「人間復興」の経済学〜センの潜在能力アプローチ(ノート)

 「人間の復興」の理解を深めるために、『福祉の経済学−財と潜在能力』などアマルティア・センの代表的著作の中から重要な言葉を抜粋します。
1.潜在能力アプローチとは

(1) 一人ひとりの「福祉(よき生well-being)」を理解するために、「財」の空間から「機能」の空間へ視点を移動し、彼/彼女が財を用いて何をなしうるか・何になりうるかを見なければならない


 「財の特性は、それを用いてひとがなにをなしうるかを教えてはくれない。例えば、あるひとが栄養の摂取を困難にするような寄生虫性の病気をもっていれば、他のひとにとっては十分すぎるほどの食物を消費しえたとしても、彼/彼女は栄養不足に苦しむかもしれないのである。ひとの福祉(well-being:良き生)について判断する際には、彼/彼女が所有する財の特性に分析を限定するわけにはいかない。われわれは、ひとの『機能』(functionings)にまで考察を及ぼさなければならないのである。・・・
 自転車は、それをたまたま所有するひとが健康体の持ち主であれ障がい者であれ、ひとしく『輸送性』という特性を持つ財として処理されてしまう。
 ひとの福祉について理解するためには、われわれは明らかに、ひとの『機能』 にまで、すなわち、彼/彼女の所有する財とその特性を用いて、ひとは何をなしうるかにまで考察を及ぼさなければならないのである。
 例えば、同じ財の組合わせが与えられても、健康なひとならばそれを用いてなしうる多くのことを障がい者はなしえないかもしれないという事実に対して、われわれは注意を払うべきなのである。
 機能とは、ひとが達成しうること―彼/彼女が行いうることなりうること(manages to do or to be)―である。」
(アマルティア・セン福祉の経済学−財と潜在能力』鈴村興太郎訳、岩波書店、1988年、21頁、訳文は一部変更している)
 被災者一人ひとりの福祉(良き生)について理解するためには、そのひとが所有する「財」の大きさだけを見ていてもわからない。財の空間から「機能」の空間へ視点を移さなければならない。「機能」とは、あるひとがその財を用いて達成しうること、すなわち「行いうること」「なりうること」である。

 例えば、仮設住宅で暮らす子どもたちは、自転車という財を用いて、何をなしうるのだろうか。
 被災地には、自転車を自由に乗り回せるような場所がない。
 仮設住宅は高台に建っており、住人は、急な坂道を乗り降りしなければならない。
 車道には、復興工事のための大型トラックがひっきりなしに走っている。歩道がないところも多い。
 小学校へは、スクールバスや、保護者が運転する自家用車で通っている。登下校も大変だ。
 仮設住宅団地では、「遊びに行ってくるね ! 」という子どもたちの声はあまり聞かれない。一人でゲームをして遊んでいる子もいる。


 子供たちは、本当は、外で遊びたいのではないか。ボランティアが来ると、それまでの「(子ども達なりの)大人への遠慮」から解き放たれたように、大声で遊びだす。そして、仮設団地の集会場を「我がもの顔で」使いだす。


(2) 機能・潜在能力・自由
 ある人の機能(ありよう・行い)の集合=潜在能力は、彼/彼女自身がどのような生き方を選択できるのかという「自由」を反映している


個人の福祉 [良き生] は、その人の生活の質、いわば『生活の良さ』として見ることができる。生活とは、相互に関連した『機能』(ある状態になったり [ being]、何かをすること[ doing ])の集合からなっているとみなすことができる。
 このような観点からすると、個人が達成していることは、その人の機能のベクトルとして表現することができる。
 重要な機能は、『適切な栄養を得ているか』『健康状態にあるか』『避けられる病気にかかっていないか』『早死にしていないか』などといった基本的なものから、『幸福であるか』『自尊心を持っているか』『社会生活に参加しているか』などといった複雑なものまで多岐にわたる。
 ここで主張したいことは、人の存在はこのような機能によって構成されており、人の福祉の評価はこれらの構成要素を評価する形をとるべきであるということである。
 機能の概念と密接に関連しているのが、『潜在能力(capability)』である。これは、人が行うことのできる様々な機能の組合わせを表している。したがって、潜在能力は、『どのようなタイプの生活を送るか』に関する個人の自由を反映した機能のベクトルの集合として表すことができる。
 財空間におけるいわゆる『予算集合』がどのような財の組合わせを購入できるかという個人の『自由』を表しているように、機能空間における『潜在能力集合』は、どのような生活を選択できるかという個人の『自由』を表している。」
(アマルティア・セン『不平等の再検討』池本・野上・佐藤訳、岩波書店、1999年、59-60頁、訳文は一部変更している)


 仮設住宅に暮らす人びとは、適切な栄養を得ているか、健康状態にあるか、避けられる病気にかかっていないか、早死にしていないか、自尊心を持っているか、社会生活に参加しているか、等の重要な「機能」を達成できているか。
 潜在能力アプローチは、まず第1に、被災者の「福祉」(良き生)を評価するために、これらの「機能」を評価しようとする。
 また第2に、ひとが行うことができる様々な機能の集合=「潜在能力」は、彼/彼女がどんな生き方を選択できるか、そして、選択の自由を行使できる実質的な機会がどのくらいあるのかを反映している。
 センの「福祉」は、単に、実際に達成された機能の水準の高低だけを問題にし評価しようとしているのではなく、潜在的に達成可能な「機能」の豊かさ=「潜在能力」の豊かさを問題にし評価しようとしている。
 被災地の高齢者は、選択の自由を行使できる実質的な機会がどのくらいあるのか。結果的には同じ「仮設住宅にじっとしている」であるが、(a) 選択可能な、意味のある選択肢が他にもあって、自律的・主体的な選択の結果として「仮設住宅にじっとしている」ケースと、(b) 他に選択肢がないために「(仕方なく)仮設住宅にじっとしている」ケースとでは、大きな違いがある。
 彼/彼女の生には、実際に選択可能な様々な選択肢を考慮・評価する機会があるのか。その選択は自律的・主体的になされているのか。
 潜在能力アプローチは、彼/彼女が実際に選択した選択肢だけで福祉(良き生)を評価するのではなく、実際に選択しようと思えばできた(しかし実際には選択されなかった)他の選択肢をも考慮するアプローチである。
 それゆえ、潜在能力は、彼/彼女の実質的な「自由」を表している。


(3)さまざまな機能


 「ひとが達成する機能を理解しようとすれば、ひとの諸条件に関して非市場的な直接的観察を広範に用いようとするのは自然である。・・・
 豊かな国では、長寿・栄養・基礎的健康・疾病の防除・識字などを含む諸機能においては個人間でそれほどの差異は存在しないかもしれないが、大きな個人的差異を含む他の機能が存在する。
 友人をもてなす能力・会いたいと思うひとの近くにいる能力・コミュニティ生活において役割を果たす能力などは、アメリカやイギリスのような豊かな国においてすら個人間で大いに異なりうる。
 自分の衣服を恥じることなく生きる能力は、少なくともアダム・スミスカール・マルクスに遡る時代から重要とみなされてきたもうひとつの機能であって、やはり個人間で大いに異なりうる。」
(アマルティア・セン福祉の経済学』、訳66頁)
 ある個人が達成する機能を理解しようとすれば、彼/彼女の、一人ひとり異なる個人的資質や、彼/彼女が置かれている社会的・環境的諸条件について、直接的に観察する必要がある。

(4)財の特性を「機能」に変換する利用能力(利用関数)と、利用能力に影響を与える個人的・社会的要因


 「の特性を機能の達成へと移す変換は、個人的・社会的なさまざまな諸要因に依存する。
 栄養摂取の達成という場合には、この変換は、(1) 代謝率、(2) 体のサイズ、(3) 年齢、(4) 性(そして女性の場合には妊娠しているか否か)、(5) 活動水準、(6) (寄生虫の存在・非存在を含む)医学的条件、(7) 医療サービスへのアクセスとそれを利用する能力、(8) 栄養学的な知識と教育、(9) 気候上の諸条件、などの諸要因に依存する。
 社会的な行動を含む機能の達成や、友人や親戚をもてなすという機能の達成の場合には、この変換は(1) ひとが生活する社会で開かれる社交的会合の性格、(2) 家族や社会におけるひとの立場、(3) 結婚、季節的祝宴や葬式など、その他の行事の存在・非存在、(4) 友人や親戚の家庭からの物理的距離などの要因に依存するだろう。」(『福祉の経済学』、訳42頁)
 このように、潜在能力アプローチは、「被災者」を一括りにして取り扱うのでなく、被災者一人ひとりが抱えている個人的諸要因や、置かれている社会的諸要因、環境的諸要因を考慮することができる。
 財・サービスの特性を機能に変換する利用能力(利用関数)は、(a)個人的特性、(b)社会的要因、(c) 環境的要因によって影響を受ける。
 岩手県交通バスやJR大船渡線(BRT)などの公共交通サービスがあっても、高台の仮設住宅に暮らす高齢者は、(a)津波で伴侶を喪い悲しみのどん底にあり「何もする気がしない」、足が悪く自己歩行距離が短いなどの個人的要因や、(b)バス停までの物理的距離や坂道の存在といった環境的要因ゆえに、その交通サービスの特性を「買い物をする」や「コミュニティの集まりへ参加する」などの「機能の達成」に変換することができない。

 もちろん、被災地では、多くの方々の協力のもとに、様々な取り組みが懸命に行われていることも忘れてはならない。陸前高田市社会福祉協議会のHPはこちらNHK「ハートネットTV」のHPはこちら、JDF東日本大震災被災障がい者支援いわて本部のHPはこちら


(出所) 陸前高田市社会福祉協議会のHPより転載
 この無料移送サービスの対象者を拡大できないか。移動範囲を大船渡市(県立病院がある)にまで広げられないか。実施期間を延長させることはできないか。土日・祝日も利用できるようにならないか。利用目的を社交・娯楽などにまで広げられないか。車両の台数を増やすことはできないか。被災者が気がね・遠慮することなく利用できるようにならないか。これらは「贅沢」なことなのか。


(5)潜在能力アプローチの定式化


 x i = 個人 i が所有する財のベクトル
 c (・)= 財ベクトルをその特性ベクトルに変換する(必ずしも線形ではない)関数
 f i (・) = 個人 i が(その所有する財の特性ベクトルから機能ベクトルを生み出すために)実際に行いうる財の利用パターンを反映する、個人 i の「利用関数」
 F i = 個人 i が実際に選択可能な「利用関数」f i (・)の集合
 ・・・
 ひとがある利用関数 f i (・)を選択すると、彼/彼女が財ベクトル x i を用いて達成する機能
 b i = f i( c( x i ))
というベクトル b i で与えられる。
 ・・・
 ベクトル b i は、ひとのありさま (being) (例えば、栄養は行き届いているか・服装はきちんとしているか・移動能力は備わっているか・コミュニティの生活に役割を果たしているかなど)を表すものと考えうる。
 そのとき、福祉』とは、この b i すなわち、彼/彼女が達成しているありさまの評価であると考えることができる。
・・・
もし個人 i が集合 X i 内の財ベクトルのみを選択できるのであれば、彼/彼女が達成できる機能ベクトルの集合
  Q i ( X i )= { b i | あるf i (・) ∈ F i とある x i ∈ X i に対して b i f i (c (xi ))}
で与えられることになる。
【注 「x ∈ X」とは「xはXに属する」という意味】
 集合 Q i ( X i ) は、(財の特性を機能に変換する)個人的特徴 F i と 財に対する支配権 X i (『権源』)が与えられたもとで、個人i が機能の選択に関してもつ自由度を表現している。
 この意味において、Q i を、これらのパラメーターが与えられたもとでの個人 i の潜在能力 (capabilities) と呼ぶことができよう。それは、彼/彼女が達成しうる機能のさまざまな組み合わせ(『ありかた beings』)を反映するものである。
(アマルティア・セン福祉の経済学−財と潜在能力』鈴村興太郎訳、岩波書店、1988年、23-26頁、訳文は一部変更している)

 潜在能力アプローチは、ひとの福祉(良き生)を評価するために「機能」を重視するとはいえ、「財」や「所得」も重要である。
 上の引用文に明らかなように、ある個人の潜在能力は、(a)彼/彼女の利用可能な財の集合と、(b)財の利用に関する彼/彼女の個人的特徴という2つの要因によって決まる。
 (a) ある個人が選択可能な財の集合
 個人 i は、実際に選択可能な財の集合 X i から 財 x i を選択する。この選択は、彼/彼女の所得や財の価格に制約される(予算制約)。東日本大震災では、津波で事務所や店舗、工場や漁業設備などが流され、失業や休業、転業・廃業が発生し、家計の所得水準は大きく減少した。そのため、実際に選択可能な財の集合 X i も大きく狭められたと考えられる。
 (b) ある個人が選択可能な利用関数の集合
 また、個人 i が実際に選択可能な利用関数の集合 F i についても、津波による市街地の浸水、家屋の倒壊、大量の瓦礫、道路の寸断、停電、避難所での生活など外部環境の激変により、大きく狭められたであろうと考えられる。
 (c) 被災者一人ひとりの個人的資質(財の特性を機能に変換する個人の精神的・身体的能力)、それに影響を与える社会的要因・環境的要因
 以上のように、個人 i が実際に選択可能な財の集合 Xi 、利用関数の集合 F i が与えられたとした上で、被災者一人ひとり異なる「利用関数」(財の特性を機能に変換する個人の精神的・身体的能力)、それに影響を与える(一人ひとり異なる)社会的要因・環境的要因に注目していくのが、潜在能力アプローチの大きな特徴である。
 潜在能力アプローチは、個人の多様な資質、彼/彼女を取り巻く多様な社会的・環境的諸条件を、利用関数(利用能力)を通じて「機能」という指標に反映させることができる。この点において、財や所得の大きさに着目する通常のアプローチとは異なる特徴をもつ。

 被災者一人ひとりの「福祉」(良き生)について理解するためには、彼/彼女が所有する財を用いて行いうること・なりうること、すなわち「機能」に注意を払わなければならない。
 栄養は行き届いているか、移動能力は備わっているか、コミュニティの生活に役割を果たしているか。まず、このことを客観的に問いかけること。これが、センのアプローチの出発点だ。
 そして、(a)一人ひとりの利用能力(利用関数)、すなわち、自転車や公共交通サービスなどの財・サービスを用いて「機能」に変換する個人的資質や、(b)この変換に影響を与える社会的要因や環境的要因を注視する。
 彼/彼女が達成できるさまざまな機能の集合を「潜在能力」と呼ぶ。これは、彼/彼女が、機能の選択、生き方の選択に関してもつ「自由度」を表している。
 ベーシックな機能のリストは、公共的討議を通じ、社会的にも合意される。

選択の限界の拡張をめざす

 
 「個人i の実際の機能の達成は、利用関数 f i (・)と財ベクトル x i との選択に依存する。 
 ・・・利用関数 f i (・)は、(利用関数の実現可能集合) F i からの選択の産物である。
 さらに、[財ベクトル] x i もまた、財に対するひとの支配権の限界内での選択の産物である。そしてこの支配権それ自体は、所得・価格その他によって x i の選択範囲がある集合 X i (『権原』)に限定されるという形で表現される。
 これらの限定的諸条件のもとに、ひとが選択しうる機能ベクトルの全体は Q i であり、この集合がひとの潜在能力、すなわち彼/彼女が選択を媒介して達成しうるさまざまな代替的機能ベクトルを反映するのである。
 潜在能力 Q i の決定要因のうちで、ひとが選択できる要因選択できない要因とを区別することが重要である。
 例えば、ひとは彼/彼女の代謝率を選択したり簡単に変更したりはできないから、高い代謝率をもつひとは(栄養の不足という論脈で)かなり『不利』な利用関数 f i (・)の集合 F i に甘んじなくてはならないだろう。
 しかし、そのような集合 F i の内部においてすら、栄養学的知識・医学的配慮などによる適切な配慮の余地があるあるだろう。合理的資源配分のための政策決定に際しては、選択可能な要因がはっきり区別されている必要がある。
 同様の問題は、財ベクトル x i 選択においても発生するだろう。ひとは権原 X i の内部での選択の可能性をもつが、特定の状況においてはその選択の余地は非常に限定されているかもしれない。資源配分と政策決定に際しては、とりわけ X i と F i に反映される選択の限界を拡大するという問題に取組まなくてはならない。
(アマルティア・セン福祉の経済学』、訳42-43頁)

 被災者は、様々な種類の、財の「選択の限界」や、利用関数の「選択の限界」に直面している。
 経済学は、資源配分と政策決定に際して、「選択の限界」の拡大(生き方の幅の拡大、潜在能力の範囲の限界の拡大)に積極的に取組まなくてはならない。
 例えば、移動という機能が、人間の潜在能力の重要な構成要素の一つであると社会的に合意されたならば、足に障がいを持つ人にたいしては、車椅子や各種移動サービスなどの優先的提供(資源配分)が保障される必要がある。そのことによって、彼/彼女の「選択の限界」が拡大される。
 陸前高田市は「ノーマライゼーションという言葉のいらないまちづくり」を目指している。


(6) 機能を評価する


 「ひとの機能は多岐にわたるから、さまざまな機能を相対的に評価するという問題が生じることは当然である。しかし、福祉の計測にあたっては、このような評価作業を避けて通るわけにはいかない。福祉の計測は、結局のところ、ひとの存在と生活の質の評価である他はないからである。・・・
 実のところ、評価することは福祉の判断の不可欠の一部なのであって、潜在能力アプローチは、この問題に明示的に焦点を合わせたものに他ならない。そのうえで本書は、福祉の判断に際する評価の適切な対象は、ひとが実現することができる存在や行為であることを主張している。いうまでもなく、評価は内省的な活動である
 ・・・快楽や苦痛、欲望と失望は真剣な熟慮などを必要とせずに生ずるだろうが、評価はそれとは異なり、本質的に熟慮にもとづく活動なのである。評価、なかんずく機能の評価に明示的に関心を集中することにより、本書が提唱するアプローチは、われわれの無批判的な(なんらかの形式の効用に反映される)感情や、われわれの(実質所得に反映される)富裕の市場評価よりも、われわれの思想や内省に優先度を与えるのである。批判的で内省的な社会的存在としての人間に関心を集中する点において、私のアプローチは、アリストテレス、スミス、マルクスによって先鞭をつけられた哲学的立場に深く根差すものとなる。
(アマルティア・セン福祉の経済学−財と潜在能力』「日本語版への新しいてびき」鈴村興太郎訳、岩波書店、1988年、3-4頁、訳文は一部変更している)
 福祉(良き生)とは、「ひとが実現することができる存在や行為」であり、一人ひとり異なるので、福祉の評価は、彼/彼女自身の熟慮に基づく、内省的な活動である。


  v i (・)が個人 i の評価関数であるならば、機能ベクトル b i の価値
  v i v i ( f i( c(x i )))
によって与えられることになる。
・・・・
 評価関数 v i (・)が与えられれば、個人 i が達成しうべき福祉の評価
  i = {v i | ある b i ∈ Q i に対して v i v i (b i }
という集合によって特徴づけられる。」
(アマルティア・セン福祉の経済学−財と潜在能力』鈴村興太郎訳、岩波書店、1988年、25-26頁、訳文は一部変更している)

(7)潜在能力アプローチの2つの形式。機能が2つの場合の「潜在能力集合」の図解

 
 「『潜在能力アプローチ』においては、実現された機能―ひとが実際になし得ること―に注意を集中することもできるし、ひとがもつ選択肢の集合―彼/彼女の真の機会―に注目することもできる。
 ・・・あるひとが享受する各機能を実数で表現することができると仮定すれば、ひとが実際に達成した生き方・在り方は n 個の機能―機能の種類の有限性を仮定して―からなる n 次元機能空間内の機能ベクトルで表現される。あるひとが選択可能な機能ベクトルの集合は、彼/彼女の潜在能力集合と呼ばれる。
 図A7-1は、2次元機能空間を例示したものであり、あるひとの潜在能力集合は影を付した領域 Kで与えられている。
 この潜在能力集合の中から、彼/彼女は1つの機能ベクトル x ―必ずしもユニークである必要はないが―を選択する
 ひとが価値を認める生き方に関する無差別曲線を用いて、機能空間内の選択を考えるのは有益である。そのとき、x は、.....到達可能な最高位の無差別図表に属しているものと考えることができる。
 『潜在能力アプローチ』は、ひとがいかなるオプションをもっているか―これは潜在能力集合によって表現される―に焦点を合わせても適用することができるし、彼女が選択する実際の機能の集合―これは選択された機能ベクトルによって表現される―に注目して適用することもできる。
 『オプション型適用法』と呼ばれる前者の方法においては、集合 K 全体に焦点が合わせられるが、『選択型適用法』と呼ばれる後者の方法においては、関心はより狭く、xに集中される。
 オプション型適用法は、さまざまな選択肢の間で選択する自由に直接的に関心を寄せるが、選択型的用法は実際に選択された結果に専ら関心を集中するのである。
 潜在能力アプローチの2つの形式は、いずれの文脈の中で応用されてきたし、ときには両者は結合して応用されてきた。」

(アマルティア・セン『不平等の経済学[拡大版]』鈴村興太郎・須賀晃一訳、東洋経済新報社、2000年、224-225頁、また、『自由と経済開発』石塚訳、日本経済新聞社、2000年、84-85頁にも同様の記述がある)


2. 適応的選好
長く抑圧された人びとは「適応的選好」をもつ。それゆえ、効用や幸福度・欲望充足度では、彼/彼女が置かれている物理的条件、その人自身が価値を置く人生と評価しているのかどうかを見ないといけない。


「効用に基礎を置くアプローチ全体は、実はきわめて貧困な理論なのである。効用に対するいずれの見方も、(1)ひとの精神的な態度に全面的に基礎をおくこと、(2)そのひと自らの評価作業――ある種の生き方を他の生き方と比較して評価しようとする知的活動――への直接的な言及を避けること、という二重の性格を共有している。私は、この前者を『物理的条件の無視』と呼び、後者を『評価の無視』と呼ぶことにしたい。
 食物に欠乏し栄養不良であり、家もなく病に伏せるひとですら、彼/彼女が『現実的』な欲望をもち、僅かな施しにも喜びを感じるような習性を身に着けているならば、幸福や欲望充足の次元では高い位置にいることが可能である。ひとの物理的条件は、・・・幸福や欲望充足に全面的に基づく福祉の見解のなかには占める位置をもたないのである。
 さらに、どんな種類の人生が生きるに値するものであるかに関してそのひと自らが抱く評価を無視することにより、これら[効用を幸福と見る立場、効用を欲望充足と見る立場]2つのアプローチはひとの福祉に関わる重要な事実にさらにいっそう目を閉ざすことになる。
・・・・
 われわれが敢えて欲するもの、またそれを得られないときにわれわれが痛みを覚えるものは、『実現可能性』や『現実的な見通し』をどう考えるかによって影響される。われわれが実際に獲得するもの、また入手することを無理なく期待できるものに対して示す心理的反応は、往々にして、厳しい現実への妥協を含んでいるものである。極貧から施しを求める境遇に落ちたもの、かろうじて生延びてはいるものの、身を守るすべのない土地なし労働者、昼夜暇なく働き詰めで過労の召使、抑圧と隷従に馴れその役割と運命に妥協している妻、こういったひとびとはすべて、それぞれの苦境を甘受するようになりがちである。かれらの窮状は、平穏無事に生き延びるために必要な忍耐力によって抑制され覆い隠されて、(欲望充足と幸福に反映される)効用のものさしには、その姿を現さないのである。
(アマルティア・セン福祉の経済学』、訳34-36頁)

 ひとの「福祉(well-being)」とひとの「選好(preference)」とを同一視してはならない。満足度調査のようなものでは、ひとの「物理的条件」はわからない。また、本人が「(酒の量が増えたのは)自分の選択の結果だ」と言っていたとしても、それが「良き生」かどうかわからない。

 
 「震災直後は、1日おにぎり1個だった。みんなお腹を空かせてた。お腹を空かせた旦那さんのために、食べるのを我慢して旦那さんに与える奥さんもいた。ひもじかったけれど、辛くはなかった。
 小学生の時、ちょうど戦争が終わる頃、食べ物が何にもなくて、毎日、アワとヒエに少しの米を混ぜて食べてた。正月だけ、米を炊いて食べた。だから、震災後に食べるものが少なくても、米のおにぎりが食べられるだけ贅沢だった。
 戦時中は、毎日ひもじい生活を送っていたから。今は、生きてご飯が食べられるだけで贅沢だ。」
仮設住宅に暮らすAさん)
 
「本当は自分の家でゆっくり生活したい。けれども今の歳を考えると、そう贅沢は言ってられない。」
仮設住宅に暮らすBさん)



(仮設住宅の住人にお茶会への参加を呼びかけている学生。2013年2月に撮影)


「移動販売があるから買い物に不自由していない」
(仮設住宅に暮らすCさん)
 イオンや生協の移動販売車、NPOの宅配事業に助けられている人びとはたくさんいる。
 それは事実だし、それを担っている方々には敬意を表したい。
 しかし、それは、「平穏無事に生き延びるために必要な忍耐力」ではないか。
 Cさんの言葉を「厳しい現実への妥協」と受け止めたい。

 「妻が津波で流されてしまったから、ご飯を作ってくれる人がいなくなってしまったから、いまは、コンビニ弁当を食べていることが多い」
(仮設住宅に暮らすDさん)

 「一人で食べるご飯はおいしくない」
(仮設住宅に暮らすEさん)


 仮設住宅に暮らすFさんが、震災のことをそっと私に語ってくれました。
 「孫と旦那が津波で流されてしまったね。今も行方不明なの」と。
 震災が起こる数時間前、当時5歳だったお孫さんは、習っていたピアノをFさんに披露した後、「行ってきます」と告げ、ピアノ教室に向かい、その道中で津波に遭いました。
 「ランドセルも背負わしてやれなかったの。」
 「小学校に通う姿が見たかった。」
 Fさんは、
 「4年半が経って、今やっと立ち直ろうとしている」
と、話してくださいました。
 「私は、本当に生きていていいのだろうかっていう苦しみに駆られる時があるんだけど、こうやって、あなたたちみたいなよその方にお話して、共感してもらうことで、私は生きていてよかったんだと思うの。」
その話を聞いて、ただ、うなずくことしかできませんでした。
(4回生のレポートより)
 被災者の抱く悲しみ、喪失感を忘れてはならない。
 「平穏無事に生き延びるために必要な忍耐」と同時に、「前を向かないといけないわよね、いつまでも泣いてちゃいけないよね」と悲嘆を避けようとする気持ち、死を、行方不明をなんとか受け止めようとする気持ちを理解できるようになりたい。
 被災者に寄り添う中で、彼/彼女が置かれている「物理的条件」だけでなく、彼/彼女自身の生の「評価」の意味を理解できるようになりたい。


生きる意味の喪失〜ポーリン・ボス教授の言葉


 「神経心理学者のV .フランクルは、『人生の意味を見出したいという渇望は、人間に行動を起こさせる原初的な力である』と理論化しています。それがいかに陰鬱で恐ろしい場合であろうと、人生に意味を見出すことは、人間の生存に重要です。たとえば、『愛する人に二度と会えない』『人生はもはや意味がない』などのように、将来の目標についての希望が失われたとき、身体的にも、感情的にも、そしてスピリチュアルにも、生きる意思が放棄されてしまいます(Frankl, 1963)。言い換えれば、意味なしには、人間のレジリエンス[自己修復力ー引用者]が失われてしまうのです。
 そのため、意味の欠如は健康を脅かすものとになります。現在では、ナチスの収容所でフランクルが目にしたことは※、実証研究において支持されています。」
(ポーリン・ボス『あいまいな喪失とトラウマからの回復 : 家族とコミュニティのレジリエンス』中島・石井訳、誠信書房、2015年、108頁)
(注)V.E.フランクル夜と霧: ドイツ強制収容所の体験記録』霜山徳爾訳、みすず書房、1956年、池田香代子氏による新訳が2002年に刊行されている。)
 大切な人を喪失したり、そのことに強い罪悪感や後悔の念を抱いていたり、「生きる意味」を見いだせなかったり、「復興」という言葉が空々しく感じられたりと、その人の自律的・主体的な意思決定能力すら失われていた。
 それが震災後の被災地の状況だったのではないか。

 他方で、「一日も早い復興を」という被災者の声もあったし、国の「集中復興期間5年」の制約もあったので、市町村が復興計画の策定を急がねばならなかった事情は理解できる。また、「国の補助金が使える国の政策メニュー」の制約があったので、他の市町村と似たような、土木・建設事業中心の復興計画が出来上がってしまった事情も理解できる。
市町村による復興事業の説明会の場で、画一的な防潮堤や道路の建設計画に異議を唱えた被災者。彼に対して、「復興を遅らせるつもりか」と大声で罵倒した被災者。
 どちらも、被災者一人ひとりのことを真剣に考え、福祉(良き生)の向上を願っていたのではないか。どちらの気持ちも理解できるようになりたい。


 愛する家族を喪い、気持ちの「区切り」も「整理」も「受容」もできないような茫然自失の状況において、
 強い宗教的信念をもつ僧侶すら言葉を失ってしまうような過酷で抑圧的な状況において、
 被災者一人ひとりの自律的・主体的な意思決定能力をまず涵養させるような施策がまず必要だったのではあるまいか。(こちらのブログ記事を参照)。
 もちろん、「生きる意思」の「回復」はとても難しい。亡くなった人はかえってこない。
 それでも、「人間のレジリエンス(自己修復力)」の力を信じたい。「修復」を支援・応援しようとする「社会的存在としての人間」の力を信じたい。

 「後戻り」も含めて、何度でも何度でも修正可能で、被災者一人ひとりの自律的・主体的な意思決定の余地を残し続けておくような復興事業であってほしい。
 今からでも遅くはない。

 仮設住宅で出会った小学生の姉妹は、社会福祉協議会に勤める母親と一緒に、市の主催する手話講座に通い、手話を一生懸命習っていた。「困っている人を助けたいの」と言っていた。
 また、ある高齢女性は、震災後、ゲートキーパー講座に通い、「少しでも、同じ被災者の傷ついた心に寄り添いたい」とおっしゃっていた。
 


 「自分を待っている仕事や愛する人間にたいする責任を自覚した人間は、生きることから降りられない。まさに、自分が『なぜ』存在しているかを知っているので、ほとんどあらゆる『どのように』にも耐えられるのだ。」
(V.E.フランクル夜と霧: ドイツ強制収容所の体験記録』池田香代子訳、みすず書房、2002年、134頁)


困難な境遇に置かれても懸命に生きようとしている人たちがいる。

(スーパー・マイヤに買い物に向かう竹駒地区の仮設住宅の住人)


 「仮設なんかで死にたくない !」
(仮設住宅に暮らすFさん)


復興とは、被災者一人ひとりの「不自由」を除去し「自由」を拡大させるプロセスである。


 「開発とは、人びとが享受するさまざまの本質的自由を増大させるプロセスであると見ることができる。本書はこのことについて論じる。
 人間の自由に焦点を当てる開発論は、開発を国民総生産の成長、個人所得の上昇、工業化、技術進歩、社会的近代化などと同一視する狭い見方とは対照をなす。もちろん、GNPや個人所得の成長は、社会の構成員が享受する自由を拡大する手段として非常に重要なものになりうる。
 しかし、自由を決定する要因はそれだけではない。社会的・経済的な制度(例えば教育施設や医療)のほか、政治的・市民的権利(例えば公開の討論や検討に参加する自由)なども含まれる。
 ・・・開発を自由の拡大という基準で見ることは、開発の過程でいくつかの際立った役割を果たす手段だけではなく、なぜ開発が重要になるのかという目的に注意を向けさせるのである。
 開発の目的は、不自由の主要な原因を取り除くことだ。
 ・・・
 自由は、2つの際立った理由で、開発の過程にとって何よりも重要である。
 (1) 評価に関わる理由―進歩の測定は、人々がもつ自由が強化されたかどうかを主たる基準に行われなければならない。
 (2) 効果にかかわる理由―開発の達成は、人びとの持つ自由で能動的な力(free agency)に全面的に依存している。
 ・・・
 古めかしい『受動者』と『能動者(agent)』との区分にしたがえば、経済学および開発のプロセスを自由を中心にして理解することは、非常に能動者志向の見方である。適切な社会的機会を与えられれば、個々の人間は、自分の運命を効果的に構築し、互いに助け合うこともできる。
 人間をもっぱら巧みな開発計画が生む利益の受け身の受益者としてみなす必要はない。
 自由で持続可能な能動力(free and sustainable agncy)―さらには建設的な焦慮でさえも―の積極的な役割を認めることは、強い根拠があるのである。」
(アマルティア・セン『自由と経済開発』、原題は、Development as Freedom, 石塚訳、日本経済新聞社、2000年、1-10頁)
 「開発」を「復興」と読み替えてみよう。
 「復興」とは、被災者のさまざまな「不自由」の原因を取り除くことを目的とし、被災者のさまざまな「本質的自由」を増大させるプロセスである。
 「復興」の達成は、被災地の人びとがもつ、自由で能動的な力に全面的に依存している。
 適切な社会的機会を与えられれば、被災者一人ひとりは、自分の運命を効果的に構築し、互いに助け合うこともできる。
 被災者を単に復興計画の受益者としてみなすのではなく、自由で持続可能な能動的な力をもつ主体とみなすこと。
 センの潜在能力アプローチによれば、これが「復興」の要となるのである。


日本における「人間復興」の経済学〜関東大震災と福田徳三
 福田徳三は、関東大震災の発生直後の9月10日から、東京商科大生ら延べ65名を率いて5日間、羅災者実地調査を行った。また、10月13日から7日間、延べ人員72名で芝離宮芝公園内のバラック調査を実施した。総計2,866世帯、12,969人に及ぶ精力的な調査であった。
 この調査にもとづいて、福田は、政府の帝都復興計画に批判的な観点から、「人間の復興」を提起した。

 以下、福田の言葉を引用する。


 「復興は決して復興院のみの仕事ではない、否眞の復興者は羅災者自らを措いて外にない。自ら生きんとする強い衝動、人らしく、又獨立獨歩の人間らしく、慈善によらず、救護に頼らず、自らの働きを以って生きて行かんとする堅い決意を以て居る人が復興の最根本動力である。配給を受けることを絶大な恥辱と感ずる意氣ある人によつてのみ、眞の復興が成し遂げ得られるのである
 然るに今日迄の救護は、災後數日のやり方を其の儘継續して居るに過ぎない。羅災者に復興營生の機會を與ふると云ふことに就ては何をも爲して居らぬ。有形物の物質的被害の大なるに驚かされて、大災の爲めに人民の營生機會が滅ぼされたと云ふ無形の損害の甚大なることに氣が付かず、物の恢復許りを念として、此の無形なる損害を恢復し、一日も早く人人皆生産活動を始め、各人に自らの營生機會を獲得せしむることの急務なるを知らないのである。」
(福田徳三著[山中茂樹・井上琢磨編]『復刻版 復興経済の原理及若干問題』関西学院大学出版会、2012年、32-33頁。原典は、1924年。初出は、同「復興経済の第一原理」『改造』1923年11月号)
 福田の「営生機会」という概念は、生活・営業・労働の機会を総称したものだ(同上、133頁)。この考え方は、戦後、憲法生存権規定や、様々な災害復興の経験、災害救助法の制定・改正等々を通じて、部分的には実現されているものもある。
 しかし、「自ら生きんとする強い衝動、人らしく、又獨立獨歩の人間らしく、慈善によらず、救護に頼らず、自らの働きを以って生きて行かんとする堅い決意を以て居る人が復興の最根本動力である」とする思想、この「無形なる損害を恢復」させることが復興政策の要だとする思想は、アマルティア・センが『自由と経済開発』で強調した「能動力」(agency)としての自由(行為主体的な自由)の考え方に通じるものがある。

 今年10月、『福田徳三著作集』(全20巻)の刊行が開始された。編者の福田徳三研究会の代表・西沢保教授は、「刊行にあたって」の中で次のように述べておられる。


 「クリスチャンであった福田は早くから生きとし生ける者の生存権を主張し、生存権の保障を社会政策の第一義と考えた。関東大震災のときに『復興事業の第一は、人間の復興でなければならぬ』と言い、生存機会・営生機会の復興を唱えたことも、それは顕著である。資本主義システムの大きな転機に福田は、厚生とは『人間としての生を厚くする』ことだと述べ、社会なら社会の生命、個人なら個人の生命を進め、生を充実させること、それが善であり、富だと考えていた。これはオクスフォードの理想主義者ラスキンの'No Wealth But Life'『生こそ富である』という思想に近いように思われる。」
(注) 詳細は、西沢保「厚生経済学の源流−マーシャル、ラスキン、福田徳三」一橋大学経済研究所『経済研究』65-2,2014年を参照。
(注) 「生なくしては富は存在しない。生というのは、そのなかに愛の力、歓喜の力、讃美の力すべてを包含するものである。最も富裕な国というのは最大多数の高潔にして幸福な人間を養う国、最も富裕な人というのは自分自身の生の機能を極限にまで完成させ、その人格と所有物の両方によって、他人の生の上にも最も役立つ影響力をもっている人をいうのである。」(ジョン・ラスキン『この最後の者にも』飯塚一郎・木村正身訳、中公クラシックス、2008年、158頁)


人間の復興を
 震災後、急いで策定した復興計画、それに基づく事業も、結果的には、かなり長期にわたる巨大な事業面積の土木プロジェクトになってしまった。
 陸前高田市の旧市街地(高田・今泉地区)の宅地造成事業に、1,000億円以上もの莫大な国費が投じられている。同市全体の家屋倒壊戸数(全壊・半壊)は4,042戸だ。
 単純計算だが、1,000億円あれば、1,000万円を1万人の市民に分配できる。
 長期間にわたる復興事業は、結果的には、国費による宅地造成事業の完了を待たず、国費事業の恩恵をあまり受けない自力再建者や市外転出者を生み出してしまったのではないか。
 長期間にわたる復興事業は、想定使用期間が2年の仮設住宅での暮らしを4年10ヶ月もの長きにわたって余儀なくされることになってしまった。
 高齢者の人生にとって、そして子供の教育・成長・その後の人生にとって、この失われた歳月は、あまりにも長すぎるのではないか。
 震災以前から、日本の高齢者や子どもの相対的貧困率の高さや社会的孤立が深刻な問題になっていた。
 震災そして復興の遅れは、被災地の高齢者や子どもの貧困をよりいっそう助長したのではないか。


 (1) 所得不足による窮乏と、(2) 所得を機能に変換する際の困難との間には、不遇の『相乗効果』が存在する可能性がある。
 年齢、障がい、疾病といったハンディキャップの存在は、所得を稼得する人の能力をただでさえ低下させる。
 それのみならず、高齢者、重度障がい者、重病の人は(機能を達成することが不可能でないにせよ)同じ機能を達成するために、(介護、補助、看病に)より多くの所得を必要とするので、所得の潜在能力への変換はさらにいっそう困難な作業になる。
 そのため、(潜在能力の窮乏で見た)『実質的な貧困』は、重大な意味で所得の空間に見られる貧困以上に激烈なものになりうるのである

(アマルティア・セン『不平等の経済学[拡大版]』鈴村興太郎・須賀晃一訳、東洋経済新報社、2000年、237頁)

 上のセンの言葉を重く受け止めたい。
 復興政策において、被災者一人ひとりの「人間の復興」が軽視されていなかったか。
 「低所得で高齢の被災者は災害公営住宅に住む」という、被災者をひとくくりにしたような画一的な復興政策ではなかったか。
 阪神・淡路大震災で、多くの神戸市民が「(防げたはずの)孤独死」を悲しみ、悔やんだではないか。

 「高台に移り住む条件として、宅地造成が完了し宅地引き渡し後2年以内に、住宅メーカーとの建築契約が必要」(岩手日報2014年7月10日付)という形で進められた土地区画整理事業は、高齢被災者の選択肢を狭める結果になったのではないか。

 被災地の災害公営住宅の「空き部屋」問題は、震災後に顕在化した、高齢者の貧困や社会的孤立と密接に関わっているのではないか。

 「自助」や「互助」は重要だが、それだけでは解決しない問題ではないか。



【参考】
岩手県陸前高田市介護保険1号被保険者(65歳以上)の所得段階別人数・割合 (2015年[平成27年]度)

(出所) 『陸前高田市 高齢者福祉計画 陸前高田市介護保険計画(第6期) 平成27年〜29年』平成27年3月

陸前高田市の高齢者人口・要介護認定者の推計

 被災地において、総人口に占める後期高齢者の割合は急ピッチで増加していく。
 1947年〜49年に生まれた団塊世代は、東京五輪後に後期高齢者になる。


(出所) 同上



岩手日報2015年11月23日付
「災害公営住宅の入居低調 県内、建設遅れ意向変化」
 東日本大震災の災害公営住宅への入居が低調だ。入居が始まった2278戸のうち11.5%の262戸が空き部屋となっている。震災から4年8カ月が経過し、被災者の意向は変化。建設が遅れる中、高齢者は介護施設への入居を余儀なくされ、亡くなるケースもある。空き部屋の多さは入居者のコミュニティー運営に不安を残す。住宅再建の結論を決められずにいる被災者もおり、自治体は意向把握や再募集を急いでいる。
 県や沿岸市町村によると、県営の9月末現在、市町村営の10月末現在の空き部屋の合計は陸前高田市が415戸中123戸で最多。釜石市が462戸中47戸、山田町が121戸中30戸、大船渡市が352戸中30戸などとなっている。
 空き部屋の多くは、建設に時間がかかる中、自力再建や離れて暮らす家族との同居に転じるなどの意向変化が要因。沿岸部からの人口流出につながった可能性がある。
・・・
 今月から入居が本格化した陸前高田市の中田団地(197戸)は当初40%が空き部屋だった。9月にまとめた仮設住宅入居者の意向調査では、公営住宅希望でも仮申し込みをしていない世帯があるなど、自宅再建方法を迷う被災者は多い。
 ・・・
 入居者にとって空き部屋の多さは共益費負担増につながり、コミュニティー維持のうえでも課題だ。
 ・・・
 心情面、経済面など個々の事情から住宅再建の意向を決められない人は沿岸各地で相当数いる。大船渡市住宅公園課の課長は「最終的な受け皿として災害公営住宅は最有力。積極的に案内をし、早期再建に役立てたい」と強調する。
 ・・・空き部屋に伴う共益費負担増は重く、隣部屋に人がいない状況は孤立につながる恐れも。新しい環境で懸命に生きる入居者は、経済的な理由や時間の経過から空き部屋が増える状況を理解しながらも、不安を抱えている。
 釜石市の県営平田災害公営住宅(126戸)の自治会長(71)は「入居を希望していながら息子と暮らすため取りやめた人もいる。時間が経過し、計画を変更した人もいるだろう」と指摘する。
 現在、同住宅の空き部屋は13戸だが、入居が始まった昨年2月は40戸以上あった。特に苦慮したのが建物で使用する外灯やエレベーターの電気料金を賄う共益費。入居者で均等に分割するが、冬場は貯水槽の凍結防止などで負担が増え、合計で最大40万円、1戸約4千円に上ることもあった。
 K会長は『年金暮らしの高齢者が多く、少しでも安くしたい。数百円安くなるだけでも助かる人はいる」と入居促進を望む。
 大船渡大船渡町の災害公営住宅赤沢団地に住むSさん(80)は、『年を取ると仮設住宅から引っ越しをするだけでもつらい』と語り、入居が進まない現状に理解を示す。
 『環境が変わる新たな場所で暮らす決心がなければ、つらい生活になってしまう。決心がつかない人や、高齢で体力的につらい人が多いのではないか』と思いをよせる。
 同団地のKさん(85)も『家賃、光熱費に加え、お金がどんどんかかる。仮設から移る数が多くならないのはお金の問題も少なからずあるのではないか」と推察する。
陸前高田市高田町の西和野仮設住宅のSさん(67)は23日に中田団地に引っ越す。同団地は入居開始時点で約4割が空き。娘2人は独立し、震災の津波で夫と義母を亡くした。犬を飼うため『ペット可』の同団地を選んだが、愛犬を9月に失い『完全に1人暮らしになってしまった』と嘆く。
 仮設住宅では友人に恵まれ、『隣組』のような関係が築けたが、待望の『本設』の住まいで同じように暮らせるのか不安は色濃い。『みんな家を流され、私と同じように何年も待ってきたと思えるだけで心強いが、仮設の時のようにみんなが集まる場所になるか心配。空き室も多いようだし』とつぶやいた。」