるものはソバ・ヒエ・アワ・ダイズなどであり、決して上等の食物とはいいがたかったが、木地挽きによる収入があったから生活は一応安定していたといえる。東北地方では木地挽きのかたわら、温泉近くに住む者がみやげものとしてコケシをひいたのである。
 木地屋の村には早く木地挽きをやめて、農耕を中心にして生活するようになったものもあった。
 なお、このような技術は在来の日本人によって工夫発明されたものであるとは思えない。これを大陸からの伝来とすれば焼畑耕作の技術なども同時にもたらされ、木地製作と焼畑が結びつくことによってその移動が活発におこなわれたとも考えられる。」
(出所) 宮本常一『山に生きる人びと』(河出文庫)


茶休みの行事
 君ガ畑村においては、6月に「茶休み(ツマキ節句)」があり「一番茶が終わったときに、五月の節句と兼ねてする。ツマキをこしらえて宮にまいる」(文化財保護委員会『木地師の習俗1 滋賀県三重県平凡社、1968年、184頁)という。
 箕川村にも6月に「茶休み」があり「茶摘みのあとに女がツマキをこしらえて、かすりの着物を着てよそへ遊びにいく。」(同上、191頁)とある。


民家の間取り; 製茶をする炉


 「間取りの中でとくに注目されるのは、A(君ガ畑)の民家のカドグチからはいって、ニワの右よりロベヤという一間のあるところである。これは茶の炉があるところで、ここで製茶を行うのである。
A 君ガ畑

D(政所)の民家にもウチニワから別にはいる入口があって、ニワノマというのがやはり製茶の炉があるところである。また同じDで、デをハタゴヤとも呼んだらしいのは下機が置かれて冬場にヌノを織ったこともあったからである。この地の生産は早く木地ひきから製茶その他に移行していたことはすでにしるされてきたが、それがこういうところにも反映していたのである。
D 政所


(出所) 文化財保護委員会『木地師の習俗1 滋賀県三重県平凡社、1968年、114-116頁)

伊勢国からの摘み娘と「茶縁」


 「茶栽培のなかで初夏の茶摘みは特に重要な工程であるが、一時的に多くの人手を要することから、他村から季節労働者として若い女性を受け入れたのである。その縁で知り合った他村女性と村の男性が結婚することを『茶縁』と称している。明治2年(1869)の『近江国愛知郡君ケ畑村戸籍』(『君ケ畑共有文書』によると、同村に伊勢国員弁郡出身の女性が4人いた。いずれも戸主の妻、もしくは母であり、弘化3年(1846)から安政2年(1855)までの間に、それぞれ員弁郡山口村・下野尻村(ともに藤原町)・石榑村(大安町)・治田奥村(北勢町)から嫁いできている。これらは幕末期における『茶縁』の実例と考えられるだろう。政所茶の産地である東部は近江国東端部に位置する山村地域にあたり、茶生産の労働力を近江国内のみならず、鈴鹿山脈を越えて他国まで求めていたことがわかる。」
(出所)『永源寺町 通史編』2006年、532-533頁


6. 先行研究
明治初期 滋賀県における茶栽培・製茶の分布 図 ―明治11年『滋賀県物産誌』 ―

・総農産額に占める製茶金額の割合 (50%以上の■印に注目)

(出所) 浮田典良「明治前期 滋賀県における農業と農産物流通−『滋賀県物産誌』による町村別検討」人文地理 37巻4号、1985年
(注)『滋賀県物産誌』は、明治11年(1878年)における滋賀県の1,395町村について、人口、戸数・反別・物産品目・生産量・金額などを統一的書式で書き上げており、各農産物について、生産量、消費量とその金額、販売先別の数量・金額等の算出が可能。各農産物の商品化、移出・移入などを分析することができる貴重な統計書。


浮田典良氏の研究によれば、
・湖北地域には、主として、自家用の畦畔茶園が分布
・湖南地域は、県内の主産地として発展。山間部斜面地・河川流域に茶園が分布
 A: 信楽川上流・ 朝宮地区
 B: 野洲川上流・ 土山地区
 C: 愛知川上流・ 政所地区

A.朝宮地区とC.政所地区
 古くから、高級茶の産地として名高い。
B.土山地区
 安政年間の開港にともなって茶栽培・製造が急速に発展。
(出所)浮田典良「滋賀県の茶業−農産加工業としての茶業の特質−」人文地理4-5, 1952年, 32-48頁


7.「生業の景観」とは?
明治初期の茶栽培・製茶ブームによる乱伐


 「明治維新後の山林の状況」明治13年(1880)7月9日
明治12年3月19日、内務省地理局は「山林沿革史」編纂のため、山林関係の書類や古くから伝わる慣習などの調査を県に依頼しました。本史料は県から提出されたその調査結果です。この報告書によれば、明治維新後、滋賀県では桑・茶園の開墾や、製茶・陶器製造のための薪炭需要の高まりから、乱伐が激しくなっていたといいます。
(出所) 滋賀県県政資料室「【展示】山林の明治維新―保護と乱伐の19世紀―


明治初期の茶栽培・製茶ブームによる土砂流出


「草立合刈場土砂留の儀に付御願書」明治10年(1875)9月24日
 蒲生郡北脇村(現日野町)には、上山と呼ばれる草刈り場がありました。江戸時代には、この土地と樹木は同村のものでしたが、近隣の瓜生津・石谷両村には、柴草の刈り取りが許されていました。。・・・北脇村の持ち山は、地租改正にともなう紛争の後、北脇村・瓜生津村・石谷村の3か村で共同利用(立会)されてきました。
 しかし、瓜生津村と石谷村は、明治維新後に茶畑の開墾を進め、その肥料に用いるため、草木を刈り荒らしたようです。そのため北脇村の耕地に土砂が流れ、大きな損害が出るようになります。本史料で同村総代たちは、瓜生津・石谷両村が至急、土砂留めを行うように県からの説諭を願い出ています。
(出所) 滋賀県県政資料室「【展示】山林の明治維新―保護と乱伐の19世紀―


「生業の景観」とは?
 「夏も近づく....」の茶摘み歌の「風物詩」的なイメージからなのか、「綺麗な緑色」の若葉だからなのか(近年は黒い寒冷紗)、それとも「健康に良い」飲料だからなのかはわかりませんが、茶畑は、「自然と共存共生」しているかのような印象を持ってしまいがちです。
しかし、茶畑の開墾や燃料資源(薪)の採取などが大規模におこなわれると、自然条件を人間仕様に大きく改造してしまい、乱伐や土砂流出などにつながる場合もあります。

 「里山」という概念も同様です。水本邦彦氏は、近世の里山について、以下のような問題提起をされています。


 「伝統的な草肥農業を継承し発展させた近世農業においては、肥料源としての大量の草や柴を必要とした。そのため人々は、山焼きや樹木伐採などを通じて山野に対して草・柴状態を強制していたのである。『自然にやさしい循環型社会』の象徴とも見られる近世の里山は、じつは人間の生業と自然の遷移との厳しいせめぎ合いの場であり、その景観は自然を人間仕様に改造した状態だった」
(出所)水本邦彦『村―百姓たちの近世』岩波新書、2015年、pp.144-145
 下のポスター画像は、京都府和束町の「山なり開墾」された茶畑です。

(出所) 京都府HP

 この茶畑を含む京都山城地域のお茶づくり文化のストーリー「日本茶800年の歴史散歩〜京都・山城」が、今年、文化庁日本遺産」に認定されました。「日本遺産」とは、文化庁が、地域の文化財群の「パッケージ化されたストーリー」「◯◯物語」を「認定」する事業です。文化財を「活用」した「◯◯をめぐる旅」を支援し地域活性化をはかる観光振興政策、文化庁版・地方創生策なのでしょうか。


 和束町の茶畑を航空写真で鳥瞰すると、下のようになります。

(出所) Yahoo Japan 地図

 



 「生業の景観」と呼ばれる《人間の活動によって人間仕様に造られた二次的自然の空間》。それは、自然と人間にとって何を意味しているのでしょうか。「綺麗な(色?)」「美しい(模様?)」「自然と共存」などの印象論(主観的評価)に陥らないように、客観的に、すなわち、人間と自然との相互作用、人間と二次的自然との相互作用を意識しつつ、分析していきたいと思います。

 《ニ次的自然》から人間への反作用の最たるものは、多くの人間の命を奪いとる大規模な自然災害です。生業が作り出す《二次的自然》が、被害を拡大させる原因の一つになる場合があります。昭和28(1953)年の南山城水害の教訓を踏まえ、水本邦彦氏の問題提起を重く受けとめて研究していきたいと思います。


1953年の南山城水害


 昭和28年(1953年)、8月14日から16日にかけて近畿北部に停滞していた寒冷前線が原因で、京都府南部から滋賀県南部さらに三重県西部にかけての地域が雷を伴った激しい豪雨に見舞われました。相楽、綴喜地方では、特に8月15日午前1時から午前5時以降まで激しく降り、和束町湯船地域では総雨量428mm、時間雨量100mmに達するなど、正に記録的な大雨となりました。
 この大雨により、相楽郡では洪水や土石流の発生や堤防の決壊が起こり、綴喜郡井手町では大正池の堤防が決壊するなどの被害が発生し、相楽、綴喜地方で死者と行方不明者336名、重傷者1,366名、被災家屋5676戸、被害総額150億円(当時)の大災害となりました。
  この災害の特徴は、山地崩壊や土砂流出によって引き起こされた土砂災害であることです。後の調査結果によると、崩壊箇所6551箇所、崩壊土砂量は10トントラック30万台分に相当する227万立方メートル、流出土砂量140万立方メートルにも及びました。
  南山城地域は、風化した花崗岩地域であり、もともと崩壊や流出を起こしやすく、さらに被害河川には天井川が多く、短時間で増水したことも被害を拡大させた要因です。さらに、当時の社会的背景として、戦後の食糧不足を補うための開墾や燃料資源の採取等によって、山地荒廃が著しかったことがあげられます。
 (出所)京都府山城広域振興局・森づくり推進室「山城の災害記録(昭和28年)



 開墾や燃料資源の採取等による「山地荒廃」
 「山地荒廃」を「荒廃」と意識しない、「山地荒廃」を危険視しないような《二次的自然に対する人間の認識》。
 その認識を形成する経済的・社会的な要因。
 これが問題です。



 『南山城水害誌』より和束町南山城村に関する記述を抜粋します。


 「和束川流域に位置し、現在は和束町をつくる上流から挙げて旧湯船村、旧東和束村、旧中和束村、西和束村の一帯では、山腹崩壊がはげしかったために津波が多発し、各地で集落が襲われた。和束川にかかる大小96の橋梁の全てが流出したということからも想像されるように、災害はきわめて悲劇的な状況を呈した。
 まず最上流域にあたり、最高降水量が428mmにも達したとされる旧湯船村では、死傷者こそ少なかったが、一時はまったく孤立し、被害状況も判明せず、16日の午後になって米軍のヘリコプターによって連絡がついたものの、その後もしばらくはヘリコプターによる食糧投下が続けられた。
 地元の消防団員による第1報は、下流域へは行けないので、徒歩で山を越え、滋賀県側の旧朝宮村宮尻にやっとたどりついて、ようやく伝えられるという状況であった。
 犠牲者6名を出した旧東和束村も同様で、しばらくは他と連絡がとれず、『全村埋没したものとみられる』という新聞記事が出たほどである。
 和束川流域の中で、最も惨憺たる状況を呈したのは、旧中和束村である。当時戸数600戸のうち112戸の家屋が倒壊・流失し、行方不明者数・死者数は101名に及び、しかもそのうち15日に死体が見つかったのは、たった1名というありさまであった。
 なかでも、和束川べりで商店街をつくる釜塚・河原地区は特にひどく、和束川が氾濫したうえ、背後山地の砂防堰堤2か所(長さ150mと70m)が決壊し、前方と後方とから激流に挟まれるに至った。こうして午前3時10分ころのわずか3分間で、家も人も押し流されたという。
 このほか、石寺地区はほとんど跡形が無いほどとなり、また杣田地区も荒野と化してしまった。釜塚地区に位置していた役場が全壊したので、しばらくは行政機能のマヒが続いた。
 当時の和田村長談によると、昭和27年7月のヘスター台風の時でさえ、床上浸水1尺ほどであったから、少々の雨でも大丈夫だろうという安心感があった。そのため午前3時と3時20分との2回にわたる避難サイレンにもかかわらず、住民は避難しなかった(毎日新聞16日夕刊)という。ただし、異常な豪雨と和束川の激流音との中で、どれほどの範囲にサイレンが聞きとれたかを、検討しなくてはならないだろう。
 東方の旧大河原村では、野殿地区の被害がとくにひどかった。
 田増大河原駅長談によると、豪雨中夜廻りに出た村人が、村の中央部に山奥から惹かれた暗渠の流れが急におとろえはじめたのに気づき、不審に思い、村人を集めようとした矢先、ゴォーというこの世のものとは思えないものすごい山鳴りをともなった鉄砲水に襲われ、あっという間に駅舎は流され、帯状に広がる同村は横なめにされた。さらに、もう一か所の崩壊と合わせて、一瞬のうちに全壊14戸、半壊28戸、浸水43戸、死者・行方不明者47名を出した(京都新聞16日朝刊」という。
 さらに、押原地区では、幅5メートルであった小川が、一夜明けると80メートルの大河と化しており、巨石はもとより大小さまざまの石の河原となり、石原の下には6戸の民家が埋没した(朝日新聞18日朝刊)。
 ・・・
 山間部に位置し、孤立した童仙房集落へは、20日になっても伊丹海兵隊の飛行機で食糧を投下しなければならない状態であった。
 山間に散在する集落が多い旧宇治田原村では、随所で山腹崩壊にともなう山津波に襲われ、河川は決壊して、犠牲者18名、全壊・流出家屋24戸を出した。また、茶どころだけに茶畑の被害が大きかった
 ・・・(15日)午後3時ころからの約4時間は、山崩れと雨の音とで、耳がつんざかれるような状態が続き、湯屋谷奥山田で被害が続出した。『水による被害よりも山崩れと、上方から落下してくる木材のために多くの家屋がやられてしまった』(村会議員の葛川氏談、朝日新聞16日刊)という。なお、奥山田では、山崩れで一家8名が生埋めになっている。
 犬打川・田原川・禅定寺川などの村内を流れるほとんどの河川が破堤・氾濫したため、田畑・土木施設関係の被害は甚大で、『水害による羅災者は実に村人口の8割に達した』(京都綴喜地方事務所)ということである。
 旧田原村では、犠牲者8名、全壊・流出家屋28戸を出し、とくに茶畑の被害が大きかった。」
(出所) 井出町史編集委員会・南山城水害30周年記念誌編集委員会『南山城水害誌』(谷岡武雄 監修・編集、池田 硯 執筆、1983年)、pp.55-56.


●『南山城水害誌』より「相楽郡の町村別被害状況」を抜粋

(出所) 井出町史編集委員会・南山城水害30周年記念誌編集委員会『南山城水害誌』(谷岡武雄 監修・編集、池田 硯 執筆、1983年)、pp.61-62.


小池洋一「水害の地域的研究−南山城について」(『人文地理』6巻4号、264-278頁、1954年)の問題提起

図 湯谷山付近の崩壊地分布


図 湯谷山付近の茶園と伐採跡地

 「湯谷山付近の崩壊地分布」の図と「湯谷山付近の茶園と伐採跡地」の図とを重ね合わせると、何が言えるでしょうか。
 小池氏の論文は次のように指摘しています。「地表被覆図と崩壊地分布図とを重ねてみると、湯谷山西斜面に崩壊頻度が高いことが、伐採跡地や新植茶園(開墾地)が多く、そこに発生した崩壊が加わっている為と考える蓋然性が強く現れてくる。東斜面 に於ても、その関係が見られる。実際に他の地域においても伐採跡地や茶園の崩壊が多く見うけられた。」(269頁)

 両者の「因果関係」については、私自身は専門知識はありません。しかし、「相関関係」はあると言えるかもしれません。

 論文はこちらです(J-STAGE)。


●湯谷山付近の茶畑(∴)にマーカーを置いてみた図

(出所) 国土地理院電子国土WEBより作成


戦後日本の自然災害による死者・行方不明者数
 下の図は、1945年〜2011年の自然災害による死者・行方不明者数の推移です。
 1960年代以降、災害の「忘却」を示しているのではないでしょうか。

(出所)『防災白書』より作成.

 宇治茶を「世界遺産」や「日本遺産」にしようとする前に、考えなければならないことがあるのではないか。

(文責:伊達浩憲)