陸前高田合宿レポート 4回生 (7) 気仙茶

大屋
 9月11日から14日にかけて、陸前高田市へ。
 一年ぶり、そして三度目の陸前高田ということもあり、これまでお世話になった方と再会できることを楽しみにしてゼミ合宿に臨んだ。 
 11日夜、大雨の影響で高速バスが運休になったが、なんとか無事に陸前高田市に到着。
 一年前の風景と大きく変化したと感じたのは、災害公営住宅の建設が進んでいた点だった。
 昨年9月の訪問では、かさ上げ工事が目に入ってきたが、今回は、少しずつ被災者が仮設住宅から移り始めていることを感じた。


1. 茶園で草とり・剪定作業
 2日間とも、気仙茶の会の皆さんと、茶園の草とり・剪定作業を行った。
 菊池会長と一年ぶりの再会。
 前回と変わらず、明るく私たちを迎えて下さった。
 最近では、仕事で県外出張の機会も多く、私たちが陸前高田を訪れた11日には、日帰りで東京まで行っておられたそうだ。
 そのような忙しい中、私たちを受け入れてくだり、感謝の気持ちでいっぱいになった。

 私たちが昨年に引き続きお手伝いさせていただいている「気仙茶の会」は、震災で被災した気仙茶を守り続けて行こうという思いから、2012年に生まれた会だ。
 様々な理由で、畑を世話する人がいなくなり放置された茶園を会で引き受け、再生活動を行っている。

 菊池会長宅には、「いがす大賞 準大賞」の表彰状が飾られていた。
 「いがす大賞」とは、被災地における地域活動のプレゼン・コンテストで、そこで、気仙茶の会の活動が評価され、「準大賞」を受賞された。
 「『準』がつくけんどなぁ〜」
と、会長は苦笑いしておられたが、会の活動が、被災3県の中でも高く評価されたことは、とても嬉しかった。


 まずは、会長宅裏の茶園へ。

 とても天気が良く、久々に見る気仙茶の樹が緑色に輝いていた。
 気仙茶の会が長部地区から移植した茶の樹も、新しい苗木も、去年より大きくなっていた。

 地元で水産関連のお仕事をされているKさんと一緒に作業をした。
 地元が大好きなことがしっかりと伝わってきた。
 震災後、Kさんの優しい性格のおかげで救われた人もたくさんいたのではないか。
 そう思った。
 BBQの際にもお話をさせていただいたが、復興のためにはどうすればよいかを真剣に考えておられる姿がとても印象的だった。



 横田町の石川茶園では、前田さんご夫妻と一年ぶりの再会。作業を始める際に、石川茶園の歩みについて、そして茶園の世話をされていた方のお話をして下さり、がぜん、作業にやる気が出た。

 気仙茶の会は、茶園の世話をなさっていた方の「生き方」を尊重しながら活動されているのだと改めて感じた


 米崎町の金茶園では、初めて体験する剪定の作業をした。
 伊達ゼミの先輩たちが竹の伐採をしているブログ記事を事前に見ていたが、ソーラーパネルが設置されていて、驚いた。
 茶の樹は2年前の写真に比べて、きれいに整理されているように感じた。


2. 正徳寺 (小友町)を訪問
 12日午後、正徳寺の千葉住職を訪問した。

(正徳寺 本堂)

 正徳寺は、小友町にある浄土真宗大谷派の寺院だ。
 千葉達住職に貴重な1時間を頂いた。

 震災当時のお話や、昨年と今年、私たちが作業させて頂いた「川原茶園」の持ち主で、津波の犠牲となられた故・川原寛さんのお話を伺った。
 川原さんは、正徳寺の檀家総代だったので、千葉住職は川原さんのことをよくご存知だった。


 千葉住職のお姉様がお書きになった、千葉望『共に在りて〜陸前高田・正徳寺、避難所となった我が家の140日』(講談社、2012年)を事前に読んできた。
 震災の時、避難所となった正徳寺の様子を、千葉住職のご自身から、当時のお気持ち、そして今のお気持ちを含めて、ぜひ伺ってみたいと思っていた。

(寺の庫裏で、千葉住職から震災当時のお話を伺う)

 小友町は、広田湾側(三日市)からと、外洋に面した唯出側からと両側から津波が押し寄せ、甚大な被害を受けた地域だ。

 (国土地理院「浸水範囲概況図」より転載。赤い部分が浸水地域。)


 (日本経済新聞2011年12月24日・夕刊より転載)


 墓地の下で津波が止まり、正徳寺は、ぎりぎりのところで被害を免れた。
 震災当時、近隣から150人もの避難者が身を寄せていた。
 正徳寺は、震災直後から7月30日まで140日間、民間の避難所となった。
 私たちが千葉住職からお話を伺った場所、まさにこの庫裏が、自宅を津波に流された大勢の避難者が寝泊まりしていた場所だった。


 住職は、震災前、停電でも使える古い反射式ストーブを捨てないでおいた。
 そのおかげで、停電の中でも、避難者は、凍える体を温めることができた。
 水は山から引いていたし、トイレは簡易水洗式だったので、断水しても生きていけた。
 また、プロパンガスなので、温かい食事をつくることもできた。

 住職も坊守(奥様)もご家族の方々も、「避難者と同じ目線で」と、ご自宅ではなく、避難者と一緒に、この庫裏で寝泊まりされていた。

 避難者は、皆、協力して、炊飯、掃除、水汲みなどできることをした。
 少しずつ決まりごとを作っていって、それぞれに仕事を割り振っていった。

 最初の頃は、パン、レトルトカレー、米など炭水化物系の支援物資が多く、とくに高齢者は大変だったそうだ。
 千葉住職に、献立ノートを見せていただいた。
 朝・昼・夕の献立、支援物資の受け入れ・使用状況など、毎日の記録がノートにびっしり書かれていた。
 女性の避難者たちが協力して、支援物資の中から、出来るだけ工夫して、同じものを食事に出さないように、栄養が偏らないように、心がけていた。

 正徳寺の周囲は、木立で囲まれていたため、避難者たちは、海や瓦礫など、悲しい光景を目の当たりにしなくてもすんだ。「皆さんの心の安寧につながったと思います」と住職はおっしゃっていた。



 子どもたちの元気に遊ぶ声が皆の希望だったし、救いだった。
 先生も親も、皆、「全員そろって6年生の卒業式をやってあげたい、送りだしてやりたい」と考えていた。
 「正徳寺で、小友小学校の卒業式をやろう」という声が上がり、この庫裏で「祝う会」をやった。
 皆、庫裏をきれいに掃除し、子どもたちのために協力を惜しまなかった。
 皆、涙を流しながら、子どもたちの卒業をお祝いした。


 震災から1か月過ぎたあたりから、避難者の方々から、
 「住職、(御門徒さんでもないオラたちが)いつまでここに居ていいのか」
と聞かれるようになった。
 皆、不安だったのではないか。
 千葉住職が、避難者みんなの前で、
 「皆さん全員が、仮設住宅など、行き先が決まるまで、ここを開けておきますので、どうぞお使いください」
と話をしたら、皆さん、ほっとされたご様子だった。


 正徳寺には、寺の避難所だけでなく、近所の自宅避難者向けの支援物資も届けられ、管理されていた。
 古着などが支援物資で送られることもあった。
 「ご支援のお気持ちはとてもありがたいのですが、被災者が求めているものを想像してほしい」とおっしゃっていた。

 現在も継続して陸前高田を支援する団体は少なくなった。
 「定期的に被災地を訪問していただけるだけでも、十分にありがたい」と言っておられた。
 私たち伊達ゼミも、今後も継続して陸前高田を訪れ、いまだ復興が進んでいないことを発信していかなければならないと強く感じた。



 生前、ずっと茶園のお世話をしてこられた川原さんのお話を伺った。
 川原さんは正徳寺の檀家総代の方なので、千葉住職は、川原さんのことをよくご存知だった。
 川原さんの生きてこられた人生、大切にしておられたことなど、詳しいお話を私たちに聞かせてくださった。
 川原さんは、東日本大震災津波で亡くなられた。享年89歳。奥様と娘さんも亡くなられた。
 背が高く、ガッチリとした体格で、とても温厚な性格の方だった。

 正徳寺の田んぼの管理もお願いしていた。
 第二次世界大戦満州へ行ったが、シベリアで捕虜として抑留された。
 凍えるような寒さで、周りの人々が次々と亡くなっていく中でも、川原さんは、必死に耐え抜いたという。
 1960年のチリ地震津波の時も、家が浸水する被害にあわれたが、めげなかったそうだ。

 「震災前、2011年の1月に、こんな話を聞かせていただいた」と千葉住職。
 戦前、大船渡線の工事のために朝鮮半島から連れてこられた人びとには、その後、日本に帰化した方もいたのだが、周りから差別されることもあった。
 しかし、川原さんは、差別をせず、彼らのために住む場所を世話したりして、よく面倒をみていたそうだ。




 川原さんは、自分が大変な苦労をしてきたからこそ、周囲の誰に対しても、差別なく、分け隔てなく接し、生きてきたのではないか。
 このような優しいお人柄の川原さんが、茶園の世話をし続け、気仙茶を守ってこられたのだ。

 川原さんの生きた人生に思いを馳せ、私たちの胸の中にしっかりときざみたい。
 津波をかぶったにもかかわらず、川原さんのように、それを乗り越え、たくましく育ちつつあるこの茶園を守り続けていかなければならない。
 そういう気持ちになった。

 (小友町の川原茶園)


3. 川原茶園と気仙茶の会のみなさんの思い
 二日間の活動の最後に、昨年、草くり作業を行った川原茶園へ。
正徳寺の千葉住職から川原さんのお話を伺ったので、一年前とは違う心持ちで訪れた。
 今年はすでに二回ほど草とり作業をされており、茶樹がしっかり見えている形であった。
 津波による塩害を受けて枯れていたとは思えないほどの再生を遂げた気仙茶の樹は、この一年で、遠目で見ても分かるほど成長しており、「来年には茶摘みができるかもしれない」とのこと。
 気仙茶の会の皆さん、そして私たち伊達ゼミの「思い」が詰まった川原茶園。
 「たくさんの地元の方々と茶摘みができた !」という報告を楽しみにしている。

 私たちが正徳寺で伺った、茶園を管理していた川原さんのお話を気仙茶の会の皆さんにお伝えした。
 うなずきながら私たちの話を聴いてくださった。
 佐藤さんは、震災前日の美容室での川原さんのお話をして下さった。川原さんのお人柄や、気仙茶に対する「思い」を共有する時間をつくることができたことが、とてもうれしかった。
 気仙茶の会の皆さんが茶園の再生活動をしておられる原動力、「震災を乗り越え、地域の『過去』と『今』と『未来』とをつなぐ」の意味が、茶園を大事に育ててこられた川原さんの「思い」を知ったことで、少し見えたような気がした。
 そして、気仙茶の畑を世話してきた人びとの「思い」を将来の世代に伝えていくこと、地域の方々と共に歴史を刻んできた気仙茶を絶やさないことが何より大切だと感じた。


4. 最後に そして これから
 二日間の活動を通して、気仙茶の茶園の背景を知ったことで、前回の訪問よりも陸前高田の皆さんの気持ちをしっかり伺うことができたと感じました。
 気仙茶の会の皆さんがどのような気持ちで気仙茶を守っているのかが少し理解できました。   
 気仙茶の会の皆さんの活動が、気仙茶の復興だけでなく、地域のコミュニティの復興、気仙地域の歴史や文化をつなぐ役割をしているように見えました。

 私たちには直接的な復興支援をする力はありませんが、気仙茶の会の皆さんのような、復興のために頑張っておられる方を応援すること、そして震災で亡くなられた方々の「思い」を聴き、亡くなられた方々の「生きた証」を探し出し伝えていくことはできるのではないかと思った。


 (二人だけの秘密なので「どこの・誰」は言えませんが)、三回の訪問を通じて、自分を必要としてくれる?人がいたのが嬉しかったです。(自分で勝手にそう思っているだけかもしれませんが 笑)
 その人の「京都に行ってみたい!」という思いが、陸前高田との新しいつながりになってほしいと思いました。

 半年後には京都を離れ、社会人として新しい場所で働くことになるが、これで陸前高田との関わりを「終わり」にするのではなく、「始まり」にしたいと考えている。

 震災からの復興のために懸命に活動をしている人がいること、頑張っている人がいることを、自分の周りの人びとに伝え、「震災の風化」、「記憶の風化」を防いでいきたいと考えています。

 そして、これからは、「被災地を訪問する一人」としてではなく、「友人の一人」として、つながりを大切にしていきたいと思った。

 気仙茶の会のみなさん、そして陸前高田でお世話になったみなさん、ありがとうございました!


【2015年9月 小友町の川原茶園にて】


【2014年9月 小友町の川原茶園にて】


【2013年9月 小友町の川原茶園にて】


【2012年9月 小友町の川原茶園にて】




共に在りて 陸前高田・正徳寺、避難所となった我が家の140日

共に在りて 陸前高田・正徳寺、避難所となった我が家の140日