陸前高田合宿レポート 3回生 (4) 仮設住宅

前川
 2回目の陸前高田は、ドキドキとワクワクと不安が入り混じった心持ちでの到着でした。

 今回の目的の一つは、仮設住宅に暮らしておられる方の健康チェックです。
 一見、人の「不幸」を研究材料にするように思われてしまい、この活動を本当に行っていいものかという考えが頭のなかでぐるぐると回っていました。

 僕が幹事長になった時、「このゼミを家族みたいな場所にしたい」と言いました。
 あの時はほとんど思いつきで言ったような言葉でしたが、この合宿を前に考えてみたら、それは、
仮設住宅に暮らす方々の健康が心配だからこそ、強いつながりを長く持ちたい」
という自分の心の表れだったのだと思います。
 仮設住宅を出て災害公営住宅などへの引っ越しが始まっている状況がある。だからこそ、「これまで以上のつながり」を、この合宿で実現したかった。
 仮設住宅の方々とのつながりを創ること、ゼミ生それぞれが強い結びつきを持った誰かを創ること。
 たった1日や2日だけじゃ強いつながりは創れません。
 だけど、確かにそこにあった時間、会話、そして笑顔は、被災者一人一人の心の復興につながるはずです。
 合宿から帰ってきて、この「思い」は「確信」に変わりました。



 初日
 移動が中心でした。
 陸前高田に到着すると、【荷物を鈴木旅館へ運ぶ組】、【マイヤ・イオン買い出し組】、【村上食品さんに挨拶へ行く組】、【一中仮設の中村区長に挨拶へ行く組】とに分かれました。
 自分は、買い出し組のなかにいました。
 マイヤまで歩いて行く道中は、思っていたよりも遠かったです。
 仮設住宅の方々がこの道を歩くことは間違いなくないだろうなと思いました。
 ただ遠いということだけでなくて、工事用の巨大なトラックが行き交っているのです。
 その側を歩くなんて、若者でも考えにくいです。
 BRT竹駒駅と陸前高田駅との間にマイヤがあるので、行きづらさに拍車がかかっています。
 僕たち若者が不便だと感じるということは、みんなが不便だと感じるということ。
 ここをなんとかしなくてはいけないなと思いつつ、具体的な解決策はバス停を増やす程度のことしか思いつきません。
 もしくは、仮設住宅からマイヤまでのシャトルバスを出すこと。
 どちらも、実現するには多くの時間と費用がかかってしまいます。
 実現して欲しいと願うことしか自分にはできません。


 その夜は鍋の試作と翌日のミーティング。
 明日は意味的にも気持ち的にも大変な日になるだろうという予感が強まりました。
 1日を終えて最も印象に残ったのは、マイヤに行く直前に会ったおばあちゃんに「こんにちは」と言われたことでした。
 「また来れたのだなぁ」としんみり思いました。


 2日目
 久しぶりの高田一中仮設は、つい最近来たかのような感覚でした
 さあ仮設訪問を始めようとなった時、恐ろしい不安が襲いました。
 もし、ゼミ生たちが仮設住宅で話を聞く中で心を病んでしまったらどうしよう、重い話を受け止めきれない人が出てしまったらどうしよう。
 自分のやりたかったことを押し付けているだけなのかもしれない。
 そう思いました。
 もちろん自分自身も、訪問先に失礼しないだろうか、などの不安がありました。

 心配のしすぎだったと、今となっては思います。

Aさん
 初め、先輩と二人でAさんのところを訪問しました。
 偶然、戸口のところにいらっしゃって、お話ができました。
 「君達は何かの調査で来たの?」と聞かれたことです。
 ドキッとしました。
 やはり、個別訪問=調査というイメージがあって、あまり印象は良くないのだと。
 よくよく聞いてみると、別の大学の学生が卒業論文を書くために来たことがあった、とのことでした。
 Aさんは、「調査なんかしてすごいね」とおっしゃっていましたが、僕は複雑な思いで聞いていました。

 30分ほど話した後、なんと仮設住宅の中に入れてもらえることになりました。
 初めて入った仮設住宅は、シンプルな作りと、微かな線香の匂いが印象的でした。
 2DKの住宅でしたが、一人で暮らすには大きく、二人で暮らすには明らかに狭い大きさでした。
 震災後、伴侶を病気で亡くされたAさんは、そこに一人で暮らしています。
 Aさんが好きなことはナンプレとパソコンいじり。
ナンプレは、昔入院されていた時に、分厚い入門書をもらってから没頭するようになった。入門書を全て終えた現在は、新聞に時々掲載されているナンプレをやるのが楽しい。」
「パソコンいじりは日課。昔はパソコンを使うことが多かったが、震災後はしばらく使っていなかった。今のパソコンを購入したのはつい最近。それを使って、毎日使用したお金を出納帳にしてExcelにまとめている。津波で家が流されたが、お店の借金は残ったまま。それ以来、お金の管理には気をつけている。」

 その後も、あの日のこと、今の生活のこと、今後の住まいのこと、たくさん話してくださいました。

 「海の近くで、夫婦で店を経営していた。あの日はお客さんがいた。地震があって、はじめはガタガタと揺れるだけだった。しかし、揺れがだんだんと強くなり、気づいた時には、何かにすがらないと立てないほどになっていた。パリン、パリンとお皿が割れ、テレビが台から落ちて、壁から伸びるコードで宙づりになった。揺れが収まると、客が『逃げましょう!』と言った。津波が来るとわかった。伴侶を車に乗せ、高田小学校を迂回して、一中の高台へと向かった。その頃、海岸から一中へまっすぐ向かう道は、車という車で埋め尽くされ、動けなくなっていた。10分後、そこは濁流に飲み込まれた。」

 「朝と昼は自分で料理をする。買い物は、車でイオンかセブンイレブンに行く。片方の目がよく見えないので、近いうちに免許を返還する予定。慢性的な腰痛に悩まされているので、遠くまで歩くことができない。食事は、一回にたくさん作り、パックに分けて冷凍庫に保存している。夕食は、弁当をデリバリーしてもらっている。
 持病があり、毎回の食事の量も制限されている。毎月、検査に行っている。他にも病気があり、抗がん剤による治療を定期的に行っている。」

 「来年には公営住宅に移ることになっている。仮設暮らしとは違って、家賃や光熱水費が発生する。収入が年金しかないので、公営住宅での暮らしには、少し不安を感じている。」


 気がつけば、時間は12時30分。
 話し始めてから約2時間経過したところでした。


 生まれて初めて、人の話を“聞く”ではなくて“聴く”ことができたような気がします。
 ちゃんと目を見て「聴く」。
 実践するのは難しく、しかし、とても重要なこと。「聴く」は、人間と人間との関係の基盤をつくるのだと実感しました。


 昼食を取り、翌日の鍋と棒サッカーのレイアウトを考えた後、再び仮設住宅の訪問に行くことに。


Bさん
 訪れたのは、Bさんのお宅です。
 話すと、とても快活な方で、震災前より歩くことが多くなったとおっしゃいます。
 「震災前は、平地に住んでいたので、移動手段は自転車だった。仮設住宅に住むようになってからは、坂が多くなったし、工事の車が怖いし、歩くことが多くなった」。
 「元気ですね」と言うと、「落ち込んでいる暇なんてない。しっかりしなきゃ」とおっしゃいました。
 無理して頑張りすぎたりしていないか、と心配になりました。

 「とっておきの秘密の趣味がある」とおっしゃったので、見ないわけにはいきません。
 お願いしてみると、少し恥ずかしそうな顔をしながら、家に招き入れてくださいました。
 その趣味とは、○○○(秘密!)です。
 とてもお上手でした。
 「一つください !」と言ってみましたが、みごとに断られてしまったので、全力で記憶に焼きつけました。


 震災の話になった時、Bさんは、まるで当時の自分になったかのように、劇的な口調でお話になりました。
 「あの日、お昼ご飯を食べて、ゆっくりしている時に、地震が起こった。車を出し、伴侶とおばと3人で高田一中の方へ向かった。息子は、自宅の裏山を登って避難していた。一中へ続く坂道の麓で、警備員に停められ、『車をここに置いていくように』と言われた。仕方なしに車を降りて、坂を登っていると、前方から女性が叫んだ。『何やってんの!速く!』 。全速力で坂を駆け上がり、後ろを振り返ると、そこはもう海だった。」

 「仮設住宅で暮らし始めた当初は、環境の変化に着いていけなくて、自暴自棄になっていた。
 その後、伴侶が亡くなって、とうとう自分だけになった時、『生きなきゃいけない』と思った。
 それからは、落ち込んでいた時間を大好きな趣味に使っている。落ち込んでいる暇なんてない。しっかりしなきゃ。」


 あの日の出来事、その後のこと。
 本気で僕たちに伝えようとしてくださいました。
 目をそらすことができず、言葉に合わせてうなづくことしかできませんでした。

 その後は、昔の話とか、旅行の話をしました。
 「北海道のラベンダー畑はたまらなく綺麗だ」と語ってくれたのが印象的でした。
 「話せてよかった、また明日会おうね」。
 そう言ってくださいました。


気仙茶の会との交流会
 その夜は、気仙茶の会の方々が歓迎会を開いてくださいました。
 僕たち伊達ゼミが来ると必ず開いてくださり、それは感謝しても仕切れないほど。
 及川副会長とお話しました。
 気仙茶の復興に熱心な方です。
 「気仙茶を発酵させて紅茶を作っている」という話を伺いました。
 「香りはかなり強いが、味がついてこず、全体的に薄い印象になってしまう」そうです。
 発酵させる紅茶は、蒸す緑茶とは大きく異なります。
 「まだまだ」と話す及川さんの目は、試行錯誤を繰り返す研究者のそれでした。



 NICEという国際ボランティア団体の活動で陸前高田に来ていたPetrとNelaの二人とも話しました。

 二人はチェコ出身。
 「日本が大好きで、震災後からずっと気になっていて、やっと来れた」
と言ってくれました。
 久しぶりに、心からのThank youを言いました。
 4年半経った今、日本人ですら震災を忘れつつあるように感じます。
 そんな中で、遠く離れたチェコから来てくれたボランティアの二人が、気づかせてくれたことがあります。
 震災の風化が進む日本。
 国外にも、今も日本のことを思ってくれている人たちがいる。
 この「ずっと思ってくれている」という意識。
 僕たち伊達ゼミが、目指さなくてはいけないことだと思います。
 原点にたち戻る機会をくれた二人との不思議な巡り合わせでした。


 そのまま話をしていると、別の及川さんが来て、僕たちに話をしてくれました。
 3月11日の津波が10〜20メートル級の大津波だったこと、
 防潮堤の高さは5〜6メートルしかなかったこと。
 今回の津波は、防潮堤がたとえ10メートルの高さだったとしても、倒してさらっていってしまう強さを持ったものだったこと。


 全部聴き終わって、Petrが言いました。
 「先日、宮沢賢治の資料館に行って、『雨ニモマケズ』を読みました。あの姿が日本人の真に耐える強さを語っていると思います。私は、あの詩とその作者を心から敬愛しています。」
 まさかチェコから来たボランティアの口から『雨ニモマケズ』が出てくるなんて思わなかったので、僕は驚き半分、とても嬉しかったのを覚えています。
 『雨ニモマケズ』は日本人の多くが知っている詩です。
 正直、僕は、中学校以来読んでいませんでした。
 だからこそ感動したし、同時に、僕自身がもっと日本のことを知らないといけないなと思いました。
 その言葉を伝えると、及川さんが目に涙を浮かべながら黙ってうなづき、そしてPetrがうなずき返す姿。
 まさに、ローカルでグローバルな陸前高田でした。
 相手の文化を尊敬する、なんだか不思議な夜でした。
 この機会を与えてくださった菊池会長をはじめとする気仙茶の会の皆さんには、感謝しきれないくらいの恩があります。
 ありがとうございました。


 3日目
 集会場を使っての鍋パーティと棒サッカー大会です。
 うまくいくだろうかと緊張していました。
 朝から買い出しと準備に大あらわ。

 この日は、ついに、ラジオ体操に参加することができたようです。

Cさん
 僕はというと、ゼミ生二人でCさんのお家にお邪魔し、朝ごはんをいただきました。
 二色丼とサラダと漬物、どれも抜群に美味しくて、先生と先輩も集まって4人で食べました。
 Cさんは昔、料亭を営んでいたそう。
 なるほど、美味しいわけです。
 震災後は、他人に料理を作る機会がめっきり減ってしまったのだと思います。
 だからこそ、僕たちに料理をふるまってくださる時、すごく生き生きとしてらっしゃるようでした。
 「料理が楽しい」というCさんの言葉に現れていました。


 が、このままでは鍋を食べる前に満腹になってしまうので、感謝の気持ちを伝えて準備に向かいました。
 鍋が始まると、2月以来ひさしぶりにお会いする方々が続々と集まって来られました。
 「懐かしいね」、「久しぶりだね」と言ってくださる言葉は、僕の緊張をじんわりほぐし、溶かしていくようでした。
 鍋は盛況。
 それぞれのテーブルにはり付いたゼミ生みんなが楽しそうに話していたのが印象的でした。


 棒サッカーは、鍋の後、14:30から始まりました。
 ルール説明を行った後、実際にやってみると、思っていた以上に盛り上がりました。
 カメラを持っていてよかった。
 みんなの笑顔に突き動かされて、シャッターを切る指が止まりませんでした。


Dさん
 集会場での活動が終わって、宅急便の集荷を待っている間にDさんとお話しました。
 Dさんの「日課」は「1万歩歩くこと」。
 その日はまだ3千歩でした。
 7千歩を歩く時間を僕たちに使ってくれたのだと思うと、申し訳ないような、でもうれしい気持ちになりました。
 「日課」を消化するため、2人で仮設団地の周りをぶらぶら散歩しながら、今日の感想とか、仲良くなったゼミ生の話をしてくれました。
また、Dさんは、新しいことを知ることが好き。伊達先生に教えてもらった「ゼミ」という言葉の意味を嬉しそうに僕に教えてくれた。「何歳になっても、新しいことを知るのは、楽しくてうれしい」と笑っていた。

 そして、震災や戦争のことを教えてくださいました。
 「震災直後は、1日おにぎり1個だった。みんなお腹を空かせていた。中には、お腹を空かせた旦那さんのために、食べるのを我慢して旦那さんに与える奥さんもいた。ひもじかったけれど、辛くはなかった。小学生の時、ちょうど戦争が終わる頃、食べ物が何にもなくて、毎日、アワとヒエに少しの米を混ぜて食べてた。正月だけ、米を炊いて食べた。だから、震災後に食べるものが少なくても、米のおにぎりが食べられるだけ贅沢だった。戦時中は、毎日ひもじい生活を送っていたから。今は、生きてご飯が食べられるだけで贅沢だ」。
 「戦争と震災。どちらも、とても辛い」とも、語ってくださったDさん。その口調から「辛さ」がひしひしと伝わってきました。
にもかかわらず、じっと耐えて、なんとか前向きに生きていらっしゃいます。


 晩は、僕のミスがあって車屋酒場に全員で行くことができなかったので、仮設班のみんなで、鶴亀鮨での夕食でした。
 2月に訪れた時よりもワンランク上の海鮮丼をいただき、満腹、大満足でした。
 最後に、大将と店員の方とゼミ生とで写真を撮りました。
 紙テープを滝のようにくるくると落とす「ナイアガラの滝」をさせてもらったのですが、難しくて何度も失敗しました。

 合宿が始まる頃に感じていた緊張や不安、そして、また会えることのたのしみ。そう思う気持ち。
 今となっては、それぞれが、現地の人との時間、会話、笑顔に包まれて、血の通った思い出になりました。
 すごく大切な記憶。
 自分ではない他者と共有していて、胸の奥をじんわり温めるような記憶。
 この、温かい記憶の共有の積み重ねが、一人ひとりの心の復興の鍵になると信じています。
 もしそうでないなら、Aさんは鍋に来てはくださらなかったと思います。

 今回の合宿すべてが、僕にとって、新しい始まりでした。
 目と口、そして身体全体を使って伝えてくださったことすべて、その方のありのままの人生の一端。
 何も取りつくろったりしない自分自身で話を聴いて、受け止めました。
 この合宿で出会って私たちに話してくださったみなさん、仮設の中に招き入れてくださったAさん、Bさん、Cさんには、「ありがとう」って何度も言いたいです。
 ただ聞くだけで、何も気の利いたことができなくてごめんなさい。
 伊達ゼミの一員として陸前高田を訪れる最後の合宿が終わりました。
 またお会いしましょう。
 次は、ただの前川竣として戻ってきます。
 その時まで、どうかお元気で。